第25話
行ってみたところで、何もわからないかもしれない。
それでもいいと紗季は思った。むしろ、そのほうがいいとも思えた。
みちびさんを疑いたくない。みちびさんは善意の人だ。唯一の味方だ。
兎の谷の街は、楽し気な観光客で溢れかえっていた。ホームに降り立つと、反対側の下り電車から、人が吐き出され、押し出されるように改札口へと向かっていく。
兎の谷が現在のような観光地になったのは、一九七〇年代だと聞いている。整体師として働いていた頃、年老いたお客さんから、鄙びた温泉街だった頃の兎の谷の街の様子を聞いた憶えがある。
「駅前なんか閑散としてね。山辺屋しかなかったんだよ」
山辺屋というのは、駅前にある漬物屋で、山あいの人々が日常的に食卓へ並べる野菜の煮付けなどを売っていたという。
今、店の前を通りながら、当時の面影を追っても、片鱗すら見つけられない。店構えは女性向けなのだろう。建物は明るい黄色に塗られ、店のいちばん目立つ場所に、ソフトクリームの幟と、この街のゆるキャラの大きな着ぐるみが置かれている。
山辺屋のまわりにも、都会風な飲食店が並ぶ。目新しいビルも見える。紗季がこの街で働いていた頃よりも、洗練されたように思う。
西町行きのバス停を目指して、紗季は駅前からまっすぐ山へ伸びる通りを渡った。
山から吹き降ろしてくる冷たい風が、サアッと通りを抜けていく。季節柄、温泉客が多い時期だからか、人の出は多かった。女性同士のグループが何組も楽しげに通り過ぎていく。雪になる予報なのか、誰の手にも傘がある。
大塚の話によれば、みちびさんは、二十六年前、高校卒業とともに生まれた村を離れ、この街で働き始めたという。
その頃、まだ、街は、今のように明るい温泉街というイメージではなかったかもしれない。
陰のあるあの大きな目で、少女だったみちびさんが、迫る山を見、閑散とした通りを歩く姿が目に見えるようだ。
十五分ほど待たされて、西町方面のバスがやって来た。両手を息で温めながら、紗季はいちばん後ろの席へ座った。その席なら、背もたれにもたれてしまえば、窓から隠れられる。
バスは中心街を抜けるとき、紗季が働いていた整体院の前を通る。目にしたくなかった。あの場所は、藍也と出会った場所だ。
数分バスに揺られていると、市街地を抜け、街の様子は一変した。紗季は目を瞠った。紗季が出張施術に訪れていたときよりも、家の数が増えている。
白い壁の真新しい家が続いた。
窓のすぐそばで通り過ぎる電信柱に、西町の表示を見つけたとき、社内のアナウンスが「次は西町六丁目」と、告げた。
西町六丁目で降りたのは、紗季だけだった。
バスが行ってしまうと、自分がぽとりと道にこぼれ落ちたように思えた。冷たい風の吹く道に、人通りはない。
周りを見回してみると、かすかな記憶が蘇ってきた。出張施術に訪れたときは店の車で来た。たしか、このバス通りを通った。
道は緩やかな下り坂だった。両側にぽつぽつと民家がある。古くはないが、そう新しくも見えない家々。この辺りは、いままでの道すがらよりも前に開発された地域なのだ。そろそろ雑木林が見えてきてもいい頃だと思った。出張施術で訪れたとき、雑木林の先に沼があったと記憶している。
柘植の木が、素人臭い剪定をされた家の前まで来て、沼がなくなったのだとわかった。
ふいに目の前に広がった空き地を茫然と眺める。空き地の端のほうに、富士山の形に砂利が積まれている。沼は埋め立てられ、砂利置き場になったのだろう。
――昔は
大塚はそう言った。
アパートはあった。空き地の北側に、二階建ての木造アパートが建っている。白っぽい外観で、右手に外階段がついたアパートだ。
見つけた。
そう思ったものの、足が竦んだ。大塚は大家と話してみればいいと言ったが、親族でも知り合いでもない者に、大家は昔の話を語ってくれるだろうか。適当な嘘をついて人のから話を聞き出すなどという芸当は、自分にはできそうにない。
やはり、大塚といっしょに来るべきだったのかもしれない。
とりあえず、アパートまで行ってみることにした。砂利だらけの空き地を進む。
アパートまでたどり着いて、建物を見上げたとき、隣の家から人が出てきた。大家の家だろう。立派な大谷石の塀に囲まれた家だった。
出てきたのは、あまり紗季と年の変わらないと思える女性だった。グレーの丈の短いダウンにジーンズを履いている。自転車を引いている。
呆然とアパートの前にたたずむ紗季を、女性は一瞥したが、興味もなさそうに自転車にまたがった。
呼び止めようとしたが、声が出なかった。その間に、女性は自転車を漕ぎ始める。あっという間に、坂道を上り始めてしまった。
紗季はあきらめて、アパートを眺めた。部屋数は一階二階とも四部屋ずつだった。小さなアパートだ。どの部屋にも、ベランダが付いている。洗濯物が干されている部屋が二ヶ所あった。そのほかはカーテンもなく
みちびさんはどの部屋にいたのだろう。そして、その千川明里という人は。
アパートの脇に立つ大きな木が、ザワザワと音を立てて揺れた。冷たい風が空き地のほうから流れてくる。
ここに沼があったとき、アパートのベランダは、沼に面していただろう。沼は木々に覆われていたに違いない。今、ベランダに陽の光が注いでいるが、沼があった当時は薄暗かったはずだ。通りから隠れるように建っているように見えただろう。
この場所を選んだみちびさんの気持ちが、紗季にはなんとなくわかる気がした。大塚に言わせれば、嫌な噂を流されていたという。人目から逃れて暮らすには、ここはぴったりの場所に思える。
こんなことをして何になるだろう。
紗季は空室らしき部屋の、景色を映す窓を見つめた。
偶然が重なって、みちびさんは不幸な出来事の身近にいた。それだけで、世間は不審な目で見たはずだ。自分までもそんな人たちに加担してはいけない。
帰ろう。
紗季は腕の時計を見た。まだ正午にもなっていない。今から戻れば、みちびさんに外出を気づかれる心配はない。
そう思ったとき、アパートの外階段を人が下りてくるのが見えた。
男性が二人。茶色いペンキがところどころ禿げた鉄製の階段を、静かに下りてくる。一人は片手に小さな花束を持ち、後から降りてきたほうは、俯きがちに目を伏せている。そして、後ろの男性が、途中で足を止め、アパートを振り返った。
あっ。
「――七澤さん」
混乱が紗季を襲った。なぜ、七澤がここにいるのだ?
紗季の声に、二人は同時にこちらに顔を向けた。
七澤が目を瞠った。同時に傍らの男性に、何か言葉をかける。
呆然と身動きできないまま、紗季は七澤が近づいて来るのを待った。
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