第24話 第七章


       第七章

 明里あかり

 その名前が、紗季の胸から離れない。


 紗季に似ていると大塚は言った。その女【ひと】は、みちびさんとどんな関係があったのだろう。

 胸がざわつく。

 そのひとを知らないほうがいいと、もうひとりの自分が囁く。みちびさんを信頼しているのなら、探らないほうがいいと囁く。


 大塚から押し付けられた名刺を、紗季は自分の財布の、チャックの付いた細いポケットにしまった。ここなら、みちびさんにバレる心配はないと思った。そう思った自分に嫌悪感を抱いた。でも、捨ててしまえなかった。

 翌日、みちびさんは買い出しに出かけた。出かける前に、集落の顔役の男性から電話が入った。もうすぐ迎える正月の行事の打ち合わせをしたいという。

「ちょっと遅くなるから、今日は昼間の営業はなしにしましょ」

「そうですね」

 買い出しの後打ち合わせをしてくるのであれば、午後も遅くならなければ戻れないだろう。

 胸のざわつきが激しくなった。


「どうしたの?」

 訝し気な視線を向けられて、紗季は慌てた。

「な、なんでもないんです。ただ」

「怖いのね」

 わざわざ店の出口から後戻りして、みちびさんは紗季の肩に手を置いてくれた。

「だいじょうぶよ。日の明るいうちには戻ってくるから」

「はい」

 俯いて頷く。

 罪悪感で顔が上げられなかった。嘘をついてしまった。いちばんの味方であるはずのみちびさんに。

 だが、もう止められない。

 

 みちびさんの車が駐車場を出て行くのを確かめると、紗季は二階へ駆け上がった。 

 紗季用にあてがわれている部屋に置いたハンドバッグを掴む。体が勝手に動いていた。今しかチャンスはないと、もうひとりの自分が急き立てる。

 ハンドバッグから財布を取り出す。チャックを開け、大塚の名刺を取り出した。名刺には大塚の携帯電話の番号が記されている。

 番号を呼び出し、スマホをを耳に当てる。

 大塚はすぐに出た。眠そうな声が、紗季と認識すると、目が覚めたように力が入った。


「待ってましたよ」

 ガサゴソと声の向こうで物音がした。まだベッドにいたのかもしれない。

「話してくれる気になりましたか」

「あの――お電話したのは、知りたくて、わたし」

「何を、ですか」

「明里さんのことです」

「どうしてですか」

「どうしてって――わたしに似てると」

 ふーっと大塚が息を吐いた。


「知れば、みちびさんを恐れるようになりますよ」

 もう、後戻りはできない。

「とにかく、明里さんという人に会ってみたいんです。彼女の連絡先を教えてください」

「それは無理です」

「どうして」

「彼女は亡くなりました」

「え」

 ぽとりと、紗季の胸に石が投げ込まれた。重くて硬い石。


「だから、会おうとしても無理なんですよ」

「……」

「彼女は、みちびさんが旅館を出てから蛍火で暮らし始める前に住んでいたアパートの、隣の部屋に住んでいた人です」

「彼女も、不審な亡くなり方を」

 語尾が震えてしまった。

「そうです。旅館を出たあとのみちびさんを調べて、兎の谷のアパートに住んでいたことを突き止めましてね。そこでその女性が亡くなっていたのを知りました。会ったわけじゃありませんけどね。大家がたまたま写真を持ってまして、見せてくれたんです」

 その写真の女性が、自分に似ていたのか。


「そのアパートで亡くなったのは、明里さんだけじゃありませんでした。もう一人、男性が亡くなっています。明里さんは、その男性と心中したと言われてるんですが」

「心中……」

「僕はそうは思ってませんよ、もちろん。僕は、みちびさんが何らかの関与をしたと疑っているんです」

「教えてください」

 紗季は語気を強くした。

「明里さんのいたアパートの場所を」

「構いませんが」

 声の向こうで、ふたたびゴソゴソと物音がした。

「アパートは西町四丁目――」

 西町なら、土地勘があった。兎の谷で整体師として働いていたとき、出張施術で何度も訪れた憶えがある。兎の谷の街のはずれにある。もともと農地だった場所が、造成されてのっぺりとした住宅街になっていた。ところどころに、竹林や雑木林が残っていた。

「昔は穏乳おんち沼があったところで。その沼のすぐ脇の、コーポ・白井っていうアパートです」

 

 紗季の脳裏に、薄暗い沼が蘇った。近くを通るたび、薄気味悪い思いをしたものだ。


「いつ行きますか」

 大塚の問いに、紗季は曖昧に答えた。

「今日は無理ですが、明日なら」

「いえ、一人でだいじょうぶです」

 もし、みちびさんに知られたとき、大塚といっしょであっては言い逃れができない。

 そうですかと、大塚はため息まじりに応え、それから続けた。

「どうしても今日というなら、それもいいかもしれない。今日は命日だから」

「え」

 紗季は耳を疑った。

「九年前の今日です。千川明里さんが亡くなったのは」

 これも何かの因果なのかもしれない。

「アパートの隣に大谷石の塀に囲まれた大きな大きな家があります。そこにコーポ・白井の家主が住んでます。話好きの婆さんだから、当時のことを教えてくれますよ」

 カウンターの上に置かれた小さな時計を見た。

 午前八時七分。兎の谷までは、電車で一時間ほど。急行を捕まえれば、午前中には西町へたどり着ける。

 みちびさんが戻ってくるまでに、七時間ほど余裕があるだろう。

 紗季は出かけるために、戸締りを始めた。



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