第23話
大塚の車が走り去るまで、紗季は動けなかった。大塚の言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
あんたが見たことを言えばと、大塚は言った。
警察もわかってくれると、大塚は言った。
もしや大塚は、みちびさんが安東に何かしたと思っているのか?
大塚も七澤と同じように、誤解している。巻き込まれたのは、自分ではなく、みちびさんのほうだ。みちびさんは、何も悪くない。助けてくれただけだ。途方に暮れた自分を、あの人は救ってくれただけだ。
急ブレーキの音をさせて、みちびさんの車が止まった。大塚の名刺を、紗季はさっと掌の中に隠す。
「紗季ちゃん、今、すれ違った車」
車から出てきたみちびさんが、道の先を見つめた。
「大塚ね。またやって来たのね」
曖昧に、紗季は頷く。
「まったく、図々しい人だわ」
車のトランクから、雪かき用のスコップを取り出しながら、みちびさんは忌々しげに言い放った。
「何の話をしていったの?」
「――それは」
「勝手にいろんなことを調べて回ってるのね。警察でもないくせに」
「でも、藍也と同級生だったから、行方が心配なんじゃ」
「まさか。何年も会ってないって言ってたじゃない。何か探り出して、脅しの材料にでもしたいのよ」
「脅し?」
「そうよ。人の弱みを握って金でもせびろうとしているんだわ」
そうだろうか。大塚からは、そんな姑息な意図は感じられないが。
「――あの」
喉の奥に引っかかった棘のように、大塚の口にした名前が気になる。
「明里さんていうのは」
瞬間、みちびさんの目の光が強くなった。
「どうして、その名前を?」
「大塚さんがわたしに似てるって」
口を半開きにして、みちびさんが紗季を見据える。その間、ほんの数秒だったにも関わらず、紗季にはひどく長く、重く感じられた。
「わたしに似てるんですか」
「さあ、どうだったかしら。憶えてないわ。ずっと昔の知り合いなの」
いままでは自分に降りかかった災難に頭がいっぱいで、みちびさんという人について知らないまま過ごしてきた。
考えてみれば、おかしな話だと思う。もう、半年以上寝食を共にしているというのに、彼女について、自分は何も知らない。
訊かなかった自分が悪いのだろうか。だが、みちびさんからも、自身の過去についての話は、一度もされた憶えがない。
「ここに引っ越して来る前は、どちらにいらしたんですか」
勇気を振り絞って、紗季は訊いた。大塚に言わせると、みちびさんは兎の谷にいたという。大塚は蛍火も見つけ出した。だが、みちびさんの口から直接聞きたい。
「麓の町よ」
「麓の町」
紗季はゆっくりと繰り返した。みちびさんは、嘘をついている。手に汗が滲んだ。
「麓の町のどの辺りですか」
「どこって」
みちびさんは、ちょっと言い淀んだ。
「もうよしましょ。あんまり話したくないのよ」
「――話したくない?」
「そうよ。ここに来る前に、いい思い出なんか一つもないの。だから、思い出したくない」
いままでの紗季だったら、そのまま話を終わらせただろう。
でも、わかって欲しい。みちびさんの過去を無理に暴きたいわけじゃない。自分はただ、七澤や大塚の誤解を解きたいだけだ。
みちびさんには助けられた。みちびさんは善意の人だ。
「紗季ちゃん、心配はいらないわよ」
「え」
「あたしがなんとかするから」
「なんとかって……」
みちびさんから返事はなかった。一つ目の砂袋を、エイッと掛け声をかけてから、店のほうへ運んでいく。
どんな解決法があるというのか。大塚は藍也の失踪を、蛍火に結びつけている。それは正しい。もう、大塚が抱えた疑惑を消すことなんかできない。大塚自身が消えてしまわない限り。
「――あの、みちびさん」
声を出した途端、掌にさっと汗が滲んだ。
大塚があなたの過去を探っていると、彼女に伝えるべきだ。そう思うのに、言葉が出てこない。
「何?」
砂袋を両手に抱えたまま、車のトランクから顔を上げたみちびさんの目が光る。
「な、なんでもないです」
いったい、自分は何に怯えているのだろう。
「手伝います」
紗季は慌てて砂袋を抱えた。
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