第22話

「はじめはみちびさんのことなど、興味はなかった。僕はただ、安東の行方が知りたかっただけ。安東の足取りを追っていただけだった。あの日の安東の足取りを掴むために、集落の人々からも話を聞いて回りました。結論から言えば、ハズレです。集落の誰も、安東を見かけていない。だが、人々の口に上がる疑問に、僕は興味が湧いた」

「疑問?」

「ええ。疑問というほどのもんじゃありませんね。ちょっとしたわだかまりというか。蛍火についてです」


「ここについて――」

「ここは集落の人たちが集う楽しい場所らしい。誰もが蛍火という名を口にするとき、好意的だった。だが、誰もがちょっと奇妙に思っているんですよ。なぜ、こんな場所に店を開いたのかって」

「それは、たまたま、売りに出されて」

「そうでしょう。そうみちびさんが言ったんでしょう」

 紗季は頷く。

「ここ、もとは、材木小屋だったらしいですね。何年も放置されたまま、朽ちるままにされていた建物。隣町に抜ける道路際ではあるが、裏は欝蒼とした竹林で、店の横には、川が流れて急な崖になっている。しかも、店の前の道は急カーブしていて、車が止まり易い場所じゃない。ということは、店舗には向かないってことです」

 それは、ここで働きはじめたとき、紗季も感じた。奇妙な場所にあるスナック。時代に取り残されたような、いや、人の暮らしから離れた場所にある店。そう思った。

「そんな場所に、なんの伝手つてもなく、店を開いて暮らしはじめた女性、それがみちびさんだ。しかも、集落の人たちは、誰も彼女の素性を知らない。これには何か釈然としないものを感じましたよ。集落というのは、プライバシーのない空間です。集落の人たちは狭い人間関係の中で生きている。お互いの事情は筒抜けなんです。それがお互いを守る安全網の役割を果たしている。ところが、みちびさんに関しては、情報が集まらない。いつまでたっても余所者のままだ。誰もが不安を覚えている」


 ふうと大塚は息を吐き、続けた。


「彼女の素性が知れないのは、頑なな彼女の態度が原因です。彼女は自分の過去をひた隠しにしているんだ。そんな彼女の過去を、僕は暴きたくなった。それでね、彼女について調べてみたんですよ」

 聞きたくなかった。だが、大塚の目は紗季を捉えて離さない。

「僕は仕事柄、いろんな人間と付き合いがあります。麓の町の古い人間にも知り合いがいて、いろんな話を聞く機会がある。だけど、みちびさんを知る人を探し出せなかった」

「みちびさんは麓の町の生まれじゃないから」

「知ってるんですか」

 紗季は首を振った。

「そんな話をなんとなく彼女から聞いた憶えがあるだけです」

「彼女、それ以上は何も言わなかったんじゃないですか?」


 蛍火に来るまで、どこにいたんですか。

 そう訊いたとき、みちびさんにははぐらかされてしまった。きっと話したくないのだろうと思った。それならそれでいいと思った。今も、その気持ちは変わらない。


「とりあえず、僕はこの蛍火を仲介した不動産屋に当たってみました」

 そんなことまでして。大塚は本気なのだ。

「ここを仲介したのは、麓の町の駅前にある有田不動産ってとこでね。飛び込んでいっても何も教えてくれないだろうから、僕は町の知り合いのツテを頼って、有田不動産の社長を紹介してもらいました。社長はみちびさんをよく憶えていましたよ。山の中にある古びた材木小屋を買いたいなんて、めずらしいと思ったからと。しかも、彼女は社長の言い値ですぐに購入を決めたそうです。といっても、こんな山の中ですからね、かなり安い値段だったようだが。今から十二年前のことです」

「十二年前……」


 紗季はみちびさんの正確な年齢を知らない。四十代だろうとは推測しているが、自信はない。

 みちびさんはいろんな顔を持っている人だと思う。数歳しか年上なんじゃないかと思えるほど艶やかに見えるときもあれば、老婆のような表情を見せるときもある。

「そして彼女は、建物を改装して、スナック・蛍火を開いた。改装は絶対必要だったんですよ、当たり前ですけどね。何せ、元材木小屋だったんですから、ここは。スナックとして使うには、それなりの店構えが必要だった。おかげで、みちびさんのことを知る取っ掛りができました」

「どういうことですか?」

「社長にそのときの改装業者を教えてもらったんですよ」


「改装業者?」

 大塚は自慢気に頷いた。

「工事に出入りする職人たちは、オーナーと何かと話をするもんなんですよ。特に小さな工事なら尚更。大工や塗装業者。みんな、仕事をしながらオーナーに細かいところは訊きながら仕事をすすめていくもんなんです」

 そうかもしれない。紗季にそんな経験はなかったが、なんとなく想像ができた。壁の色はどっちがいいかとか、残った壁紙はどうすればいいとか。


「僕の予想は大当たりでね。十二年も前の話だから、職人は二人しか見つけられなかったけど、二人はしっかり彼女のことを憶えていた」

 ごくりと、紗季は唾を飲み込んだ。

「大工の親爺さんがね、言ったんですよ。会ったことある人だったって」

「会ったことがある人?」

「そう。みちびさんに、この蛍火の仕事で出会う前に、会っていたと言うんだ」

「どこで」

「兎の谷です」


 ああ、だから。


 紗季は納得がいった。藍也を殺してしまった後、蛍火に落ち着くまで、紗季はみちびさんの指示でホテルを転々とした。泊まり歩いたのは、兎の谷のホテルだった。みちびさんは、兎の谷に詳しかった。


「みちびさんは、兎の谷の蛍火にいたんですよ」

「えっ?」

 意味がわからなかった。

「蛍火って――どういうことですか」

「みちびさんは、蛍火という名の旅館で働いていたんです。兎の谷の中心街からちょっと離れた場所にある中規模の旅館です」

「蛍火……」

 その響きは、紗季の知っている蛍火とは大きく違うように思われた。似ているが、全く別物に聞こえる。


「みちびさんは、県境の、今は廃村になっている日々木村ひびきむらというところで生まれました。村を出たのは、高校を卒業したときです。蛍火のオーナーが、どういう経緯いきさつでそうなったかはまだわかりませんが、高校を出たみちびさんを引き取って面倒をみたようです。親同然に面倒をみてくれたようで、おそらく」

 大塚は店を一瞥してから、紗季に顔を戻した。

「この店の名前は、恩義のあった蛍火の名から取ったんでしょう」

「そこで、どんな仕事を」

 

 紗季の中で、旅館とみちびさんが結びつかない。旅館は、人の出入りが多いだろう。大きな宴会場もあったというなら尚更だ。

 

 意外だった。みちびさんには、賑やかな場所は似合わない。勝手な思い込みだが、みちびさんの背後には、なぜか人の姿が浮かんでこない。

「下働きのような仕事から経理まで、なんでもやっていたようですよ。何せ、高校を卒業してから十四、五年も働いていたんだから、いろんな仕事に就いたんでしょう。実際に蛍火に行って話を聞いてきました。賢くて働き者だったようです。何をやらせてもそつなくこなす人だったと、彼女を知る人は口を揃えて言ってました」

 

 辞めた理由は何だろう。十四、五年働いていたという。その間は、女としては生活に変化が起き易い時期だ。結婚はしたのだろうか。

 

 紗季の疑問を察したかのように、大塚が続けた。

「あの通りの容姿だから、男関係もいろいろあったようですが、噂だけで消えてしまう話ばかりだったようです。結婚もしていません。いずれ独立するつもりがあったのかもしれませんね。いっしょに働いていた仲居さんと話をしたんですが、人との付き合いを抑えて、貯金に励んでいたようですよ」

 その金で、蛍火を開いたのだろう。一人の少女がそれを実行するのは強い意思が必要だったのではないか。

 

 みちびさんの強さの片鱗を、紗季は見た気がした。

 どこかけだるく、世間に背を向けているような雰囲気を醸し出しているが、頑なな一面も紗季は感じている。いずれ店を持つ目標を胸に秘めて、みちびさんは懸命に働いていたのだろう。そして、金が貯まり、蛍火を辞めた。

 

 どこにもおかしいところはない。

 

 胸をなで下ろしている自分がいた。自分が頼って生きているみちびさんという人に、間違いはない。

 

 大塚の目が、細められた。

「その仲居さんから、ちょっと怖い話を聞いたんですよ」

 ドキンと、紗季の心臓が撥ねた。

「怖い話?」

「そう。偶然の域を出ない話で、その仲居さんも曖昧な言い方しかしなかったんだが」

 そう言ってから、大塚は真剣な目になった。

 宿にとっては、至極迷惑な事だが、まれに、宿で自殺をする者がいる。蛍火でも、二人、部屋で命を絶った客がいた。かなしい不幸な出来事だが、宿としては、法律にのっとって処理をするしかない。警察が呼ばれ、身内に連絡がいき、すべてが終わったとき、みんなの間に、ひとつの噂がまことしやかに流れ始めたという。


――あの人が担当した客は、死を選ぶ。

 

 あの人。

 みちびさんだった。


「亡くなった二人の泊まっていた部屋を、みちびさんが受け持っていたんですよ」

噛み締めるように、大塚は言った。

「そんな」

 紗季は首を振った。

「そんなの偶然です。たまたまみちびさんが世話をしたからって。だって、そこで働いている以上、ほかに何回も部屋を受け持ったわけでしょう? その全員が亡くなったわけじゃないはず」

「そうだよね。だけど、僕はそんな噂が流れるのも無理はないと思う。この二人だけじゃないから、亡くなったのは」

「でも、二人だったと」

「その宿に泊まっている間に亡くなった方は二人です。でも、宿を出て、元の生活に戻ってから不審な死に方をした人が、三人」


「三人も……」

「それがわかったのは、一人の亡くなられた方の家族が、亡くなった方を偲んで、宿に泊まりに来たそうなんですよ。それで、亡くなったときの様子を聞くことができたらしいんだが」

 聞きたくない、これ以上。逃げ出したい、目の前の男から。

 ふいに、大塚の手が、紗季の手首を掴んだ。

 紗季は目を剥いて大塚を睨んだ。


「知ったほうがいい。あなたのためだ」

 掴まれた手首に、力が入る。

「その人ね、怯えていたらしいんですよ」

「怯えてた?」

「そう。何かに追われているみたいだったと、家族はそんなふうに言っていたようです」

 ぞくりと背筋が震えた。怯える者の恐怖が、紗季にはわかる。痛いほど、わかる。


「それで、当時、みちびさんと折り合いの悪かった同僚が、興味本位で、みちびさんの担当した客に連絡を取ったんだそうです。宿帳には、宿泊客の氏名と住所が記されてますからね。宿の従業員なら、こっそり調べることはできる。そうしたら、あと二人、同じような死に方をした人がいるとわかって」

「ぐ、偶然です。そんなの、偶然に決まってます」

 掴まれた手首を振りほどこうとしたが、大塚は紗季を捉えて離さない。


「そう。偶然かも知れない。だけど、そうじゃないかもしれない。僕は、偶然じゃないと思った。だから、その三人のうちに一人を調べた」

 宿の従業員なら、宿泊客の住所を知るのは簡単だろう。

 だが、大塚はどうやって。

「その一人の名前と住所を知るのは簡単でしたよ。不審な死に方をした三人を見つけ出した仲居さんがね、すすんで教えてくれたんだ」

 そう言ってから、大塚は紗季を掴んだ手の力を緩めた。弾かれたように、紗季は腕を離す。


「似てるよ、あんた」

「え」

「あんたを初めてみたときから、そう思ってたんだ。あんたは明里さんに似ている。

 彼女もあんたみたいに、怯えた小動物みたいな目をする人だった」

「その明里さんというのは……」

 大塚の目が、瞬間、陰った。

 そのとき、道に車が見えてきた。みちびさんだ。


「あんたさ、悪いことは言わない。あの女は信用しないほうがいい。あの女は、まだまだ叩けば埃が出てくる気がする。僕は彼女が生まれたという日比木村にも行ってみるつもりですよ」

「日比木村?」

 みちびさんの口から、その名前が出たことはない。

「旅館の同僚だった女性から、みちびさんの出た高校を突き止めてね、同級生を探し出したんだ。それで、みちびさんの生まれた村がわかった」

 そして大塚は胸のポケットから名刺を取り出した。名刺は、紗季の鼻の前へ突き出される。

「あんたが安東といっしょにいたと、わかってるんだ。これ以上ごまかそうとしたって無駄だよ」

 大塚の目が光った。

「あんたが見たことを言えば、あんただけは助かるかもしれない。警察だってわかってくれる」

 紗季には、大塚の言う意味がわからなかった。


 自分だけが助かる?


 それはどういう意味だ?


 車の音が響いてきた。

 音は徐々に近づいてくる。


「話したくなったら、その番号に電話をくれ」

 大塚はそう言い捨てると、車に戻って行った。

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