第19話 第六章
凍てついた夜空に、星が瞬いている。
フロントガラス越しの夜空は、パノラマ映画さながらだ。藍色の空の下に、町が黒く沈んで、深い海のように見える。
黒く沈む山並みの向こうには、星屑を集めたように光る兎の谷の町が見えた。町の灯は、ささやくように瞬いている。
白い息を吐きながら、紗季はみちびさんに顔を向けた。
「どうすれば――これから」
車がどこをどう走ったのか、紗季にはわからなかった。車は、麓の町を見下ろす高台の空き地にある。
空き地にあった自動販売機から、みちびさんが缶コーヒーを買ってきてくれた。熱い液体を喉に通して、やっと人心地つけた。
「夜が明けたら、町へ下りましょう」
「町へ? 蛍火には戻らないの?」
「急いだほうがいいと思うの。だって、明らかに化け物は力を増してきているのよ」
そのとおりだった。徐々に化け物は大きくなっている。
「有賀さんのところへ行くのよ。有賀さんに、あの指輪をどこで手に入れたか訊かなきゃ」
「わからなかったら」
「またそんな弱気な。見つかるまで食らいついていくしか道は残されていないのよ」
クイッと缶コーヒーを飲み干して、みちびさんは両手をこすり合わせた。
「寒いわね。こんなことになるんだったら、厚手のコートを着てくればよかったわ」
「お店のことが心配です。だって鍵も閉めないまま来てしまって」
「そんなこと気にしなくていいわ。店に泥棒が入るわけがないんだから」
たしかに、集落では、家の鍵をかけないのが普通だと、紗季は聞いた覚えがあった。
「それより、早く手を見つけ出して元の体に戻さないと」
時刻は午前二時を回ろうとしていた。まだ夜が明けるまでに時間がかなりある。早く夜が明けて欲しいと、紗季は空を見つめた。
化け物は、夜にしか現れない。紗季はそう思っている。おそらく、昔から人を惑わす数多の異形のものたち同様、化け物は夜の闇に乗じて姿を現すのだ。
しかも、化け物は、正確に言えば、紗季の前だけに現れる。紗季の視覚を通してしか、認識されないのだ。
「ごめんなさい、みちびさん」
紗季の口から、自然に言葉が漏れた。
「わたしだけで逃げてくればよかった。みちびさんには化け物が見えないんだから」
「そんなこと言わないの」
「だって」
「あたしは、紗季ちゃんを助けたいのよ。恐ろしいモノに脅かされている者の隣で、手をこまねいて見ていたくないの。見捨てたらどうなるか、あたしにはわかって」
そこまで言って、みちびさんはハッと口をつぐんだ。
「とにかく、紗季ちゃん一人じゃどうにもならないでしょ」
そのとおりだ。みちびさんがいなかったら、とっくにあの不気味な化け物に絡め取られていただろう。
絡め取られたら、その先はどうなるのか。
紗季はその疑問を口にしてみた。
「もし、化け物に捕まったら、どうなるんでしょうか」
無力感に苛まれた。心のどこかで、自分は逃げ切れないと思っている。七澤は、いっしょにこの土地を離れようと言ってくれた。だが、それまでに化け物がもっともっと近くまで迫ってきたら?
しばらく沈黙したのち、みちびさんは言った。
「取り込まれるんでしょうね」
「取り込まれる?」
「そう。あの化け物の一部になるんじゃないかしら」
「――一部」
「そして永遠に、闇の中で彷徨い続けるんだと思うわ」
背中を、ぞわりと恐怖が走った。
みちびさんの横顔は、半分陰になっている。暖を取るために、かけっぱなしにしたエンジンのせいで、車の中の電気系統のか細い明かりが、みちびさんの横顔を薄く浮き上がらせている。
みちびさんは、知っている。
ふいに、そう思えた。
この人は、異形のモノと、以前にも対峙した記憶があるんじゃないか。
「どうしたの、紗季ちゃん」
「な、なんでもありません」
みちびさん、あなたはどこから、あのさびしい店にやって来たの。
あの店に来るまで、あなたはどこで何をしていたの。
紗季は空の星を見つめ続けた。
第六章
有賀さんの経営するリサイクルショップは、町の郊外の国道沿いにあった。ホームセンターのように、店舗の前には広い駐車場が用意されていた。
開店の九時を待つために、早めに駐車場へ車を乗り入れてみると、早々に出勤している店員が、店の前に商品を運び出している最中だった。家具や電化製品を、二人の店員が陳列している。
有賀さんの出社時間を訊くと、もうすぐだと教えてくれた。
「中に入って待たせてもらいましょ」
そしてみちびさんは、店員に一人に、その旨を告げた。店員は快く店舗の奥にある事務室に案内してくれた。
ハンガーにかかった服や腕時計が並べられた硝子ケースの合間を縫うように進み、奥へ向かった。奥へ行くほど置かれた商品は雑駁となって、骨董屋と見紛う品が増えていった。大きな奇妙な形をした壺や、埃をかぶったままの数本の掛け軸。奥へ行くほど、陳列の仕方は乱雑になっていった。通路も細くなり、事務室に着く頃には、足元に転がっている商品を踏まないように注意しなくてはならなかった。
中年の女性の事務員が一人、パソコンに向かう部屋に通され、紗季はみちびさんとともに、端のスチール椅子に腰掛けて待つことになった。
九時を前に、有賀さんが出社してきた。
「蛍火のママが来てるって?」
入口のところで、聴き慣れた声がしたと思うと、有賀さんが事務室に入ってきた。
「あれ? 紗季ちゃんまで来てるのか」
そしてみちびさんに顔を向け、
「こんな早くからどうしたの」
訝しげに訊く。当然だろう。買い物に来たにしては時間が早すぎる。
みちびさんが聞きたいことがあると言うと、その表情から、何か真面目な話だろうと踏んだのか、有賀さんは紗季たちをパーティションで仕切られた応接スペースに招いてくれた。
応接スペースには、ちょっと場違いなほど豪華な革張りの黒いソファセットがあった。その手前側に、よっこいしょと呟いて腰を下ろした有賀さんは、紗季とみちびさんを奥へ促した。
「それで、何」
そう言ってから、有賀さんはおばさんの事務員にコーヒーを頼む。
みちびさんが紗季に視線を合わせてから、切り出した。
「こんな時間に突然訪ねてきて、訊くような話じゃないんだけど」
ますます有賀さんは、不審な表情になった。
「昨日、マッくんが店に来たの」
「そう。それが?」
「マッくん、女の子を連れてきたの。気に入ってる子らしいわ」
「あれだろ? ジャスミンとかいうスタイルのいい女だろ?」
みちびさんが頷いた。
「めでたいよな。あいつ、彼女ができたの、何年ぶりだか」
「その子に、マッくん、指輪をプレゼントしたみたいで」
「指輪?」
有賀さんの目が光った。
「髑髏の形をしたちょっとめずらしい指輪よ」
すると、有賀さんは、ああと呟いた。
「あれがどうかしたの」
「マッくんは有賀さんから貰ったって言ってたけど」
「彼女にプレゼントをしたいけど、あいつ、金がないって言うから。たまたま店で仕入れたばかりの指輪をやったんだよ」
みちびさんが、紗季を振り返った。硬い表情だ。紗季も唇を噛み締める。
「おいおい、どうしたんだよ」
有賀さんが、慌てたように言う。
「あの指輪がどうかしたの?」
「誰から仕入れたんですか」
紗季が質問した。
「誰からって」
有賀さんが目を瞬く。紗季の言い方が、真剣すぎたのだろう。みちびさんが言い直した。
「すてきな指輪だと思ったの。それで、どこで買えるのか知りたいと思って」
「いや、正確に言うとね、仕入れたってわけじゃないんだよ。貰ったんだ」
「個人的ってこと?」
みちびさんが訊いた。
「そう。古川だよ。あいつが俺のところに指輪を持ってきてさ、貰ってくれって。四千円ばかし払ったよ」
やはり手を拾ったのは、古川さんだったのだ。紗季はみちびさんに頷いた。
「ちょっと、どうしたの。あの指輪、貰っちゃまずかったわけ?」
「そうじゃないのよ」
大げさなほど、みちびさんが明るく言った。
「古川さんに訊いてみます」
う、うんと、有賀さんは腑に落ちない表情で頷く。
みちびさんが立ち上がった。紗季も続いて立ち上がる。
「おい、なんだっての」
「すみません、朝からお邪魔して」
紗季もみちびさんに続いて、お辞儀をした。
「また、店へ遊びにきてくださいね」
ああと、頷いた有賀さんだったが、狐につままれたような表情をしたままだった。
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