第18話

「この指輪をどこで買ったかって?」


 みちびさんの問いに、マッくんの表情は硬くなった。

「だってすてきなんだもの。あたしも買いたいなと思ったのよ」

「そんなこと言われてもなあ」

「麓の町?」

 小鉢はサービスよと言いながら、みちびさんは食い下がる。

 マッくんはちらりとジャスミンを見てから、バツの悪そうな顔になった。


「実は買ったんじゃないんだよ」

「そうなの?」

 ジャスミンが拗ねたような目をマッくんに向けた。紗季はカウンターの中で耳を立てながら、忙しない息を繰り返した。

「有賀さんに貰ったんだよね」

「じゃ、タダだね!」

 ジャスミンが膨れる。


 有賀さんは、麓の町の郊外でリサイクルショップを開いている。ということは、誰かが骨を拾い、指輪を抜き取って有賀さんに売ったのだろうか。

「次はいいのを買うよぉ。だけど、これさ、かっこいいだろ?」

 みちびさんがジャスミンの手に顔を近づけた。

「そうよ、すてきだわ。きっと、一品ものね」

 みちびさんの言い方に不自然さはない。


「有賀さんは、これをどこで手に入れたのかしらねえ。誰かの手作りかしら」

「知り合いが持ってきたって言ってたな」

 ビールを飲みながら、マッくんが言った。

「教えて欲しいわ。売ってるところ」

「そんなに気に入った? 嬉しいじゃん、俺のセンスをわかってくれて」

 ふふっと返したみちびさんの微笑みが冷えているのを、マッくんは気づかない。

「有賀さんに訊けば、これを持ってきた知り合いを教えてくれるよ」

「そうね。訊いてみる」


 それから二時間余り、マッくんとジャスミンは蛍火で楽しんだ。マッくんは何曲も歌い、スローな曲になると、二人で抱き合って踊ったりもした。

 紗季は藍也の指輪から目が離せなかった。土から掘り起こされて、磨き直されたのだろう。指輪は静かな光を放ち、確かな存在感を見せつける。見つめれば見つめるほど、藍也に対峙しているかのような息苦しさを感じる。


 表は風が出て、冷え込みが強くなった。ほかに訪れる客もなく、店はマッくんの言ったとおり貸切だった。

「明日、有賀さんを訪ねてみましょ」

 がなり立てるマッくんの歌声の合間に、みちびさんが紗季にささやいた。



 十一時を回った頃、マッくんはジャスミンに引っ張られるようにして、店を出た。

「おお寒い」

 肩掛けを羽織ってみちびさんが、二人を送る。紗季もストールを首に巻いて後ろに従った。

「こんな、ヨッパライ、こまるヨ」

 ジャスミンは心底迷惑そうな顔つきで、マッくんを車に載せた。帰りの運転は彼女の役目のようだ。


「気をつけてね」

 助手席のドアを閉めてやりながら、みちびさんがマッくんに声をかけた。

「また来てね」

「オウッ」

と、マッくんは顔の前に拳を上げたが、勢いはなかった。すでに半分寝ている。

 エンジンがかけられ、車は道に出て行った。除雪された道とはいえ、凍結の危険はある。車はゆっくりと道を進んでいった。白い排気ガスが膨らんで付いていく。

 車を見送ったみちびさんが、

「さ、もう、閉めちゃいましょ」

と、紗季を振り返った。ほんの数分でも冷凍庫の中にいるように、冷気が肌を刺してくる。


 そのとき、サッと頬を風が撫でた。生あたたかい、ねっとりとした風だ。

「あ」

 紗季は棒立ちになった。

「どうしたの」

「今――また、風が」

「風?」

「昨日とおんなじ。化け物がいたときに吹いていた風が」

 えっと、みちびさんが辺りを見回した。

「どこ」

 紗季にもわからない。だが、アレはいる。間違いなく潜んでいる。生あたたかく土の臭いを含んだ風だ。昨晩よりも強烈に臭う。

 気配を感じて、紗季は後ろを振り返った。


 いた。


 マッくんの車のあった場所。

 そこだけうっすら地面の色が薄くなっている場所に、いた。サッカーボールほどの大きさの、不気味な物体。ぬめりとした手の甲は、まわりの雪の地面よりも白く、生えた八本の黒い脚が、シュワシュワと細かく動いている。

 

 化け物は進化していた。脚に挟まれた五本の指がほとんど失くなっている。今では、かろうじて甲に付いた指の先端が見えるだけだ。

 藍也の手が別の化け物に取り込まれたのだ。


「嫌!」


 紗季は叫び、後ずさった。

「どこなの?」

 口元を手で覆い、片方の手で指差した。

「見えない、わからないわよ、どこにいるのか」

「あそこ! あそこに」

 その間にも、化け物はむくりむくりと大きくなった。昨晩よりも、早い速度だ。


 化け物は大きくなりながら、紗季へ向かってくる。臭いはますます強烈になり、化け物の脚の動きが早くなった。


「早く!」


 みちびさんに腕を取られた。

「店の中に逃げるのよ!」

 引きずられるように、紗季はみちびさんに捕まって、店に向かって走った。

「あっ」

 前のめりに、地面につんのめる。

 人の背ほどに膨れ上がった化け物の長い脚が、紗季の上へ来た。


「たすけてえ」


 振り返ったみちびさんの顔が、化け物の影で暗くなった。紗季は恐怖で瞬間目を閉じた。

 もう、ダメ。もう、無理。

「うわぉお」

 みちびさんの叫び声とともに、紗季はに抱き起こされ、強い力で引っ張られた。そのまま転がるように、店を目指して走る。

 すぐ後ろを、化け物の脚が追いかけてきた。化け物が脚を動かすたび、生あたたかい風が起き、その風がふいごで起こされたかのように紗季の背中を煽る。

 

 たどり着いた店のドアを蹴破り、二人して店の中に転がり込んだ。すぐさま、ドアを閉め、鍵をかける。

 ドンと重い大きな音が響いた。化け物がドアにぶつかったのだ。

 

 ぎゅうぎゅうと、ドアが軋み始める。

「来るわ! 入ってくる!」

 みちびさんにしがみついたまま、紗季は叫んだ。

「なんとかしなきゃ――なんとか」

 血走った目で、みちびさんが叫ぶ。

 木製の厚さ五センチほどのドアだ。そう長くは持たないだろう。


「紗季ちゃん、裏から逃げましょ」

 みちびさんが立ち上がった。

「ここにいたら、紗季ちゃん、殺られてしまう!」

「でも」

 裏は山になっている。こんな凍りつく夜、山に入ったら凍死してしまうんじゃないか。


「裏から駐車場へ戻るのよ。そして車で逃げるの」

 さ、早くと、みちびさんに引っ張られ、二人で店の裏へ回った。

 裏口のドアを開けると、痛いほどの冷えた風が吹き付けてきた。

 積もった雪の白さのおかげで、見通しは悪くなかった。竹が踊るようにしなっている。


「さあ、こっちから!」

 雪を掻き分けながら、表へ回った。

 店のドアの前に、化け物の姿が見えた。執拗にドアを押している。

「車まで走るわよ!」

「でも、気づかれちゃう」

「だから、早く!」

 ドンと背中をみちびさんに押され、紗季は地面を転がるように飛び出した。

 駐車場は雪かきをしてあるせいで、ほとんど雪が積もっていない。ただし、凍った表面は、雪のある場所よりも走りにくい。

 

 何度も転び、ようやく車に近づいたとき、化け物が体の向きを変えた。藍也の指の骨があるのが正面だとすれば、その部分をこちらに向けたのだ。

 シュルシュルッと、紐が巻き取られるに似た音がして、化け物が近づいてきた。

 みちびさんが、鍵のスイッチを押して、カシャッと開錠される音がした。飛び込むように、みちびさんが運転席に収まる。

「早く、中に!」

 車の後ろから回り込んで、紗季はようやく助手席のドアに手を伸ばした。凍りついた取手を掴む。と、足元が滑り、紗季は転んだ。


 そのとき、紗季の左足に化け物の脚が伸びてきた。

「きゃあぁ!」

「紗季ちゃん!」

 みちびさんが助手席のドアを押し開け、紗季の手を掴んだ。

「いやぁぁ!」

「早く!」

 紗季は助手席に飛び込んだ。化け物の脚も、いっしょに入ってくる。

 みちびさんが勢いよくドアを閉めた。化け物の脚が千切れ、助手席の床に転がった。主を失った脚が、くねくねとのたうちまわる。


「あ、脚が、化け物の脚が!」


 エンジンをかけたみちびさんが、紗季を無視して車を発射させた。

 化け物の脚は断末魔の動きを繰り返している。土から出たばかりのミミズのような動きだ。


 店の前の道に出たとき、みちびさんが叫んだ。

「化け物の脚を捨てなさい!」

「――そんな」

「早く!」

 怖々化け物の脚をつまんだ。ざらざらとした触感に全身が泡立つ。

 みちびさんが釦を押して、窓を開けた。

 目を閉じて、紗季は脚を投げた。脚は弧を描いて中に浮かび、それから道の脇に落ちた。


「もうだいじょうぶよ」

 バックミラーに、蛍火の駐車場で奇妙な動きをする化け物の姿があった。脚を引き千切られてバランスを失ったのか、片方に傾いだ姿は、急速に勢いを失っているように見える。

 大きく息を吐いて、紗季は前を向いた。フロンドガラスの向こうには、暗い道が続いている。



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