第16話
「こんにちは」
さわやかとも感じさせる声で、大塚はそう言って手を上げた。
「まだ開店じゃないわ」
ぶっきらぼうなみちびさんの返事に、大塚は怯む様子もない。
「わかってますよ。今日は酒を飲みに来たんじゃないんです」
そして大塚は紗季を見た。
「整体師さんだったんですね」
立ち止まって、紗季は大塚を見返した。獲物を狙う蛇のような大塚の目に、紗季はみじろぎもできない。
大塚が一歩前へ足を踏み出した。
「行ってみましたよ、あなたが働いていたお店に」
喉がひりつくように感じて、紗季は返事ができなかった。
「まさかあなたが」
大塚は紗季を見据える。
「安東藍也とつながりがあるとはね。安東はあなたのお客だったんでしょ」
「――それは」
「客と整体師というつながりだけでなく、ずいぶん親しくしてらっしゃったとか」
「お客だったから、どうなの? 仕事ではたくさんの人を相手にしなきゃならないのよ。その中に、その男がいたって不思議じゃない」
みちびさんが助け舟を出してくれたが、大塚は無視した。
「静香さんっていたのを憶えてますか。あなたの同僚だった」
おしゃべりな女の子だった。整体師は話上手であると客が増えやすいが、彼女は将来の夢が声優だと言うだけあって、特に話し好きだった。
「彼女があなたの仲良くしていたお客さんを憶えていてくれたんですよ。彼女自身、安東藍也を施術したことがあったみたいで。それが、一度あなたの担当になってから、安東はあなたばかり指名するようになったらしいじゃないですか。そして、整体師と客だけの関係ではなくなったと、彼女は教えてくれましたよ」
静香に藍也の話をした憶えはないが、きっと、あの好奇心満々の女は、店の前に迎えにきてくれた藍也と紗季の関係を興味津々で眺めていたのだろう。
「しかも、安東がいなくなった頃、あなたは、あの整体院をやめてる」
「紗季ちゃん、行きましょ」
みちびさんに腕を引っ張られ、紗季はようやく動くことができた。
「待ってくださいよ」
大塚がついてきた。
「安東が失踪して、安東と親しくしていたあなたも職場からもいなくなっている。おかしくありませんか」
「偶然を積み上げたって、仕方ないわよ」
みちびさんが毅然と言い放った。
「その安東って男が、紗季ちゃんの客だったことはあるかもしれない。そして、その男がいなくなった時期と紗季ちゃんがここに来た時期が近かったからって、失踪したその男の行方を紗季ちゃんが知っているとは限らないでしょ」
「そうでしょうか」
大塚は怯まなかった。
「ねえ、紗季さん」
紗季に近づいて、大塚は真っ直ぐに紗季の目を見据えた。
「何か知っているんでしょ?」
「わ、わたしは――」
動揺しちゃいけない。そう思うのに、舌が痺れたように動かない。
「安東藍也について、話を聞かせてもらえませんか」
藍也の行方を心配している表情ではなかった。黄色い興味とでも言ったらいいか、好奇心の塊の表情だ。
「な、何も知りません」
カラカラになった喉から、ようやく声を絞り出した。そんな紗季を、大塚は見つめ続ける。
「また来ますよ。これで諦めるつもりはない。調べたら、もっとくわしくわかるでしょう」
大塚はそう言い残し、車に戻って行った。
大塚の車が道の先に見えなくなってから、みちびさんが紗季を振り返った。
「だいじょうぶよ。紗季ちゃんと安東藍也との関係がバレたって、安東藍也が今どうなっているかは、永遠にわからないんだから」
そうだろうか。
今度ばかりは、紗季にはそう思えなかった。紗季と藍也がつながって、藍也の車がこの集落へ向かったのがわかって、そして手の――。
そこまで考えて、紗季は恐ろしくなった。
「みちびさん」
紗季はみちびさんの腕を取った。
「もし、古川さんが手を見つけたのだとして、古川さんが警察に届けたら? その手が藍也の物だとわかって、大塚がわたしのことを警察に話したら?」
当然の成り行きだ。警察はここにやって来る。
ひりつくような不安に襲われる。
ぎゅっと、みちびさんに肩を掴まれた。
「しっかりするのよ、紗季ちゃん」
「だって」
「だってじゃないの! 怯えて、小さくなって。そんなんじゃ、何も解決しないのよ!」
紗季の手が握り締められた。
「紗季ちゃん、やれることをやりましょ」
「やれること?」
「そう。抜け道を探すのよ。そのために、やれることをやるの」
みちびさん、あなたはどうしてそんなに強いの。
でも、自分は強くない。怖い。こんな毎日は耐えられない。こんな毎日が続くぐらいなら、いっそ。
「手を取り戻すのよ。そして元通りに埋めるの」
化け物も恐ろしい。だが、現実の大塚の存在もそれ以上に恐ろしい。
頼れるのはみちびさんだけだ。一人で大塚や古川さんに立ち向かうなんてできない。
「誰にも、紗季ちゃんの未来を潰させない」
「ありがとう、みちびさん」
そう応えた紗季だったが、こちらを見つめるみちびさんの目に、ふと、薄ら寒さを感じた。みちびさんの声音は穏やかだったものの、目に強い光がある。
憎悪の光だ。この人は、身内に、計り知れない憎悪を貯めている。
鴉が鳴いて、店の屋根から飛び立った。鴉は道の向こうの森へ飛んでいく。
みちびさんが店へ入っていった。
さびしい庭に、紗季は一人残された。
なぜ、ここに来てしまったんだろう。
遠くなった鴉の鳴き声を聞きながら、紗季は知らず知らず胸の前で両手を握り締めていた。
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