第14話

 翌日、不安な眠りから覚めた紗季が階下へ下りていくと、店の中は朝日が降り注いでいた。


 昨日の恐怖が嘘のように、窓は日を浴びてきらめき、テーブルに落ちた光が、細かい埃を舞い上げている。

 みちびさんはいつものように店の台所に立っていた。


 化け物の姿はどこにも見当たらなかった。

 きっと、あれは、自分が見た幻覚なのだ。みちびさんはそれに付き合ってくれただけ。

 

 そう思ったとき、窓の外に落ちている掛け軸の燃え滓が見えた。白い雪の上に、それは黒々と無残な姿をさらしている。ぞくりと二の腕に鳥肌が立った。

「紗季ちゃん、このままじゃいけないと思う」

 みちびさんの声に、紗季は顎を上げた。

「これからも、きっと昨日の夜みたいに、あんたは化け物に襲われるわよ」

 そう。

 そう思う。

 だが、どうしたらいいのだ。ここを出るのは、来年の春に延びてしまった。自分だけで出て行こうにも、資金もなければ行くあてもない。

 掛け軸の燃え滓が、風に吹かれて揺れた。


「手をこまねいていたら、紗季ちゃん、あんた、化け物に食い殺されてしまう」

「――そんな」

 きっとそうなるだろうと思う。化け物は徐々に距離を詰めてきているのだ。いつかきっと、自分はあの醜い化け物に取り込まれてしまうだろう。

 嫌悪と恐怖に苛まれたが、諦めの気持ちも湧き上がってくる。

 みちびさんには、化け物は見えない。化け物は自分しか狙わないのだ。自分が食い殺されたら、みちびさんに迷惑をかけなくてすむ。七澤も厄介者をしょいこまないですむ。

 相手は化け物だ。対抗できるとは思えない。


「負けちゃダメよ」

 昨夜と同じように、みちびさんがきっぱりと言った。

「でも」

「紗季ちゃんは生きてるのよ。そしてこれからも生きていくの。生きていくには、負けちゃダメなの」

 まるで自分に言い聞かせるように、言葉一つ一つを噛み締めるように吐き出す。高い鼻筋の横顔。渇いた赤茶けた髪を手入れし、口紅をひけば、じゅうぶんに人目を引く容姿をしている。

 

 なぜ、あなたは、ここにいるの。

 まるで隠れるように、さびしい山の中にいるの。

 

 みちびさんが、振り返った。

「見つけましょ」

「見つけるって」

「失くなったあの男の手の骨を見つけるのよ」」

「藍也の手の骨を?」

「探し出すのよ、その骨を。そうすれば、化け物は消えてくれるかも」

 そうかもしれない。藍也の骨の一部は、自分の体に戻りたがっているのかもしれない。その不安定な魂が、化け物に取り込まれているのかもしれない。


「思い出して、紗季ちゃん」

「え?」

「紗季ちゃんが骨を掘り起こした夜よ。何か変わったことに気づかなかった?」

「変わったこと?」

「そう。一斗缶の蓋は閉まっていたんだから、入れる前にこぼれ落ちたと考えられる」

「野良犬が拾ったのかも」

「そうね。そして、それを誰かが見つけた」

「誰かが?」

「そうよ。紗季ちゃんが埋め直しているときに、店の近くを通った誰かが、骨を咥えた犬を見つけたのかも」

「そんな」


 忙しなく記憶をたどってみた。あれは、祭りの夜だった。みちびさんが麓の村の集会所へ行ったあと、真っ暗な中で懐中電灯の光を頼りに地面を掘った。

 そういえば、あのとき。一斗缶に骨を入れたあと、ビニール袋を探しに店の中に戻った。あのとき、前の道を車が通っていったのではなかったか。

そうだ。ライトの帯が、たしかに店の中を流れていった。


「車が通ったのね?」

 みちびさんに訊かれて、紗季は深くうなずいた。

「間違いないわ。集落へ向かっていった。ライトが店の中を照らす間、怖くて動けなかったもの」

「何時頃?」

「あのとき、時計を見たの。九時七分だった」

 九時頃ねと、呟いてから、みちびさんは遠くを見るような目つきになったが、首を振ってため息を吐く。

「ほかには?」

 考えてみたが、何も思いつかなかった。無我夢中だったから。何も聞かず、何も見ず、自分は作業を続けた。もっと気を配るべきだったのだ。


 みちびさんが、はっと目を見開いた。

「そう言えば、集会所に遅れてきた人がいたわ。九時半頃よ。なんで遅くなったんだって、誰かが訊いたら、鹿野町へ行っていたと答えてたわ」

 鹿野町は山を超えた先にある町で、この店の前の道を通って行くのが近道だという。

「それは、誰」

「古川さんよ」

 蛍火の常連客だ。集落で農業を営む男だ。

「古川さんを探ってみましょ。あの日、ここを通ったときのことを訊いてみるのよ。何か手がかりになるかもしれない」


 古川さんが骨を拾ったなら、彼はどんな推測をしただろう。骨は誰のもので、紗季とどんな関係があるのか、彼は考えを巡らしただろうか。

「古川さん、祭りの日からこっち、蛍火に来てないわね」

 そういえば、このところ顔を見ていない。


「古川さんを訪ねてみましょう」

「でも、なんて訊くんですか」

 あなたは骨を拾いましたかとは訊けない。

「ひとまずは、様子を探りましょ。紗季ちゃんの不審な行動を目撃して、そのあとに骨を拾ったなら、紗季ちゃんの顔を見て平静ではいられないはずよ。あの気の小さい古川さんだもの。何か普段と違うはずだわ」

 古川さんのおどおどした小さな目が思い返された。みちびさんの言うとおり、古川さんなら探りやすいかもしれない。

 はいと、紗季はうなずいた。頼りになるのはみちびさんしかいない。みちびさんについていってみよう。


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