第13話 第五章


       第五章


 土地を離れれば、藍也の手は追いかけてこなくなるかもしれない。

 

 それまで以上に、七澤について行く日を心待ちにし始めた紗季だったが、運命は、紗季の思い通りには進んでくれなかった。


 数日後、紗季は残念な知らせを受けた。七澤の出発が、春まで延びたのだ。年明けにはこの集落を去るつもりでいた紗季の落胆は隠しようがなかった。

救いなのは、みちびさんとの間のわだかまりが解けたことだ。

 みちびさんは紗季が見えているモノを疑っていたわけではなかった。紗季が見えているモノから、安東藍也へとつながることを恐れていたのだ。

「あの人は頭が回る人よ。何かのきっかけで骨と紗季ちゃんが見えているモノをつなげたら、言い逃れができないような気がして」

 みちびさんの言い分は最もだった。

 なぜ、紗季が手の化け物に怯えるのか。七澤は突き止めるかもしれない。

「だから、紗季ちゃんは幻覚を見てるんだって言い張ったの。嘘じゃないわ。あたしには見えないけど、紗季ちゃんの言う化け物が存在するって信じてるわ」

 みちびさんは、やっぱり正しい。やっぱり信頼できる。

 そう思っても、七澤に話してよかったと、紗季は思っている。七澤は解決法を示してくれたではないか。この土地を離れれば、化け物から離れられる。

 それは今、紗季の希望になっている。藍也の手は、頻繁に紗季の前に現れるようになった。しかも、手は、紗季の不安どおり、徐々に紗季に近づいてきている。そんな中、逃げ道があると信じる気持ちだけが、紗季のよりどころになっている。


 紗季は日に日に衰弱していった。頬はやつれ、二の腕は頼りないほど細くなった。

 藍也の手は遠慮をなくし、大胆になっていった。紗季の寝ている部屋は、二階にある。店の脇にある階段を上ってすぐの部屋だ。毎夜、紗季が二階へ上がろうとするたび、階段の上の踊り場の床の上で、紗季を待つようになった。手から伸びた黒い脚が、シュカシュカと忙しなく動き、まるで紗季を誘導するように進むのだ。

 瞬きをすれば、消えるときもある。両手で顔を覆い、薄目を開けても、まだそこにいるときもある。

 

 紗季に限界が訪れたのは、とうとう手が紗季の眠る部屋にやって来たときだった。

 真夜中。紙を擦るような奇妙な音に、紗季は目が覚めた。風の音とも違う、天井のきしみとも違う、渇いた忙しない音だった。

 足元に視線を移すと、布団の端に、藍也の手があった。青白い手の甲の両側から、真っ黒い脚が生えている。脚の一本一本には細かい髭が生え、黒光りしている。五本の指は、両側の脚に挟まれて、うなだれている。

 それは紗季に向かって歩を進めていた。

「きゃぁぁぁ」

 起き上がって、紗季は布団から這い出た。

「みちびさん、みちびさん、助けてぇぇえ」

 隣の座敷に寝ていたみちびさんが、襖を蹴破るような勢いでやって来てくれた。

 転がるように、紗季はみちびさんに抱きつく。

「どうしたの!」

「手が、藍也の手が、すぐそこに」

 サアーッと生あたたかい風が吹いた。風には、土の臭いがした。表は雪が止んでいたが、底冷えのする深夜だ。それなのに、どこから生あたたかい風は、盛り上がって部屋全体に広がる。

 

 ふいに、こちらに向かってくる手が、大きくなった。むくりと脱皮をするように一回り大きくなって、こちらに向かってくる。みちびさんに抱きついたまま、紗季は悲鳴を上げながら、後ずさった。手はふたたび脱皮をした。人の顔ほどの大きさになった。


「どこ? どこなの?」

 

 みちびさんには見えないのだ。

 紗季にだけ、見える。蝋のように白い手。皮膚の表面に青い筋を浮き上がらせた手。両側から生えた黒い脚は、細かな毛で覆われ震えている。

 手は畳のへりに沿って近づいてきた。


「いやあぁあぁ」

 叫んだ途端、ドンと、みちびさんに突き飛ばされた。

「下がって!」

 みちびさんが足元にあった座布団やスタンドを投げ始めた。座布団は化け物の手前で転がり、スタンドは化け物の脚の先に当たったが、なんの衝撃も与えない。

「無理よ、みちびさん」

 化け物は勢いを増して近づいてくる。

 後ずさった紗季の横に、古い火鉢があった。今は使われていないが、埃をかぶった炭が入っている。みちびさんは火鉢の脇に置かれていたマッチ箱を取り上げた。

「みちびさん、何を」

「どこ? 言いなさい。化け物はどこにいるの?」

「そこ。あたしの枕のところ」

 みちびさんは窓に駆け寄った。そして窓を開け放す。それから、床の間の掛け軸を勢いよく破ると、マッチを擦り始めた。

「やめて! 火事になっちゃう」

 マッチはなかなか点かなかった。生あたたかい風が渦を巻いているように動き、点いたそばから消えてしまう。

「チッ」

 と、みちびさんが何度も舌打ちをしながら繰り返す。

 ようやくマッチが点いた。掛け軸がぼわっと燃え上がった。

 その瞬間、化け物の動きが止まった。ひるんだと言ってもいい。


「どこ? 化け物はどこなの?」

「枕の上!」

 夢中で叫んでいた。するとみちびさんは、化け物の右手に回り、窓の反対側から燃える掛け軸を振り回し始めた。

 じゅじゅっと何かが焦げる音がした。途端に、腐ったような嫌な臭いが盛り上がり鼻につく。

 火で煽られた化け物は、徐々に窓のほうへ向かっていった。そこで初めて、紗季にはみちびさんの意図が掴めた。


「窓に向かってる! みちびさん、そのまま!」

 燃え上がった掛け軸が火の勢いを増して、化け物を追い込んでいく。

 化け物が窓枠の敷居に飛びかかった。

「窓へ行ったわ!」

「うおおお」

 みちびさんが叫んだ。闇雲に振り回された燃える火が、化け物の脚にしっかり燃え移った。化け物は瞬間飛び跳ねるように体をくねらせ、そして窓から落ちていく。

 みちびさんは依然燃え盛る掛け軸を振り回している。

 紗季は駆け寄って、掛け軸を取り上げ、窓の外に投げた。


「あ」


 みちびさんの呟きとともに、掛け軸は庭を覆っている雪の上に落ちた。

 白い雪の上に、黒い焼け焦げた掛け軸が燻り続けている。

 化け物の姿は、なかった。庭を見渡しても、見当たらなかった。静かで、ただ、夜の静寂があるだけ。


「ありがとう」

 涙が溢れた。

「怖かった」

 まだ体は震えている。涙を拭おうにも、指先が頬の上でうまく動かない。

 はあはあと、みちびさんは肩で息をしている。いつもは後ろで束ねている赤茶色の髪が、ばさりと肩に落ち、後れ毛が汗で濡れている。

 そしてみちびさんは、紗季に顔を向けた。

「ダメよ」

「え」

「負けちゃダメなの。あんな化け物に打ち負かされてはダメ」

 みちびさんの向こうに、真っ暗な夜が広がっていた。



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