第12話

「手が見える?」

 

 七澤の表情は硬く、目には、紗季の言い逃れを許さない意思が見える。もうアルコールはやめて、手にあるのは、コーヒーカップだった。

 ぽつりぽつりと客が帰ってからも、七澤は一人店に残った。灯りを落とした店のカウンターの椅子に座り、紗季の仕事が終わるのを待ってくれたのだ。


 手が見えると口にしても、七澤はさして驚かなかった。

 幻覚。七澤には、そう言われるのを覚悟していた。紗季に見えたものを信じてもらえるとは思わなかった。だが、七澤は、紗季の見たものを信じてくれたようだった。 

 様々な土地を歩き、奇妙な話を集めている男だからこそ、信じてくれたのかもしれない。


「はじめは、白い棒みたいだったんだね?」

 紗季はこっくりと頷いた。

「それが徐々に手の形になっていったんだね?」

 そうだった。そんなふうに変わっていったのだ。

「それで、今夜見えたのは、蜘蛛のような脚が付いた手だったわけか」

「ええ」

 震える声で頷く。

「脚みたいのは、真っ黒で毛が生えてて」

 思い出すと、ふたたび吐き気に襲われそうだった。白い手だったときは、まだ、不気味という言葉が当てはまった。だが、今夜見たモノには、不気味という言葉だけでは物足りない何かがあった。もっと動的というか、もっと凶暴というか……。


「頭は?」

「頭?」

 意外な問いかけに、紗季の声は裏返った。

「いや、紗季ちゃんの話を聞いていると、手というよりは、蜘蛛みたいだなと思ったんだ。蜘蛛の化け物だとすると、体があって頭があるはずだ。脚以外の部分はどうなってるのかと思って」

 言われてみればそうかもしれない。吐き気をこらえながら、紗季は化け物の姿を思い返した。

「白い手の甲の両側から、黒い脚のようなものが伸びてました。でも、指の骨はそのまま残っていて」

 うまく伝わっただろうか。甲の部分から、指は上へ、脚は横に伸びていると言えばいいか。

 七澤は顔をしかめた。

「頭の部分はないのか。となると」

 嫌な感じがした。手の化け物、蜘蛛の化け物というのなら、まだいい。

「蜘蛛の化け物とも言えないと思う。まるで、何か得体の知れないモノになろうとしている途中段階っていうか」

 嫌な感じは、的中するかもしれない。あの得体の知れない化け物は、これからもっと別のモノに変化していくのか。


「もうやめて!」

 二人から離れて話を聞いていたみちびさんが、叫んだ。

「七澤さんに話してると、なんだかほんとに化け物がいるみたいだわ」

「ほんとにって、みちびさん――あたしには見えて――」

「みちびさんには見えないんですね」

 七澤が訊くと、硬い表情で、みちびさんは頷いた。


「紗季ちゃんには悪いけど」

「幻覚だっていうんですか?」

 紗季は打ちのめされた。あんなに何度も、怯える紗季を救ってくれたのに、みちびさんは信じていなかったのだ。紗季が作り出した化け物だと思っていたのだ。

「みちびさん、信じて。あの化け物は、ほんとにいるの。幻なんかじゃない」

 みちびさんには、あの化け物の骨が、誰の骨であるとわかっている。なぜ、紗季の前に現れたのか、その理由もわかっている。だから、紗季は怯えているのだ。それなのに。


「落ち着いて、紗季ちゃん」

 煙草を指に挟むと、みちびさんはライターで火を点け、それからふうっと細い煙を吐いた。

「疲れているのよ。だから、そんなものを見ちゃうの」

「――みちびさん」

「ね、紗季ちゃん。楽しいことを考えましょうよ。紗季ちゃんには、明るい未来が待っているでしょう?」

 七澤に顔を向けたみちびさんは、そう言ってにっこり笑った。七澤が戸惑った表情で、みちびさんを見返す。

 紗季は見逃さなかった。みちびさんは笑顔を作っているが、目が笑っていない。

 

 七澤が、紗季に顔を向けた。

「僕は信じますよ」

「――七澤さん」

「だめよ、七澤さん。そんなふうに賛同しちゃったら、紗季ちゃん、いつまでも幻覚から逃れ――」

「僕は会ったことがあるんだ」

 七澤がみちびさんを遮った。そして紗季を優しい目を向ける。

「あなたのように、異形のモノが見えてしまった人を知っています。だから、信じますよ。あなたが見たのは幻覚でもなんでもない」

 紗季は深く頷いた。



「ねえ、紗季ちゃん」

 七澤が続けた。

「今、自分がどんな顔つきをしているかわかってますか。そんなに痩せて、目は虚ろだ。はじめは」

 七澤の目が優しくなった。

「僕と遠くへ引っ越すのが、ほんとうは負担なんじゃないかと思った。それで思い悩んでるんだと。でも、そうじゃないと今夜わかった。喜んじゃいけないけど、僕が原因じゃなくてよかった」

「七澤さん」

 それ以上は言葉にならなかった。この人と巡り会えて、ほんとうに自分はしあわせだと思う。

「僕はフィールドワークでいろんな土地へ行き、様々な人と話をします。その中で、一度、あなたと同じ表情をした人に会ったことがある。ここよりも大きな集落に住んでいる方でした」

 

 みちびさんが、もう一本煙草に火を点けた。煙がゆっくりと立ち上る。

「初老の婦人でした。ご主人を早くに亡くされた方で、ご主人が死んでから数年も経つというのに、ご主人の姿が家の中に現れ、眠りを妨げられると言っていました。その話を聞いた集落の人たちは、死んだ旦那が恋しくて霊を目にするんだろうと言っていましたよ。僕もはじめは集落の人と同じように思っていました。農家とはいえ、屋敷と言える大きな古い家に住んでいた方だったので、一人取り残されて、孤独がそんなものを見せるんだろうと」

 表は風が出始めたのか、窓越しに木々の枝が揺れるのが見える。

「でも、二度目にその集落を訪れたとき、僕は考え直しました。彼女は初めて会ったときより、更にひどくやつれていました。依然、ご主人の霊に悩まされていたからです。だが、彼女の憔悴は激しくなっている。理由を聞きました。すると彼女は言ったんです。自分が見えているのは、夫の霊だけじゃないと。夫の霊は、姿が変化していると」


「変化?」


 みちびさんと紗季は、同時に声を上げた。

「はじめは生前と同じ姿をしていたご主人が、奇妙な形に変わったというんです」

 意味がわからなかった。紗季はみちびさんと顔を見合わす。

「その集落周辺は、昔から鉄がたくさん採れる土地で、古い伝承には、一本だたらに関する話がいくつか残っていました。一本だたらというのは、一つ目で一本足の妖怪のことです。昔から鉄の採れる土地に出ると言い伝えられている化け物です。彼女の話を聞いているうちに、彼女に見えるご主人の幽霊が、この一本だたらに似てきていると思ったんです」

「土地の化け物と、その婦人の死んだ亭主の霊が組み合わさったってこと?」

 組み合わさったというニュアンスと、死んだ夫の霊という物悲しさが、妙に不釣り合いに響いた。だが、不釣り合いであるからこそ、飲み込めない禍々しさがただよう。


 となると、紗季が見た手から伸びた蜘蛛ような脚も、この土地の何か禍々しいモノで、それが藍也の手に付いたのだろうか。

「なぜ、夫の霊と一本だたらが融合して彼女に姿を見せたのか、その理由はわかりません。そもそも、霊の存在自体、何の証明もできないわけですし。でも、土地に何か得体の知れないモノが息づいているのを、僕は疑えない。こういう仕事をしていると、その土地土地の『気』と言ったらいいか、そういうものが確かにあるんです。科学的に証明はできないし、数字や言葉に置き換えられないけれど、何かが、確かにその土地で生きている人間のまわりに存在する」

「紗季が見た手にも、この土地の何か異形のモノが合わさってるってわけ?」

「蜘蛛の脚みたいなものが付いていたんだったよね?」

 こっくりと紗季は頷く。

「蜘蛛の妖怪伝説は、日本の山間部のどこにでも存在するんだ。この辺りにも、顔が鬼で体が虎、そして手足は蜘蛛だという化け物の話が伝わっている」

「そんな恐ろしいモノがいる場所なんですか」


 何の変哲もない山あいの集落だと思っていた。だが思い返してみると、集落の中心にある神社には、古い由来があると、店の客から聞いた覚えがある。

「全国に、落人【おちゅうど】部落と言われている場所はたくさんあります。古くは平家に始まって、戦で敗れた某の一族が隠れ住んでいる場所だと言われる集落は、日本の山あいのいたるところにある。ここも、その一つでしょう。古い土地には、語り継がれている魔物も必ず存在します」

 みちびさんに顔を向けると、硬い表情のまま、指先から立ち上がる煙を見つめている。

 

 ふと、なぜ、彼女はここにいるのだろうと、そんな疑問が湧き上がった。

 みちびさんはこの土地の生まれではない。麓の集落に地縁があったわけでもないという。それなのに、なぜ彼女は、こんな古い因縁が残る場所で暮らすことを選んだのか。

 

 みちびさんが声を上げた。

「ここには何もいないわよ」

 紗季は七澤と共に、みちびさんを振り返った。

「七澤さんには悪いけど、この土地には因縁だとか、古い由来だとか、そんなものは存在しないの」

「でも、集落の人たちの話では」

 言い返した紗季を、みちびさんが見据える。

「あの人たちはそう言って楽しんでるだけなの。ここは、ただの山ばかりの場所。五十年ほど前までは、ろくに人も住んでいなかったのよ」

「まさか。だって、集落にある神社はすごく古びてて」

「五十年も経てば、神社も古くなるわ。でも、化け物の伝説が生まれるには、五十年は短かすぎるのよ」

 

 俄かに信じられない。山の間に隠れるようにあるこの集落。その古い歴史を、集落の人々は誇りに思っているはずだ。

「ここはね、紗季ちゃん。この奥で造られたダムのために、川筋が変わって新しく造成された土地なの。だから、ここの住民はいろんな集落から来た人たちの寄せ集めなのよ。歴史はないの。お祭りだってしきたりだって、後からみんなで決めたものなのよ。いってみれば、ここは、町にある新興住宅街と同じ。集落の人たちは仲良くしてるけど、誰もこの土地でつながってるわけじゃない」

 

 そう言われてみれば。

 

 紗季は思い返した。

 集落を歩き回ったとき、墓地にたどり着いたことがあった。案外新しい墓石に、ちょっとした違和感を覚えたものだ。

 

 紗季は気まずい思いで七澤を見た。それなら、七澤は何のためにここで歩き回っているのか。

 七澤は何も言い返さなかった。ただ、冷えた目でみちびさんを見つめている。


「そんなことより」

 みちびさんは煙草をもみ消すと、七澤に向き直った。

「七澤さんが会った初老の婦人は、その後どうなったの? 今も、化け物と合体した夫の幽霊を見ているの?」

 そうだ。それが知りたい。現れた異形のモノはずっと見え続けるのだろうか。

「彼女は今、病院にいるそうです。妄想がひどくなって、治療を受けているそうです」


 精神を病んでしまった?


 自分の未来が、紗季は恐ろしくなった。自分も、あんなものが見え続けたら、精神がおかしくならないとは限らない。


「彼女が精神を病み始めたのは、霊が見えるようになってからじゃありません。彼女はもともと精神を病んでいたんです。彼女のご主人は、ずっと行方不明だったんですが、彼女が妄想を口にし始めた頃、彼女の犯行が発覚したそうです。ご主人は彼女に殺されて、自宅の床に埋められていました。彼女が治療を受けているのは、刑務所の中の病院です」

「え」

 紗季はみちびさんを見た。みちびさんが、煙草を灰皿の上に押し付けた。

「こういうこと? 彼女はもともと病んでいて、夫を殺してしまった。その後、夫の霊を見るようになって、ますます病んでしまった?」

「そうですね」

「彼女は、まだご主人の霊が見えているんですか」

 紗季は震えながら、訊いた。

「それはないようです。実は土地と彼女が見たものとの関連性が知りたくて、面会に行った息子さんに話を聞いたんです。息子さんの話では、母親の妄想は酷いけれども、父親の幽霊は見えなくなったと。父親の幽霊は、土地の化け物と融合したせいで、土地に根付いたのかもしれません」

 そして七澤は、コーヒーを一口飲んでから、続けた。


「ま、すべて、僕の想像でしかありませんが。でも、老婦人の話から、僕が導き出したい結論は、こうです」

 七澤は紗季に向き直った。

「不気味なモノに脅かされているなら、あなたも、ここを離れるべきです」

 紗季は曖昧に頷いた。老婦人の話から、紗季も一つの結論を得た。夫の幽霊は自分を殺害した妻のもとへ現れたのだ。藍也の手が現れるのも、きっと同じ理由だ。


「ねえ、みちびさん」

 七澤がカウンターの向こうにいたみちびさんに顔を向けた。

「あなたもそう思うでしょう? 何かに脅かされているなら、まず逃げるべきだと。それが己を守る手段だと」

 しばし、二人は見つめ合った。意外にも、七澤の視線は冷たい。みちびさんは、まるでその視線受けて立つかのように、唇を噛み締め見つめ返している。


「――あの、七澤さん?」

 思わず紗季が声を上げたとき、みちびさんが言い放った。

「そうよ。紗季ちゃんはここを出て行かなくちゃ」



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