第11話

 この世のモノでなくても、命のないモノでも、力が増していくことがあるのだろうか。

 

 紗季の前に現れる藍也の手は、日に日に成長を続けているように思われた。

成長というのはおかしいだろう。それは紗季にもわかっている。だが、手の放つ『気』のようなものが、徐々に強くなっているのを感じるのだ。

『気』でおかしければ、『意識』と言ってもいい。初めて目にしたときに比べ、明らかに藍也の手は勢いを増している。紗季を目指して、藍也の手は、徐々に距離を縮めてきている気がする。

 

 窓に張り付いた手を見てから数日後、とうとうそれは、店の中にやって来た。店の営業中、客の数人がカラオケを楽しんでいる最中だった。

 歌う客に合わせて、紗季はカウンターの内側で手拍子を取っていた。陽気な曲で、店の中は明るい雰囲気に包まれていた。

 

 ふと、店の壁際に置かれた観葉植物に視線がいったのは、何かを感じたからではなかった。その手前のテーブル席の客のビールが、そろそろなくなりかけていると思ったからだ。案の定グラスは空だった。グラスを下げようと腰を浮かしかけたとき、それが見えた。

 ベンジャミンの細かい葉の間だ。手は枝の間から、そっとこちらを伺っているように見えた。

 紗季は息を飲んだ。目を凝らすと、手は茂った葉の間に浮かんでいるのではなかった。手から何か黒いモノが伸び、それが枝を掴んでいるのだ。手から伸びた黒いモノは、何本もある。

 

 まるで蜘蛛の脚だ。

 

 紗季のまわりのすべてが、音を失くし、色彩を失くした。あるのは、ただ、不気味な異形のモノだけ。

 口を半開きにし立ち尽くす紗季に、カウンター席に座っていた七澤と、カラオケの機械のそばに立っていたみちびさんが気づいた。

どうしたのと、七澤の目が言っている。

なんでもないの。紗季は無理矢理笑顔を作った。七澤には知られたくない。

カウンターにいた別の客に七澤が声をかけられて顔を背けたとき、客たちの合間を縫って、みちびさんが駆け寄ってきた。そして紗季を励ますように、手を取る。


「どこなの?」


 恐怖で顔が上げられなかった。俯いたまま、指先でベンジャミンの鉢を指す。

 みちびさんが、深く息を吐いた。

「だめ。あたしにはやっぱり見えないわ」

 紗季は激しく首を振った。

「います、絶対。葉っぱの間に――黒いのが」

「黒い? 手が見えてるんじゃないの? 白い手だって、前、紗季ちゃん、そう言って」

「ま、前と違うんです。前見たときとは、か、形が」

「どういうこと?」

 みちびさんの声が、硬く尖った。

「く、蜘蛛みたいに、黒い脚みたいなのが――手の甲の部分から生えて」

 吐き気を覚えた。思わず、紗季はしゃがみこんでしまう。

「――形が変わったのね?」

 うんうんと、紗季は頷く。

 ギュッとみちびさんの手に力が入った。その力は、思いの外強い。

「みちびさん――痛い」

 思わず紗季が顔を上げると、みちびさんは我に返ったように紗季を見下ろした。その目は、何か醜いものでも見るように、憎しみがこもっているかのように、紗季を見据えている。

 紗季は息を飲んだ。


「おーい、ママ。カラオケ、音が変だよぉ」

 客の誰かに呼ばれて、みちびさんの手が離された。そのままみちびさんは、客の元へ走る。

 紗季は呆然と、その場に立ち尽くした。

 ふいに、カラオケの音が耳に響いた。現実に引き戻されたかのように、世界が動き始める。


 恐る恐る紗季はベンジャミンの鉢に目を向けた。

 いなかった。


 もう、どこにも、いない。葉の間には、ただ、ベージュ色の店の壁が透けて見えるだけだ。

 紗季は朦朧としたまま、カウンターの中へ戻った。流しの前に立ち、汚れた皿やコップに目を落とす。

 のろのろと洗い始めた。スポンジに洗剤をつけ、手首を回す。かろうじて動かしているものの、何をしているのかわからなかった。今、自分が目にしたモノの恐怖で、頭が回らない。

 いや、混乱しているのは、見たモノのせいだけじゃない。

 紗季は流れる水を見つめた。


 あのみちびさんの目。なぜ、彼女はあんな恐ろしい目をして紗季を見たのだろう。


「紗季ちゃん、どうしたの」

 七澤の声に、紗季は我に返った。七澤の隣にいた客は、もう、帰ったようだ。空のグラスがそのままある。

「ごめんなさい、なんだか、ちょっと気分が」

 笑顔を作ったつもりだが、うまくいかなかった。今にも泣き出してしまいそうだ。

訝しげな視線のまま、七澤は、グラスをトンとテーブルの上に置いた。


「――何か、僕に隠してるね」

 紗季はうろたえる。

「その表情は尋常じゃないよ。何があったのか話してくれないか」

「ほ、ほんとになんでもないのよ」

 そう返したとき、客のところからみちびさんが戻ってきた。二人の会話の内容を察したたのか、殊更に明るい声を出す。

「ちょっと体調がすぐれないだけなのよ。ね、紗季ちゃん、そうよね?」

 横顔のまま、紗季は頷いた。さっきのみちびさんの視線が、まだ心に引っかかっている。

「紗季ちゃん、僕のほうを見て」

 ゆっくりと目を向けると、七澤は真剣な目で紗季を覗き込んでいた。

「紗季ちゃんが、何かに怯えてると、このところ気になっていたんだ。今夜は話してもらうよ」

 誰かが歌い始めた曲のイントロが流れ始めた。ボリュームが大きすぎる。


「なんでもないんだったら、七澤さん」

みちびさんが言ったが、七澤は取り合わなかった。



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