第10話 第四章

「ねえ――ねえ、みちびさん、待って」

 

 懐中電灯の光が揺れながら、みちびさんの背中を浮かび上がらせる。チェックのシャツの柄が妙に健康的で、まわりの闇とそぐわない。


 紗季が藍也の骨を埋め直した場所を、その大体の見当を、みちびさんはすぐに言い当てた。

「そこは沢に下りていくほう。昔の杣道そまみちを下っていった場所だわ」

 紗季が獣道だと思って辿っていった道は、ずっと以前に木こりたちが使った道だとみちびさんは教えてくれた。


「この集落に来たばかりの頃、集落を囲む山を散策したの。そのとき、笹で覆われた細い道を歩いたの。道はもう、使われていないから、ちょっと見ただけじゃわからないけど、歩いてみると辿っていける」

 あのとき、無我夢中だったとはいえ、闇の中、一斗缶の入ったビニール袋を両手に下げ、こんな道を歩いていったのが信じられない。

「紗季ちゃんが言う大きな二本の木に挟まれて、植物の蔓が伸びている場所なら、あそこしかない」

 そう言い切って、山に入ったみちびさんに迷いはなかった。


 息を切らしながらみちびさんの後を追い、見覚えのある風景が懐中電灯の光の中に浮かび上がったとき、みちびさんは紗季を振り返って、

「ここね?」

と、言った。

 闇の中にさらに深い深淵があった。

 今夜は月もない。懐中電灯の光だけが頼りだ。

 懐中電灯で地面を照らした。土が盛り上がった場所が見つかった。そのてっぺんに、一つ石が置かれている。

「こんなお墓を作って、紗季ちゃんたら」

 自分ではそんなつもりはなかった。無我夢中だったから、そんなものを造った記憶は曖昧だ。無意識のうちに、藍也の墓を作っていたなんて。

 

 スコップの先で、藍也の墓は崩された。小山はいとも簡単になくなり、石は土の中に紛れてしまった。

 ガツンという音がした。スコップの先が一斗缶にたどり着いたのだ。

 周りを掘っていたみちびさんが、紗季と同じ場所を掘り始めた。一斗缶が二つ。その蓋の部分が見る間に姿を現した。

 スコップを投げ出して、紗季は地面にしゃがみこむと、ビニール袋に包まれた蓋の部分の土を払い除け、持ち上げた。

 蓋は簡単に開いた。みちびさんの言うとおり、緩い埋め方だったと思う。もし誰かが、藍也の遺体を探そうとしたら、たやすくこの場所を見つけ、一斗缶の中身を見つけられただろう。

 缶の中に懐中電灯を照らす。

 紗季は骨を検めた。

 わからない。もう、バラバラになった骨は短く黄色っぽい枝のようで、どの部分を紛失したのかを知ることはできない。


 ただ。


 紗季ははっと顔を上げた。

「金属はそのまま残るはず」

 紗季は夢中になって、缶の中を探った。

「どうしたの、紗季ちゃん」

「藍也は指輪をしていたの。髑髏の形の指輪だった。あれは残ってるはす。だけど、だけど、あれがはめられた骨がないの!」

 もう一方の缶も開けてみた。そちらにもなかった。

「ない、なくなってる!」

 紗季は叫んだ。

 見上げると、みちびさんが、呆然とした表情で紗季を見下ろしていた。


「――どうしよう」

 口にした途端に、体が震えだした。何度も目にしたあの闇に浮かんだ手は、やっぱり藍也の手だったのだ。

「どこかに行っちゃったのよ。それで、自分の体に戻してくれって藍也が言ってるんだわ! ねえ、みちびさん、そうよね? 藍也はわたしを恨んでるのよね?」

「……」

「ねえ、みちびさん――」

 ふいにバイクの派手なエンジン音が聞こえてきた。風の向きによって、町に通るバイパスを走る車の音が聞こえてくることがある。

 群れて走っているだろうバイクたちの音は、やがて遠のいて聞こえなくなり、辺りは元の静寂に包まれた。



       第四章



「もうちょっと食べなきゃだめよ」

 紗季の前に置かれた煮物が入った皿を見て、みちびさんが言う。

 

 少しでも食欲をそそるようにとみちびさんが作ってくれた、あっさりした塩味の大根と鶏肉の煮物を、紗季は箸でちょっとつついただけだ。

 

 紗季は食事の量が減っていた。それでも、三度の食事は少量ながら口にしていたが、みちびさんといっしょに、藍也の骨を埋め直した場所に藍也の右の手首から先の骨がないとわかってからは、ほぼ食べ物が喉を通らない。

 もともと紗季は、華奢な体つきだ。それがことのところ、傍から見てもわかるほどに痩せてしまっている。

 

 指輪がはめられた骨はなかった。あの指の骨は、藍也の体から離れている。その骨は、紗季を苦しめるために彷徨っている。紗季にはそう思える。

 七澤も、やつれた紗季を心配してくれた。

「何かあったんですか」

 理由を話すわけにはいかない。みちびさんも黙っていてくれる。

「七澤さんには絶対に言わないで」

 紗季の懇願に、

「言えるはずないよ。言う必要ない」

と、約束してくれている。

 

 七澤は相変わらず優しくて、思いやりを持って紗季に接してくれていた。

十二月に入り、山に厳しい風が吹き始めた。

 紗季は七澤について、多くを知るようになった。寝るときの癖や仕事のことで苛立ったときにどんな目をするか、遠くに住んでいる両親や、子どもの頃亡くした弟について。全部ひっくるめて、紗季は七澤という男を受け入れたいと強く思うようになっている。

 そう思えば思うほど、自分の持つ秘密が、重く強く自分を苛む。

 

 いっそのこと。

 いっそのこと、七澤に全部話してしまいたい。

 何度そう思ったかしれない。

 だが、話せば、七澤は去っていくだろう。それが怖い。

 七澤に惹かれれば惹かれるほど、気持ちは不安定になっていく。

 

 そんな矢先、七澤がいつものように、フィールドワークを終えて蛍火へやって来た。その日の七澤は、ちょっと様子が違った。何か真剣に思いつめているふうに、笑顔が硬かった。

 

 蛍火では、七澤は決まってすぐに食事を摂る。一日歩き続けたあとにやって来るため、お腹を減らしているのだ。

 だが、その日、七澤は、いつものように、何か食べさせてくださいとは言わなかった。代わりに、今日は話がありますと、真剣な目を向けてきた。


 七澤はおもむろに、自分の仕事の将来について語り始めた。フィールドワークを行う範囲をもっと広げたいとか、分野の違う研究者と交流を図りたいとか。

そして七澤は、遠くの町の大学から請われていると言った。


「行こうと思っています」


 七澤は紗季を見つめながら、続けた。


 七澤が口にした町の名は、本州の南の端にある町だった。そんな遠いところへ行ってしまったら、今のように頻繁に会えなくなるだろう。

「僕の研究を高く買ってくれている教授に、是非と言われました。僕ももう、四十を過ぎたし、そろそろ本腰を入れたいと」

「すごいじゃない? 見込まれてるなんて」

 みちびさんは手放しで喜んでみせたが、紗季は素直に喜べなかった。紗季と二人のときに、七澤はこの話を出さなかった。紗季を置いていくつもりで、言い出しにくかったのではないか。


「いつなの? そうなるのは」

「向こうで働き始めるのは四月からですが、いろいろと準備があるので」

 そう言ってから、七澤は紗季に顔を向けた。

「来年のはじめには向かおうと思ってます」

「そんなに早く」

 紗季はつい沈んだ声を上げてしまった。来年のはじめなら、もうひと月ほどしかない。

「それで――みちびさん」

 妙にかしこまって、七澤はみちびさんに向き直った。

「紗季さんを連れて行きたいんです」

 えっと、紗季は洗っていたグラスを落としそうになった。胸に湧き上がってきた喜びに、頬が熱くなる。

「紗季さんに話す前に、まず、みちびさんに承諾をもらわないと、この話を進めちゃいけないと思って」

「あたしに承諾なんて。あたしは紗季ちゃんを縛る権利なんかないのよ」

「でも、あなたと紗季さんは、なんていうか、強い絆で結ばれているような」

 七澤は勘のいい男なのだ。みちびさんと紗季の間にある何かを感じているのかもしれない。


「やだ。紗季ちゃんに次の仕事が見つかるまで、ここを手伝ってもらっていただけで、それが長くなっちゃっただけで。ねえ、紗季ちゃん」

 返事ができず、紗季はみちびさんを見つめた。みちびさんの笑顔に嘘はない。心から喜んでくれているのだろう。

「紗季ちゃん、ついていきたいでしょ」

「でも」

「でもじゃないよ。チャンスは掴まなくちゃ」

 はいとうなずいて、紗季は七澤を振り返った。

「ありがとうございます」

 七澤がみちびさんに頭を下げる。

「ちょっと、やめて、そんな。こんな山里に、いつまでも紗季ちゃんを縛り付けちゃいけないって思ってたのよ。お礼を言うのはこっちだわ」

 くるりと踵を返して棚に体を向けると、みちびさんはワインのボトルを取り出した。


「お祝いしましょ」

 そう高価なワインではないだろうが、グラスに注がれたピンク色の液体は、幸福を予感させる色をしていた。これからの紗季の門出を祝うにふさわしい色だ。

「乾杯!」

 みちびさんがグラスを掲げ、七澤と紗季も声を上げた。

「乾杯! 紗季ちゃん、ありがとう」

 七澤が噛み締めるように言う。

 

 胸がいっぱいだった。


 今だけ。


 どうそ、今だけでも、神様、しあわせを感じさせてください。

 それから夜が更けるまで、七澤は今後の計画について話していった。新しい土地で暮らす家や、それまでの準備について。

 そんな話を、紗季は夢見心地で聞いた。七澤の話を聞く限り、新しい土地で待っているのは、贅沢な暮らしでも楽な暮らしでもなさそうだったが、堅実であたたかな生活になりそうだった。いや、そんな生活になるのだ。七澤といっしょなら、自分にもその手助けができそうな気がする。

 

 夜になって、七澤が蛍火を出たあと、表は雪になった。初雪だった。静かな夜に、雪はささやくように降りてきた。

 粉雪だった。雪は徐々に勢いを増し、蛍火の店の明かりに、飛び交う虫を思わせる渦巻きが浮かび上がった。


「ここの冬は初めてね」

 七澤を載せたタクシーを見送ってから店の中に戻ると、みちびさんがカウンターの向こうで呟いた。

「たくさん降るのよ。二月ぐらいまで、雪の降らない日はないぐらい」

 麓の町でも雪は多く降る土地柄だ。この山間部の集落は、冬の間、雪に埋もれるのかもしれない。

「七澤さんと行く土地には、きっと、あんまり雪が降らないでしょうね」

 ちょっとさびしげに、みちびさんは続ける。


「ほんとに、いいんでしょうか」

 カウンターの外で突っ立ったまま、紗季は声を上げた。

「何が?」

「わたしがここを出て行っても……」

 ここを出て行けば、みちびさんは一人、藍也の亡骸と残される。

「いいのよ。紗季ちゃんは出て行かなきゃダメなの。新しい土地で、何もかもやり直すのよ」

 力強い励ましに、紗季は目頭が熱くなった。この人には、感謝しても仕切れない。  

 人生を通して、こんなにも味方になってくれる人はみちびさんだけだろう。

 涙が溢れて止まらなくなった。嬉しいのに、泣けてくる。

「ほらほら、紗季ちゃん、泣かないの」

「でも」

「これから忙しくなるわよ。引越しの準備もしなきゃならないでしょ」

 荷物なんか大して有りはしない。出て行くまでに自分がすることは、感謝を込めて働くことだけだ。

 そして、新しい土地に着き、生活が落ち着いたら、みちびさんに来てもらおう。自分たちが一番はじめに招く人はみちびさんだ。

 

 指先で涙を拭い、紗季は片付けをしようと顔を上げた。まずは掃除から。椅子の背に手をかけたとき、ふいに、窓が震える音がした。

 紗季は背後の窓に顔を向けた。風が強くなったようだ。真っ暗な窓が、鏡のように店の中を映している。

 そのとき、窓の中央、硝子に映った店の壁に、いつもと違う模様が見えた。ベージュ色の壁に白い模様。


「!」


 あれは、手だ。

 映った壁に、くっきりと白い手が浮かんでいる!五本の指を均等に開き、掌の腹の部分が窓に付いている。

 それは、両生類の吸盤を思わせた。よく見ると、腹のあたりが青みがかっている。


 紗季は立ちすくんだ。喉の奥で声は詰まり、胸が締め付けられるような息苦しさを感じる。


「あ、あぁ」


 ようやく、深く重い呻きが漏れた。

 

 ふいに、手は窓に張り付いたまま、ゆっくりと動き始めた。上のほうへ、まるで生き物のように、ぬめりぬめりと這い上がっていく。

 紗季の心臓の鼓動が早くなった。

 息苦しい。両手で胸を抑える。いや、いやだ! みちびさん、助けて。叫びたいのに声が出ない。


 手が、窓の棧で止まった。そこには、窓を開ける鍵がある。窓は引き戸で、付いている鍵はシンプルなクレセント錠と呼ばれるものだ。内側にあるつまみを半回転させて固定する。

 外側からは鍵に触れるのは無理だ。それなのに、指が忙しなく動き、鍵をまさぐる。


 キーッシュキシュ、キシュ、キシュ、シュキシュ、シュッ


 中に入れろ。


 そんな叫びが聞こえてきそうだ。


 キッ、キシュシュシュシュッ


 中に入れろ、ここは寒い。


 みちびさんがバタバタと紗季に駆け寄って来た。

「どうしたの、紗季ちゃん」

 両肩を揺すられて、紗季は声にならない声で叫んだ。


 あそこに! 力を振り絞って、窓を指差す。

「何?」

 みちびさんが窓に顔を向けた。

「何? どうしたの?」

 

 ああ、みちびさんには見えないのだ。

 

 その間にも、不気味な手は、鍵を開けようともがいている。懸命に、紗季に近づこうとしている!

「ま、真ん中に」

 ようやく紗季は呟いた。

「手が」

「また見えたの?」

 紗季は忙しなくうなずく。

「窓の外側で、中に入りたそうに鍵を探してる」

「そんな」

「きっと入りたいのよ。入って、わたしを」

 みちびさんが、窓に走り寄った。そして、窓の鍵に触れる。

「しっかり閉まってるし、何もいないわ」

 

 勘違いなのだろうか。見間違いなのだろうか。

 そのとき、窓越しに、二つの光る目が見えた。

「キャアアア!」

 紗季の恐怖は限界に達した。

「み、みちびさん、何かいる!」

「どこ? どこなの?」

 みちびさんは躊躇なく暗い窓に顔を近づける。

「みちびさん、気をつけて!」

 だが、振り返ったみちびさんの声は落ち着いていた。


「脅かさないで。野良犬よ。このあたりをいつもうろうろしているの」

「でも」

 みちびさんの言う通りなのだろう。そう言う間にも、光る目は、四つに増えた。それから、もう二つ、またもう二つ。

 怒気を帯びた唸り声が響いてくる。

「どうしたのかしら。今夜はやけに数が」

 みちびさんがそう呟いたとき、野良犬の一匹がこちらに向かって走り出した。それを相図に、ほかの犬たちも走り出す。凄まじい勢いだ。

「い、いや!」

 紗季は叫んだが、みちびさんに動揺は見えない。うっすらと笑さえ浮かべている。

 みちびさんの右手が、そっと窓の硝子に置かれた。


「行きなさい」


 すると、どうしたのだろう。野良犬たちはふいに、動きを止めた。殺気立っていた勢いが急速に絞み、すごすごと戻っていく。


 勢いよく、窓のブラインドが下げられた。

「これで心配ないわ」

 紗季は呆然とみちびさんを見つめたまま、動けなかった。



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