第9話

 大塚はマッくんといっしょに来ることもあれば、一人でふらりとやって来ることもあった。やって来ても、取り立てて、藍也のいなくなった日について、みちびさんや紗季に訊こうとはしなかった。


 それがかえって、気味が悪かった。それなら、なぜ、大塚は蛍火にやって来るのだろう。マッくんは、

「大塚もこの店のファンになったよ」

 などど呑気に言うが、とてもそうは思えない。大塚の暮らす町には、もっと気の効いた店があるだろうし、ここは集落の中にあるただ一軒の憩いの場だからこそ価値があるのだ。

 

 大塚のさりげない態度は不気味だったが、回を重ねるにつれて、紗季の笑顔は自然になっていった。変わらず七澤が通ってくれているせいもある。

 

 このまま穏やかに月日が過ぎてくれるといい。

 

 自分は何も望まない。今日を大切にして、静かに眠りにつければいい。

 だが、紗季に平穏は訪れなかった。


「どうしたの。顔色が悪いけど」

 みちびさんに訊かれて、はじめはなんでもないと答えていた紗季は、ある日、とうとうたまらなくなって、みちびさんに助けを求めた。店の営業を終えて、ふたりで片付けをしているときだった。

 

 いつものように表の看板を取り込みに行き、店に入ろうと店の扉に体を向けたとき、それは見えた。

「何が見えたって?」

 紗季が見たものを口にすると、みちびさんはよく聞き取れなかったのか、甲高い声で聞き返した。

「手です、――手が」

「手って、誰の?」

「誰って……」

 それ以上口にできなかった。

 あれは人の手じゃない。

 人の手だけれど、人の手じゃない。そうでなければ、手首から先だけが、闇の中に浮かんでいるはずがない。

 

 大塚が店にふたたび現れるようになってから、紗季は不気味なモノを見るようになった。

 はじめは、何か細く白いものが、闇の中に浮かんでいると思った。枝のような、棒のようなもの。

 次に目にしたときには、本数が増えていた。まるで枝が集まるかのように、それは近寄って、そして手の形になった。

 風呂から上がって、ふと風呂場のほうを振り返ったとき、洗い場の扉からそれが覗く。店の客の食べ残しを裏庭のゴミ箱に入れに行ったとき、箒と塵取りが立てかけてある壁の横に、それが浮かぶ。

 

 目にするたび、見間違いだと思おうとした。いつも暗い場所だったし、ほんの一瞬のことだったから。

 だが、その手は、日に日にはっきりとした形となって、紗季の視線の先に現れるようになった。

 手は、右手の手首から先だけだ。だらりと指先を下に向けている。道端に落ちた手袋のように生気がない。


「変なこと、言わないで、紗季ちゃん。なんか、見間違えたんじゃないの?」

 洗った皿を棚に入れながら、みちびさんは聞き流そうとした。

「違うんです、今日だけじゃないんです。もう、何度も」

 震える声で、紗季は訴えた。もう、耐えられない。思わずその場にうずくまって、両手で顔を覆った。

「ちょっと、紗季ちゃん?」

 こちらに顔を向けたみちびさんは、驚いてカウンターの外へ出てきた。


「しっかりして。いろんなことがあったから、そんなもんが見えちゃうのよ」

 そうだろうか。そうかもしれない。あんなことがあって、普通でいられるはずがないもの。

「大塚が来るようになったから、余計な心配をしちゃうのよ。だいじょうぶ。絶対、誰にもわからない。大塚に突き止められるはずない」

 みちびさんもしゃがみこんで、背中をさすってくれた。

「心配ないって。あれは今頃、裏庭で土に還ってるわ。深く埋めたんだし、そもそもあの場所は、畑の柵で囲まれてるんだから、誰も入らないのよ」

 紗季は激しく首を振った。


「違うの、違うのよ、みちびさん」

「違うって、何が」

「――藍也は畑にいないの」

「え」

 紗季は涙に濡れた顔を上げた。

「怖くて、わたし。大塚がいつか裏の畑を掘り返すんじゃないかって。だから、移したの。藍也を山奥に埋め直したの」

「――紗季ちゃん」

「ごめんなさい、勝手なことして。でも、すごく心配で。藍也の骨がここで見つかったら、逃れようがないじゃない」


「どうして相談してくれなかったの」

「だって……。これ以上みちびさんに迷惑はかけられません。だから、一人でなんとかしなきゃって思って……」

「全然気づかなかった――いつ?」

「お祭りの夜です。みちびさんが集会所へ行ったあと」

 みちびさんは遠くを見るような目になった。

「じゃあ、あの日、風邪をひいたっていうのは嘘だったのね」

 すみませんと、紗季は頭を垂れた。

「どこに埋め替えたの?」

 紗季は記憶をたどって、埋めた場所を説明した。

 道なき道を進んで行ったから、うまく説明できたとは言えないが、大まかな場所はわかってくれたようだ。目印は、沢に降りていく場所で、大きな木が二本立ち、その木と木をつなぐように植物の蔓が屋根のようにからまっている。

 掘り出した骨は、一斗缶二個に入れて運んだことも伝えた。


「大変だったわね」

 無我夢中だったから、疲れを感じる暇もなかった。なんとかやり遂げなければ。その思いに突き動かされていた。

 ふうっと大きく息を吐いて、みちびさんは立ち上がった。

「どちらにせよ、どこに埋めてあるにせよ、紗季ちゃんが不気味な手を見るのは、わたしたちがしたことと関係ないと思うわ」

「そうでしょうか。わたし、あの手が何かを言っているような気がして」

「何かって、何?」

 こんなときのみちびさんの強さには圧倒される。藍也が暴力を振るい、藍也の顔にグラスの中身をぶちまけたときも、鉛のように重い遺体を畑に運んだときも、紗季はただただみちびさんの強さに圧倒されていた。


 この人は、どんな生き方をしてきた人なんだろう。


 藍也を死なせてしまってから、そして土の中へ埋めてしまってから、紗季はひたすら怯えて暮らしていた。いつか、誰かが、警察なり大塚のような知り合いなりが蛍火へやって来て、藍也の眠る場所を突き止めるのではないかと、そればかりが頭を占めていた。だから、傍らにいるみちびさんについて、あまり深く考えてこなかった。

 遺体を埋めるのを手伝い、行き場のない紗季を匿ってくれているみちびさん。彼女にとって、紗季と生活を共にするのは、リスクがありすぎる。危険すぎる。

 それなのに、なぜ、みちびさんは、紗季を助けてくれるのだろう。


 こちらを見据えるみちびさんの目には、今もまた、圧倒的な強い光がある。

 それに比べて、自分の弱さときたら。

「もし、もしわたしが見ているのが、藍也の手だったら」

「あの男の?」

 みちびさんは、目を剥いて口元を歪めた。

「どうしてそう考えるの? 紗季ちゃんを恨んで出てきたって言うの?」

 紗季は震えながら、頷いた。

「わたしが見たのは、右手――藍也は右手にあの髑髏がついた指輪をしてた。わたしが見た手の指に指輪はなかったけど……」

 みちびさんは、呆れたように首を振った。

「紗季ちゃんが見た不気味な手があの男のものだなんて、あたしはそうは思わないわよ。それに、なんで手だけなのよ。あの男の亡霊が現れるんなら、全体が出て来なきゃおかしいじゃないの」

 そうかもしれない。だが、あの手は藍也の手であるとしか思えなかった。いくら指輪をしていなくても。


「もし、紗季ちゃんが言うように、その手があの男の手だとしてもよ、手だけが出てくるのは納得がいかないわ。だって、わたしたち、あの男の手を切り落としたわけでもないのよ。あの男の身体はどこも欠損せず地中に埋まってるはず」

 紗季ははっと顔を上げた。

「もしかして」

「何?」

 みちびさんが、不審そうに紗季の顔を覗き込む。

「わたし、埋め替えたとき、落としたのかも」

「落とした? あの穴の中に手の骨を置き忘れてきたってこと?」

「無我夢中だったから、よく憶えてない。骨はバラバラになってた。腕と手首で分かれる部分に、小さな骨がたくさんあって、そこから五本の骨がつながってる。それが指なの。でも、その指の関節もところどころ外れて、短い骨の集まりになってて」

 紗季は元整体師という仕事柄、人の骨の位置は大体頭に入っている。それでも、一つ一つの骨がどの部分なのか判断できない。


「掘り出して一斗缶に入れたとき、指の部分の骨がこぼれたことに気づかなかったのかも……。だから恨んで、ああやってわたしの前に現れているんだったら」

 背中に冷たい水を浴びたかのように、紗季は寒気を覚えた。みちびさんが、ごくりと唾を飲み込む音がした。

「きっとそうよ。わたし、穴の中に骨の一部を置き忘れてきちゃったんだわ。だから、その骨は体といっしょになりたくて……」

 どうしよう、どうしよう。

 あの骨は、手のほかの部分といっしょになるまで、ああやって目の前に現れるのだろうか。


「藍也は恨んでるのよ」

 紗季は叫んだ。自分でも驚く程、悲痛な声になった。

「だから、ああやって、わたしの前にやって来るんだわ。そのうち、手だけじゃなくて、体も――。顔も、足も現れて」

 体が震え出した。歯が鳴る。自分でもどうにもできない。

 みちびさんが駆け寄ってきた。

「しっかりして、紗季ちゃん。ねえ、紗季ちゃん!」

 あああと、紗季は呻いた。みちびさんの胸の顔を埋めた。それでも震えは止まらない。


「わかったわ。じゃあ、確かめましょう」


 耳元で低いみちびさんの声がして、えっと、紗季は顔を上げた。


「そんなに言うんなら、確かめてみればいいだけの話よ。あの男の骨がちゃんと揃っているか見てくれば気が済むでしょ」

 みちびさん、あなたは強い。

 あの夜と同じように、紗季はみちびさんに引きずられるようにして、裏庭へ出た。


「い、いやっ」

 目の前には、重い闇が広がっていた。建物の光で、どうにか見えるのは足元だけ。

「ちょっと待ってなさい」

 みちびさんはそう言うと、一人で庭へ出、スコップと懐中電灯を手に道具小屋から戻ってきた。

「ほら、紗季ちゃんも」

 懐中電灯の光の中に、みちびさんの顔が浮かんだ。思わず怯んでしまうほど、みちびさんの目は落ち着いている。

 手渡されたスコップを掴んだが、紗季の足は前へ出ない。

 ぐっと手首を掴まれて、紗季は踏み出す。

 棒のような懐中電灯の光を頼りに、紗季はみちびさんにしたがっていく。

 

 畑の柵の扉を開け、畑を横切った。

 藍也を二人で埋めた場所には、相変わらず腰の高さほどに伸びた雑草に蔓がからまっていたが、季節が進んで、若干雑草の山は小さくなっている。

「さあ、始めるわよ」

 みちびさんは、ザクッとスコップを土の上に突き立てた。紗季の持つ懐中電灯の鋭角的な光が、こんもりとした地面を照らす。

 紗季もスコップを手にし、地面を掘り始めた。土は硬かった。三度目の掘り返しだから、要領は得ていたが、思った以上に作業は進まなかった。このところ雨が降らなかったせいだろう。

 

 一メートルほど掘り進めたが、地面からは何も出て来なかった。

 ふうと大きく息を吐いて、みちびさんは脇の畝の上にしゃがみこんだ。

「ないよ。何にもない」

 土の感じから、自分たちが掘ったのは、どの辺りまでかはわかる。確かに、もう、藍也の骨はなかった。ここはもともと畑で、みちびさんが石や瓦礫の類は取り除いてあるから、異物があればすぐにわかる。

「紗季ちゃんは、全部運んだんだよ」

「――はい」

「これで、紗季ちゃんが新しく埋めた場所に骨が揃ってれば、もう心配ないよね?」

 まるで子どもに言い聞かせるような言い方だった。この闇と、この行為にそぐわない明るい声だ。


「揃ってるか確かめないと」

 みちびさんは立ち上がり、土を元に戻す作業を始めた。

 ザザっと、竹林の中で何かが動く音がした。ウサギかイノシシだろう。

 初めて藍也をここに埋めたとき、風の音にすら背筋が震えた。それが、今はどうだ。些細な物音ではびくともしない自分がいる。

 

 紗季は、自分も、この恐ろしい闇の一部になってしまったように思った。目の前でスコップを振るうみちびさんもまた、深い闇そのもののように。



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