第8話 第三章

 初めて顔を見せてから三日と経たないうちに、七澤はふたたび蛍火へやって来た。

 

 初めてのときと同じように、野山を駈けずり回ったあとなのか、帽子にも衣服にも、落ち葉をまとって、それを申し訳なさそうに払ってから、七澤は紗季の大好きな笑顔を浮かべて入ってきた。

 

 七澤がやって来る時間は早いから、七澤の一日を、みちびさんとともに、紗季は存分に聞くことができた。集落にある寺の庫裏で、埃まみれになって、古い文献を探したとか、集落の老人の家で、長い長い昔語りを聞いたとか。

 七澤は特別話がうまいというわけではなかったが、熱意があるせいか、興味のない内容でも、つい引き込まれて聞いてしまう。滑らかな、心地いい言葉は聞こえてこない。代わりに、誠実な、嘘のない七澤の人柄がにじみ出てくる。

 

 紗季には新鮮だった。いままで紗季が関わってきた男たちは、耳に心地いい言葉を繰り返したものだ。そんな男たちは、こちらの心の隙にあっという間に入ってきて、気づかないうちに、心を鷲掴みにしてしまう。

 藍也もそうだった。甘い言葉で緩くなった紗季の心に、すっと入り込んで、そして内側から紗季を縛り付けた。

 

 二回、三回と七澤がやって来るたび、紗季は七澤に惹かれていった。七澤のほうも、紗季に好意を持ってくれているのがわかった。この頃では、七澤は来るたび、蛍火に小さな土産を持ってくる。それは、フィールドワークの途中で摘んだという田舎では見飽きた野の花だったが、みちびさんは喜んで硝子の花瓶に生けた。

 そして七澤が帰ると、みちびさんは花を見つめて言うのだった。

「これ、紗季ちゃんに持ってきたのよ」

 そのたび曖昧な返事をする紗季だったが、ある日、ほんとうに紗季へのプレゼントを七澤が持ってきてから、紗季はみちびさんの目を気にする余裕もなく七澤と話し込むようになった。


 七澤が紗季にくれたのは、知り合いの染色家が染めたという、薄紫色のハンドタオルだった。高価な品ではないし、特別感があるわけでもなかったが、そっと手渡してくれた七澤が、

「いっしょに野山を歩いてくれませんか」

と言ってくれたことが、紗季の気持ちを前進させた。

 

 この人といっしょに生きていきたい。


 自分はしあわせになってはいけない。明日を心待ちするような日々を送ってはいけないと戒めていた気持ちが、紗季の中で崩れ始めた。


 タオルのプレゼントを期に、七澤に誘われるようになった。七澤は休みの日に町へ出かけようとか、遠くの博物館のチケットを持ってきたりした。

 だが、紗季は七澤の誘いを断り続けた。七澤の誘いを受けたら、自分はここにいるのが辛くなるだろう。自分はここを離れるわけにはいかないのだ。ここでさびしく生きていくのが、藍也への罪滅ぼしだ。


 何も知らない七澤は、そんな紗季を歯がゆく思っているようだった。だが、七澤は焦らなかった。七澤が一度結婚に失敗し、その後、何年も失意の時期を過ごしたと紗季は聞いた。そんな七澤だったから、紗季の煮え切らない態度を、しあわせに怯えているだけだと思ってくれたのかもしれない。


 七澤を思うと、紗季は知らず知らず涙が出てくる。みちびさんは、そんな紗季に、やさしく語りかけてくれた。

「自分の気持ちに素直になっていいんだよ」

 みちびさんとの間で、あの夜のことは話さない。暗黙の了解で、あの夜の出来事は封印している。

「何も心配いらないから」

 みちびさんに背中を押されて、紗季は少しずつ七澤に心を開くようになった。封印すべき過去などない、ごく普通の女のように、七澤に向かえるようになった。


 だが、そんな穏やかな日々は、ふたたび現れた男によって壊された。

 大塚がふたたび蛍火にやって来たのだ。明け方、激しく北風の吹いた寒い日だった。



       第三章



 七澤は麓の町より大きな町の大学で教鞭を取っている。フィールドワークに出かけ、いろんな土地に出向くが、基本的には町にいる。そのため、七澤は、このところ、ほぼ毎日紗季に会いに蛍火を訪れていた。

 そんな七澤が、東北で行われる学会に出席するため、一週間ほど町を出ることになった。大塚がやって来たのは、七澤が東北へ旅立った翌日だった。

 その日、紗季はみちびさんが驚くほど快活に過ごした。今日からしばらく七澤に会えないというさびしさがあるのにだ。

 さびしさと不安は大きく違う。愛されているという充実感が紗季を満たし、一人になっても心に淀みはなかった。誰かを好きになって、そんな自分でいられるのは初めてで、それが嬉しかった。

 

 店の買い出しを頼まれ、朝から町の市場へ出かけ、紗季は午後になって蛍火に戻った。車から食料や店で使う備品の入った籠を抱えて蛍火の扉を開くと、見覚えのある顔が、カウンター席から振り返った。

「お久しぶりです」

 大塚は一人だった。開けたドアから流れた表の冷たい風に、大塚は瞬間、顔を歪める。

 どうもと呟いたものの、紗季はすぐに大塚から目を逸らした。嫌な予感が体中を駆け巡っていく。


「紗季さんが帰るのを待ってたんですよ」

「営業中じゃないって言ったんだけどね」

 みちびさんがカウンターの向こうから顔を出した。

「そんな。営業中の札が出てたじゃないですか」

「それでも休んでる日があるの。今日は買い出しに行ったり準備の日だから」

 無表情で答えながら、みちびさんは紗季から籠を受け取った。瞬間、みちびさんの目が紗季を見つめて光る。

 だいじょうぶよ。そう言っているように見える。


 籠を渡してからも、紗季は大塚のほうに顔を向けず、自分の仕事を始めた。買ってきたクッションカバーのビニール袋を開ける。クッションのカバーを、冬っぽいものに取り替えようと言い出したのは、紗季だった。七澤が来るようになってから、紗季はいままでは気にならなかった店のインテリアに気が向くようになった。


「ねえ、紗季さん」

 大塚が声を上げた。

「ママは何も憶えてないって言うんだけど、紗季さんも憶えてませんか」

「何をですか」

 努めて明るい声を出そうとしたが、うまくいかなかった。声がかすれる。

「あれ? 紗季さん、風邪?」

 それには答えないで、紗季はビリリッと勢いよくビニールを裂いた。

「ほら、以前ここに来たとき、僕の同級生の安東藍也が行方不明になっているとお話したでしょう?」

 冬っぽいといっても、紗季が選んだ新しいクッションカバーは、黄色い花柄だった。冬というより、春の絵柄。今日これを選んだときの、弾んだ気持ちが蘇る。


「あれから町でいろいろ調べてみたんですよ。そしたらね、やっぱり――」

 そこで大塚は言葉を切って、飲みかけのコーヒーを口に含んだ。

 そんな様子をつい食い入るように見つめてしまった自分に、紗季は思わず唇を噛む。

 紗季の視線に気づいた大塚が、探るような目になった。

「どうやら安東が借りていた白いセダンが、この集落のほうへ向かったみたいなんですよ」


 ジャーと、みちびさんが大きな音を立てて水を流した。


「ここに立ち寄ったなんてことはなかったですかね? そうじゃなくとも、安東のものらしき車が通るのを見たとか」

「見なかった。わからない、です」

 返事が早すぎただろうか。大塚は驚いたふうに瞬きをする。

「――そうですか。もし、何か思い出したら、僕に連絡ください。大の男がある日突然消えてしまうなんて、どう考えてもおかしいですからね。警察は取り合ってくれませんが、僕は探してやりたいんですよ」


 そのあと大塚は、たわいない世間話をして店を出て行った。世間話には、みちびさんが応対してくれた。

 大塚が店を出たあと、客が来たせいもあって、みちびさんも紗季も忙しくなった。 

 大塚が起こした波紋は、カラオケの大音量や、グラスのかち合う音、声高な話し声や笑い声に紛れていった。

「今日で諦めたわよ」

 みちびさんはそう言ったが、予想は当たらなかった。大塚はそれから頻繁に蛍火にやって来るようになったのだ。



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