第7話

 祭りが終わると、集落には一気に冬がやって来る。


 色鮮やかだった集落の木々も葉を落とし、刈り取られた田は寒々しく、ぞくりとするような冷たい風が渡り始める。


 藍也の骨を埋め直して、数日が過ぎた。

 みちびさんには気づかれずに済んだ。祭りの夜、真夜中に帰宅したみちびさんは、紗季の枕元にやって来て、熱はないかと訊いてくれた。憂鬱な表情で応えた紗季に、何の疑いも抱かなかった。   


 その後、みちびさんに変わった様子は見られなかった。紗季は自分の仕事に自信を持っていた。泥だらけのスコップや長靴はしっかり洗い、雑巾で拭いては不審に思われるから、新聞紙で拭い、翌日に出すゴミといっしょに捨てた。

 もちろん、藍也をはじめに埋めた場所も、元通りにヤブカラシの小山を作っておいた。藍也を埋めてから、みちびさんは畑に出る回数が極端に減っている。しかも、秋に収穫できる野菜は植えていないとかで、畑に目はいかない。それも都合がよかった。

 蛍火は相変わらず常連客で賑わい、時折女性グループの予約も入ったりして、穏やかに日々が過ぎていった。


 仕事と言える仕事の経験は整体院だけで、紗季に水商売の経験はなかったが、ぎこちなかった給仕も、この頃では滞りなくこなせるようになっていた。自分にはここしか行き場がないのだ。その思いが、ジョッキにサーバーからビールを注ぐときも、小鉢に突き出しを入れるときも、紗季の気を引き締める。

 そんな紗季の働きぶりを、みちびさんは好ましく思っているようだった。紗季はみちびさんに追い出されない限り、ここに居なければならない理由があるというのに、

「紗季ちゃん、ずっとここにいてね」

と、照れくさそうに言ったりする。

 常連客の有賀さんや古川さん、そしてマッくんも、

「紗季ちゃん、辞めないでよ」

と、来るたびと言っていいほど口にしてくれる。

 そんなとき、紗季は自分への戒めを、つい忘れそうになってしまう。

 

 自分はしあわせになってはいけない女なのだ。

 

 戒めは紗季を強く縛っているが、あたたかな人々に囲まれていると、この集落の空に輝く星の、その中のほんのかすかな光にでもなれたらと願ってしまう。大きく輝く星のそばで、弱く小さく光る星。澄んだ空でなければ見えることのない、小さな名もない星でいい。そんなふうに自分は瞬いていけたら。

 もし、七澤ななさわに出会わなかったら、紗季は一生蛍火でみちびさんを支え、裏山の深い場所で眠る藍也を弔って生きていっただろう。

 

 七澤は十一月に入った風の強い日の夕暮れどき、一人で蛍火にやって来た。使い古されたような帽子を被り、これもくたびれたリュックを背中に背負って、懐かしいような笑顔を浮かべて、蛍火の扉を開けた。

 集落の人間ではないのは、一目でわかった。薄汚れた風体だが、どことなく都会的な雰囲気を醸し出しているし、第一、集落の人間なら、リュックサックを背負ってはいない。

 といって、登山の観光客ではあり得なかった。この集落には、登山愛好家が喜ぶような山はないし、ハイキングを楽しむための道の整備もされていない。


「なんでもいいから食べさせてください」

 男は倒れるように店のテーブル席の椅子に座ると、そう言った。男が座った椅子のまわりに、服からこぼれ落ちた草が散った。

聞くと、男は朝から何も食べてないという。

「夢中で歩き回ってまして、それで、すっかり食事を摂るのを忘れちゃって」

 あり合わせのものでいいならと、みちびさんが適当にみつくろって出した食事を、男は勢いよく食べた。

「そんなに急いで食べると、喉に詰まっちゃいますよ」

 みちびさんがおもしろそうに言い、紗季は請われるまま、何度もお冷を運んだ。ごくごくとおいしそうに水を飲み、そして揚げ物や煮物にかぶりつき、ご飯を流し込んでいった。


 日に焼けた顔と筋肉質の身体。足元は歩くのを重視した登山用の靴を履いていた。年齢は、蛍火に入ってきたときは三十代だと思ったが、近くで見ると、もう少し老けて見えた。といっても、四十のはじめぐらいか。

 あまりジロジロと見るのは失礼だと思いながらも、紗季は男から目を離せなかった。何がどうというわけではないのに、見つめていたい何かがある。

 一体、それは何だろう。


「ねえ、ね、紗季ちゃん」

 みちびさんの声に、紗季は気づかなかった。男は食事をようやく終えて、ふうーと息を吐きながらタオルで顔を拭いていた。

「ほら、コーヒー、持ってって」

みちびさんは意味ありげに笑っていた。紗季の変化に気づいたのだろう。

「あ、はい」

 コーヒーをテーブルに置くと、男はありがとうと言って、紗季に笑顔を向けた。店に入ってきたときと同じ、懐かしいような笑顔だった。それがどんな笑顔なのか、あとでみちびさんに訊かれたが、紗季はうまく説明できなかった。子どもの頃見た憶えがある笑顔というか、子どものように屈託のない笑顔というか。

 なんだか胸が詰まって、紗季はコーヒーをテーブルに置いても、一言もしゃべれなかった。


 お盆を脇に抱えてキッチンに戻ってくると、ようやくみちびさんが声を上げてくれた。

「どうしてこの集落に?」

 コーヒーカップに口をつけ、アチッと小さく叫んでから、男は顔を上げた。

「調べ物をしてるんですよ」

 そして、紗季をじっと見つめた。その目が心持ち細められて、それからほんの少し見開かれる。

 男の視線の不自然さに、みちびさんが訝しげな目になった。その目で、紗季を見る。みちびさんの目は、知り合い?と訊いている。

 紗季は洗った布巾を広げるふりをしながら、みちびさんにだけわかるように首を振った。 見つめられて、首筋が熱い。


「調べ物? 何を調べてらっしゃるんですか?」

 殊更明るい声で、みちびさんが訊いた。紗季は俯いて、布巾をまた畳み始めた。

「古い言い伝えを調べてます。といってもね、妖怪とかお化けの類」

 それから男は七澤と名乗り、大学で民俗学を教えていると言った。

「あら、大学の先生なの?」

 みちびさんの言い方には、こんなみすぼらしい服装の人がと言いたげだった。紗季はそのみちびさんの表情がおかしくて、つい笑ってしまった。

 七澤がきょとんとした表情を返した。その表情がまたおもしろくて、紗季はふたたび笑った。

 紗季の中に、言葉で表しようのない何かがこみ上げてきた。喜びを予感させるような、ふいに、ろうそくにぽっと火が点ったときの驚きのような。

 

 訥々とつとつと自分の研究について語り始めた七澤の話を、紗季は夢見心地で聞いた。何やら難しくて解りづらかったが、七澤が心底楽しんでいるのは伝わってきた。そのフィールドワークのために、七澤はこの集落を歩き回っているという。

「人の住むところ。そこには必ず、不可解な伝説や因縁話があるんです。妖怪やお化けの類は、人間の営みから生まれてくるんですよ」

 目をキラキラさせて語る七澤に、紗季は胸を締め付けられた。

 七澤が出て行ってからも、胸の鼓動は収まらなかった。


「すてきな人だったね」

 夜の仕込みを始めたみちびさんは、そう言ってから、ちらりと紗季を見た。

「また、来るのかしらね」

 さあと紗季は答えて、テーブル席に置いてある紙ナプキンの補充を続けた。体を動かしていると、いつもの調子が戻ってきて、浮き立った心を静められた。


 また、来て欲しい。


 でも、来て欲しくない。


 みちびさんがミキサーをかけ始め、ジャーッという音が店の中に響いた。

 七澤が座った場所に、枯葉が一枚落ちていた。それを拾い、紗季は掌に載せた。こんばんはと、店のドアが開き、今夜の客が入ってきた。流れてきた風で、枯葉はふわりと飛んでいった。



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