第5話

 きっと悪夢というのは、あの夜を指す言葉なんだろう。

 

 なす術のない絶望というのは、あの夜のことだ。

 

 腑抜けになって泣くばかりの紗季と違って、みちびさんの行動は素早かった。

「夜が明ける前に、埋めるのよ」

「埋めるって、どこに」

「裏の畑に埋めればいいわ。誰にも気づかれない」

「そんな」

「じゃあ、どうするつもり? 勝手に転んで死んだなんて、誰も信じてくれないわ。それとも紗季ちゃん、自分が殺しましたって、警察に言うつもり?」

 紗季は激しく首を振った。それは、嫌だ。それは、無理だ。

みちびさんが薄く微笑んで応えてくれた。憐れむような、慈しむような微笑み。


「これは正当防衛だったのよ」

 そう。そのとおり。もし反撃しなければ、こちらが酷い目にあっていただろう。

 だから、仕方なかった。自分を守ろうとしたら、相手が死んでしまったのだ。

 

 だが、紗季は心の奥を探ってみる。


 ほんとうにそうだろうか? 殺したいと思ったことはなかったか? ひどく殴られるたび、こんなやつ死んでしまえばいいと何度も思ったのではなかったか?


「ボヤボヤしてないで。運ぶわよ」

 藍也の横の血だまりに蹲ったみちびさんは、自身も血だらけになりながら、藍也の両腕を持ち上げた。

「あんたは、脚を持って。引きずってくわよ」

 言われたとおりに脚を持ち上げた紗季は、みちびさんとともに藍也の体を動かし始めた。想像以上に、死んだ藍也は重たかった。藍也の身長は約170センチ。中肉中背。筋肉質。


 無理だ。即座にそう思った。裏庭まで運んで埋めるなんて、そんなことが現実的にできるとは思えない。

 紗季は仕事で、藍也よりも大柄な男をマッサージした覚えがある。だが、人は無意識でも生きているときは、動かし易いのだ。死んだ途端、こんなに重くなるなんて。

 だが、みちびさんは、黙々と進んでいく。紗季はみちびさんに引きずられ、進む。店の床から土間へは容易だった。水浸しの布団を転がす要領で、土間へ落とせばよかった。

 

 土間から庭へは、高くなった敷居の上を跨がなくてはならなかった。そのためには、藍也を持ち上げる必要があった。

「ほら、せーのでやるわよ」

とめどなく涙を流しながら、紗季は両腕に渾身の力を込めた。

一度ではうまくいかなかった。二度目でようやく、ほんの数センチ、藍也を持ち上げられた。

 ドサッとコンクリートの三和土に落とし、それから草の生えた通路に転がし、ようやく土の上に出た。

 家の中からの薄い明かりで、裏庭が青く浮かび上がっていた。平坦な地面が山の斜面まで続き、動物避けか、四方に杭が打ち付けられ、金網が渡してあった。金網のまわりには、大人の腰の丈ほどの草が生えていて、中はよく見えない。


「猪に荒らされないように囲ってあるのよ。だから、ここにはわたし以外、誰も入って来ないわ」

 みちびさんはそう言うと、乱暴な手つきで出入り口らしき金網の扉を押した。

「ちょっと大変だけど、あそこまで運びましょう」

 みちびさんが指さしたのは、畑の端のほう、竹林が迫り、畑との境界が曖昧な部分だった。徐々に闇に慣れてきた目で見渡すと、みちびさんがここで様々な野菜を育てているのがわかった。手前には背の低い青い葉が茂り、真ん中あたりには白菜か、白っぽい丸い野菜が転がっている。

「あそこは野菜を育ててる場所じゃないの」

 たしかにその場所は、物置場所としているのか、壊れた椅子や農具が無造作に置かれていた。


 畑の土はふかふかとしていた。足を取られて、とても歩きにくい。しかも野菜のために作られた畝があり、気をつけないと転びそうになる。

 持ち上げて運び続けるのは無理で、ほとんど引きずりながら、進むしかなかった。藍也の体は野菜を倒しながら引きずられていく。


 ようやく目的の場所にたどりつくと、みちびさんは、家の中に戻り、柄の長い、大きなスコップを二つ持って戻ってきた。雪かきに使いそうな大ぶりのものだ。

「穴を掘るわよ」

 みちびさんにスコップを渡されて、紗季は機械的に体を動かし始めた。まだ夜明けには間があった。辺りはしんと静まり返っていて、獣たちも眠る時間なのか、鳥の鳴き声ひとつ聞こえてこなかった。



「もう忘れましょ。大塚がまた来るとは限らないんだし、来たって、ここであの男が死んだ証拠は残ってないんだから」

 

 カチンとグラスの氷を鳴らしてから、みちびさんは言った。


「でも、もし、裏の畑を掘り返されたら」

 あの夜から七ヶ月ほど経った。土の中で藍也はとうに朽ちているだろう。だが、骨は残っているはずだ。

 もし、大塚が警察を呼び、畑を掘り返して骨が調べられたら。

紗季に捜査の詳しいやり方はわからないが、テレビや映画で見る限り、骨からもいろんなことがわかるようだ。きっと警察は、畑から掘り出した骨が、藍也だと突き止めるだろう。


 そうなったら……。


 絶望的な気持ちになった。


 そうなったら、もう、おしまいだ。


「もしよ、もし、大塚がまたやって来て何かを訊いてきても、絶対答えちゃダメよ。安東藍也なんか知らないと言い続けるのよ」

 みちびさんの澱んだ目が、紗季を見据えた。

「何もしゃべっちゃダメ。わかった?」

 紗季は頷いた。みちびさんには逆らえない。みちびさんは恩人なのだ。藍也から紗季を救ってくれ、そしてここに匿ってくれた。


 藍也を埋めた夜が蘇る。


 あの夜、藍也を埋めるという地獄のような仕事を終えた後、紗季はみちびさんの指示に従って、夜が明ける前に、車に乗って藍也のアパートに戻った。そして藍也の部屋にあった自分が暮らした証拠となる全ての物を運び出した。荷物は少なかった。数点の衣料と洗面用具ぐらい。以前使っていた家財道具、洗濯機や冷蔵庫は女友達のところへ転がり込んだときに、売れるものは売り、売れなかったものは知り合いにあげたりした。ほんとうに、身一つで、藍也のところにいたのだ。

 

 それから、町の中心部へ戻り、駅へ向かった。夜が明けるまでは、駅前のロータリーに置かれたベンチで過ごした。自動販売機から飲み物を買って飲み、始発を待った。

 始発が動き出すと、紗季はみちびさんの指示通り、兎の谷に向かった。麓の町にも数件なら宿はあるが、小さなホテルや旅館では人目につき易い。知り合いに会う危険も高い。兎の谷なら、その確率は低いとみちびさんは言った。


 兎の谷の街に着くと、紗季はすぐに宿に向かった。宿は、みちびさんに指定されていた。

「あそこなら、女一人で泊まりに来たって不審に思われないわ」

 みちびさんに指定されたホテルは、殺風景なビジネスホテルだった。兎の谷のホテル街と呼ばれる界隈の、端に位置するホテル。六階建ての、くすんだクリーム色の外壁の、細長い建物だった。

 建物のすぐ近くから、建物を見ながら電話をかけるというのは変な気分だった。しかも、遠くからやって来た観光客を装うのは。

 

 部屋はすぐに取れた。それでも紗季は、十時まで駅前のパン屋がやっているカフェで時間を潰してから宿へ向かった。これもみちびさんの指示だった。朝早すぎる到着は、宿側に不審を抱かせるかもしれない。不自然に見られないように。自然な、ごく自然な態度を心がけるように。ふらりと遊びに来たOL。それが紗季の役目だった。

勤めていた整体院に電話を入れたのは、九時を過ぎてから。パン屋の店員の元気な声が聞こえないよう注意しながら、紗季は同僚の整体師に早口で告げた。

「田舎の母が急病で、これからすぐに行かなきゃならなくなったの」


 紗季には母がいないと、同僚の誰もそれを知らない。

「だから、店長に、しばらく店を休むって伝えといて」

 電話の向こうで息を飲んだ同僚が、店に入ったばかりの新米整体師だったのも幸いした。

「また連絡します」

 紗季はそう言って、相手の返事を待つ間もなく電話を切った。


 掌のスマホが、汗でびっしょり濡れていたのを憶えている。慌ててテーブルのナプキンを掴み拭いた。スマホはすぐにきれいになったけれど、紗季の動揺は収まらなかった。テーブルの上には、店に長居をするためにたくさん買った調理パンが、食べきれないまま残された。


 それからは、市内のホテルを転々として過ごした。同じ宿には、三日もいなかった。

 日中は宿を出なかった。知り合いと顔を合わせる危険を避けなければならない。これもみちびさんの指示だった。宿を変えるたび、紗季はみちびさんに連絡をした。

「もうちょっと我慢するのよ」

 みちびさんはそう言って紗季を慰めてくれたが、紗季はみちびさんが心配するほど苦痛には感じていなかった。専門学校に通っていた頃から、思えばずっと自分は働き詰めだったのだ。休みを取るのは、明日が不安でできなかった。昼の光の中で、ベッドの上で何時間もビデオを見て過ごすなんて、夢のようだった。

 

 三週間が過ぎた頃、みちびさんから連絡が入った。紗季は蛍火へ向かった。蛍火では、二階のひと部屋をあてがわれた。そして、その日の夜から、紗季は蛍火を手伝った。みちびさんは、客たちに、親戚の子だと紗季を紹介した。客の誰からも、奇異な目を向けられなかった。

 

 みちびさんの指示は的確だったと思う。鮮やかなほど、あの夜以後の紗季の行動を明確に示してくれた。

 蛍火に来るまでの間、紗季はずっと息を詰めて暮らしていた気がする。それが、蛍火に来てから、少しだけ呼吸が楽になった。

 

 ただ、二階にあてがわれた部屋の、裏庭側の窓を紗季は開けたことはない。



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