第4話

 藍也は暗い方のテーブル席へ進んで行き、どかっと腰を下ろした。そしてビールを注文すると、ごくごくと飲み始めた。


「こっからはおまえが運転しろよ」

と言い放って、ビールの次にはハイボールを頼んだ。

 

 靴のまま、椅子の上に足を投げ出し、藍也は傍若無人に振舞った。もともと藍也は、そう酒に強いほうじゃない。手元が狂って突き出しのナッツの皿を落とし、おろおろと豆粒を拾う紗季に、うぜえんだよとおしぼりを投げつけたりした。

 

 人前では穏やかな振る舞いしかしないのに、あの夜、藍也はおかしかった。お酒がそうさせたのかもしれないし、人は知らず知らず運命の糸に操られてしまうときがあるのかもしれない。

「なあ、おばさん、こいつね、犬の真似がうまいんだよ」

 そう言って、藍也はナッツを投げては紗季に拾わせた。拾い方が悪いと、髪の毛を引っ張られた。情けなくて、涙ぐみながら、紗季は藍也に従った。

 

 みちびさんは見ないふりをしていたが、椅子を倒して紗季が転んだときは、カウンターの中から出てきて、藍也を制した。

「あんた、いい加減にしたら」

「悪いね、おばさん。店のものは壊さないから」

 へべれけになっていた藍也は、そう言いながらも、

「こいつはこうしないとわかんないんだよ」

と、床に這いつくばる紗季の背中に蹴りを入れた。蹴りは何度も続いた。いつもより、激しかった。


「やめなって言ってんのよ!」

 みちびさんは怒鳴り声を上げたが、出て行けとは言わなかった。今にして思うと、はじめから、みちびさんは紗季を助けようと思っていたのがわかる。迷惑な二人を追い出してしまえば、それで済むのにそうしなかったのだ。

 みちびさんは紗季と藍也の間に立って、紗季をかばってくれた。


 そんなみちびさんの態度が、余計に藍也の怒りに油を注いだかもしれない。藍也はさらに興奮しはじめ、みちびさんを押しのけると、紗季を引っ張って床に倒し、馬乗りになって紗季を殴り始めた。

「やめなって言ってんだよ!」

 とうとうみちびさんも手加減をする必要がないと思ったのか、テーブルの上にあった藍也の飲みかけのウィスキーのグラスを掴むと、中の液体を藍也の顔にぶちまけた。


「おい、客に向かって何すんだよお!」

 何すんだよおの最後の部分が、はっきり呂律が回っておらず、目はすわっていた。これまで見たことのない藍也の表情だった。

 ううっと呻いて、藍也はみちびさんに向かっていった。藍也が腕を上げた瞬間、紗季はみちびさんの前に回って、藍也が振り上げた拳をまともに受けた。肩に激痛が走ったが、すぐさま藍也を押しのけることもできた。


 ガタンと大きな音を立てて藍也が床に転がった。事態が信じられないといった表情で、藍也が紗季を振り返った。

「お、――おまえ、よくも」

 すぐさま起き上がって、藍也は紗季に向かってきた。紗季を殴ろうと腕を振り上げるが、酔っているせいか足元がふらつき、紗季の肩をかすめる。

 テーブルの上に、大きな硝子の灰皿があった。紗季は咄嗟にそれを掴み、藍也の顔めがけて振り下ろしたが、藍也はうまく避けた。が、そのままずるりと体が傾ぐ。

「わぁあああ」

と叫んだのは、藍也だったのか自分だったのか。

 

 床に転んだ藍也の先にあったのは、集落の誰かが持ってきた石の置物だった。掌ほどの大きさの、尖った石だ。富士山の形に似ているから縁起がいいと、店に置くといいと言われたと、みちびさんに聞いた憶えがある。 


 その石の尖った部分に、藍也の頭部が落ちた。首の後ろ。まるで狙ったように、藍也の頭部は命中した。

 瞬間、藍也は何が起きたのかわからなかったのだろう。目を見開き、戸惑った表情を見せた。それが、すぐに恐怖と苦痛に変わった。


「いあやああ!」


 駆け寄ろうとした紗季は、みちびさんに抑えられた。藍也から吹き出した血が、みるみるまわりを赤く染めていく。

 藍也は呻き、やがて静かになった。


「――どうしよう。あたし」


 手にした灰皿を、紗季は呆然と見つめる。

「どうしよう、――藍也が死んじゃう」

 紗季はみちびさんの腕を振り払って、藍也の傍らにしゃがみこんだ。

「ねえ、藍也、起きて、藍也。起きてってば……」

「もう、死んでるわよ」

 紗季はみちびさんを振り返った。

「そんな。殺しちゃったってこと―-」

 みちびさんは、悲しそうな目をして藍也を見つめている。

 みちびさんの、乾いた声が続いた。


「――違う。自分で転んで死んだのよ」


 

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