第3話

 みちびさんが三倍目のウィスキーを飲んでいる。


 マッくんと大塚を送り出してから、みちびさんはお酒を飲み続けている。怯える紗季を慰めてくれたが、ほんとうはみちびさんだって不安なのだ。

 

 明かりを落とし、カウンターの上のスタンドの光だけが照らす店の中は、いつもより狭く頼りなく感じた。壁の明るい風景画や、集落のおばさんたちが持ってきた手作りの置物が陰になっているからだろう。


「だいじょうぶよ、わかりゃしないから」

 もう何度目かの同じセリフを、みちびさんは繰り返した。

「あの大塚って人、警察じゃないんだし」

「でも、写真まで用意して探してる。あの写真を見て、誰かがこの集落に来た藍也を憶えていたら……」

 有り得ない話じゃないと、紗季は思う。乗っていたのは、ごく普通の白いセダンだったが、写真の男が助手席に女を乗せて走り去って行くのを、誰かが見ていたかもしれない。


「あんな時間に、誰も見てないわよ」

 たしかに遅い時間だった。だが、真夜中というわけでもない。ただ、土砂降りだったから、車の行き来は少なかったし、道を行く歩行者は傘をさしていた。

「二人の行先は誰にも言ってなかったんでしょう?」

 紗季は深く頷いた。これも、あの日以来、何度もみちびさんに確かめられた。あの日の行動については誰も知らない。そもそも、藍也に紗季という女がいたということすら、藍也のまわりの誰も知らなかったんじゃないか。


 いや、紗季は藍也の女と言えるだろうか。


 あの日を境に、紗季はそれまでの人生を振り返るようになった。あの日――安東藍也を死なせてしまい、土の中へ葬るまで――自分の人生のどこに、あの日へ向かう道しるべがあったのか。

 紗季は、麓の町で生まれ育った。近所の小学校から中学校へ。高校は、町に二校しかなかった。そのうちの距離的に近い高校へ通い、そこを卒業すると、手に職をつけるために専門学校を目指した。

 整体師になろうと思ったのは、人に関わる仕事がしたかったからだ。だが、そのための学校は町にはなかった。

 

 生まれた町を出ることに躊躇はなかった。父娘二人の暮らしに未練はなかった。紗季は義父と血がつながっていない。紗季の両親は、紗季が小学校へ上がる前に、父の暴力が原因で離婚している。母は、離婚後すぐに、義父と再婚した。母よりもふた回りも年上の、役所勤めの男だった。

 家を出る選択に迷いがなかったのは、義父との折り合いが悪かったせいではない。むしろ、父とは、血が繋がっていないというのに、うまくやれた。といっても、お互いが愛情を持って接したというわけではない。父はむしろ紗季に無関心だった。数年後、母が出て行ってしまってからも、態度を変えないまま、母が残していった家で、紗季との暮らしを続けた。


父には感謝している。中学に上がった紗季を、

「あんた、もうだいじょうぶでしょ」

 そんなセリフを残して去っていった母への憎しみは消えないが、義父へは感謝しかない。

 心が通じ合った憶えはなかったが、少なくとも、義父はどこにも行かなかった。紗季が生まれた家で暮らせたのは、義父があの家に居続けてくれたから。母の実家だった家は、古びたごく普通の木造二階家だったが、父娘二人が住むにはじゅうぶんだった。

 

 紗季は生まれた町を出た。

 目指したのは、日本海に面した大きな街だった。兎の谷にも、いくつも整体を学べる学校はあったのに、山を越え、知らない街を目指したのは、山に囲まれる世界に対する閉塞感があったからかもしれない。といって、自分が特に冒険心が強いとか、新種の気鋭に飛んでいたというわけではないと紗季は思う。友達の誰もが、海と山のどちらが好きかと訊かれたら、海が好きと答えていた。山国で育った者にとって、海は憧れだ。紗季にとって、海は新しい世界の象徴だった。

 

 ふとしたときに、紗季は初めて見た海を思い出すことがある。お客さんへの施術が終わって、冷たい麦茶を運んでいるときや、急な雨で洗濯物を取り込んでいるときなどに、あのときの海が、心の奥に浮かんだりする。

 紗季が見た日本海の海は、波が高く曇りがちだった。水平線は常に烟り、夏は短かった。

 あの町で、背後に迫る山並みを振り返りながら、いつか、自分は山へ帰っていくだろうと思っていた。そして、就職先を決めるとき、兎の谷を選んだ。


 ふたたび山に囲まれて、紗季は八年、兎の谷の整体院で働いた。二十一から二十九になるまで。独立しようという夢があった。観光地としても温泉地としても大きな街だった兎の谷は、開業するにはもってこいの場所と思えた。

 麓の町へ戻ってから、紗季はあの八年を、ほとんど思い出さずに暮らしてきた。思い出すと、辛くなるからだ。

 

 兎の谷で、希望に胸をふくらませていたのは、はじめの数年だけだ。夢は次第に脇へ追いやられ、何か得体の知れない倦怠感が、紗季の毎日を削り取っていった。

 おそらく、付き合った男がいけなかったのだろう。

 後になってみれば、そうわかる。

 どの男にも稼ぎをあてにされ、貯金が減っていった。それでも、懲りもせず、同じような男と知り合っては別れる生活を続けていたのは、さびしかったからかもしれない。


 兎の谷での生活が九年目になろうとしたとき、麓の町に残してきた義父が倒れた。知らせを受けて帰ると、病院で義父はもう息をしていなかった。

 紗季は兎の谷での生活を切り上げ、生まれ故郷に戻ってきた。そのときいっしょに暮らしていた男とは、あっけないほど簡単に別れることができた。仕事を辞めて、故郷では仕事のあてがなかった紗季は、見切りをつけられたのかもしれなかった。

 とりあえず、住む家さえあれば。

 待っている人はいなくとも、待っている場所はある。


 ところが、母方の遠い親戚から、もう家はないと告げられた。母名義だった家は、とうに借金のカタに売られていたのだった。それなら、義父はどこに住んでいたのかと訊けば、自分で小さなアパートを借りて暮らしていたのだという。その暮らしは、二年半に及び、そんなに長い間、連絡を取り合っていなかったのかと、そのことに紗季は自分でも驚いた。


 藍也と知り合ったのは、そんな頃だった。知り合ったというより、拾われたといったほうが近いかもしれない。

 生まれ故郷へ戻ってから四ヶ月が経った頃だった。いくつかアルバイトを経て、ようやく雇ってもらえた整体院で働いていた紗季のところに、客としてやってきたのが藍也だった。あの夜から八ヶ月ほど前のことだ。


 紗季の施術を褒めてくれ、二度目からは指名をもらった。不動産関係の仕事に就いていると話してくれた藍也は、個人的なこともよくしゃべった。親しくなるのに、そう時間はかからなかった。

 

 それでも、もし、真夜中のコンビニで、偶然出くわさなかったら、藍也とはただの整体師と客の関係で終わっていただろう。

 ちょうど藍也が客として紗季が勤める整体院にやって来た頃、紗季は女友達のところに居候していた。その女友達は、整体院に勤めるまで、わずかな期間働いた居酒屋の先輩店員だった。いい人で、ちょっとの間だったら部屋を貸してもいいと言ってくれた。

 

 今にして思うと、紗季は年上の女性に、助けられる運を持っていたのかもしれない。この先輩といい、みちびさんといい。そのわりには、究極の年上の女性である母親には、縁がなかったが。

 先輩はいい人だったが、いっしょに暮らすには、何かと気苦労が多かった。彼女には付き合い始めたばかりの彼がいて、頻繁にアパートにやって来た。そのたびに、紗季は外に出なくてはならなかった。

 

 藍也と出くわしたのも、そんな夜だった。用もないのに、コンビニをはしごして、見たくもない雑誌を斜め読みしていた。

 藍也のアパートに誘われたとき、正直救われた気持ちになったのを覚えている。藍也は優しく、不安定な紗季の生活を慮ってくれた。いっしょに暮らし始めるまで、ほんの数日しか迷わなかった。

 それが、まさか、ひどい暴力に怯える暮らしになるとは。

 

 初めて手を挙げられたとき、藍也に暴力的な一面があると、紗季にはすぐにわかった。母親が殴られているのを見て育った紗季には、勢いで手を出してしまった男の暴力と、相手をいたぶる快感を伴う暴力の違いの区別がつく。

 

 藍也はまさに、相手をいたぶりながら、快感を覚えるタイプの男だった。

 平手打ちなら、我慢できる。足蹴りされるのも、腕を締め上げられるのも、慣れればうまく痛みを堪えられる。

 だが、拳で殴られるのは、辛かった。

 藍也は、ネットで見つけてひと目で気に入り購入したという髑髏がついたシルバーの指輪を、右手の中指にはめていた。その指を丸めて作られた拳で殴られるたび、指輪が紗季の肌に傷をこしらえた。尖った髑髏の表面が肌に食い込んで小さくも深い傷を作り、血が渇いたあともいつまでも痛んだ。

 

 初めて暴力を振るわれたとき、すぐに逃げ出すべきだったのだ。誰に相談したって、そう言うだろう。だが、紗季には逃げていく場所がなかったし、逃走資金もなかった。それに、暴力を振るわないときは、優しい男だったのだ、藍也は。多分、藍也自身にも、自分の二面性を説明できないだろう。二つの顔を持っている。それが藍也だった。

 

 運命の歯車は、どこで狂うか誰にもわからない。

 もし、藍也の友達が、旅行に出る間、藍也に車を貸さなかったら、二人でドライブに出かけることもなかっただろうし、あんなことにはならなかった。

 もし、ドライブの途中に入ったレストランで、ウェイターの男が、紗季に親切でなかったら、藍也のもう一つの顔が出てくることもなかっただろう。

 

 レストランを出たあとの藍也は、不機嫌になった。嫉妬がいつも、藍也を恐ろしい男に変える。ただ黙って前を見つめたまま運転を続ける藍也に、紗季はひたすら怯えた。

 車は町を通り抜け、どんどんさびしい道に入って行った。どこへ行くあてもないようだった。

 このまま、車を走らせて欲しい。

 助手席で小さくなったまま、紗季は願い続けた。運転しながらでは、暴力を振るえない。痛みと屈辱を、少しでも先延ばししたい。


 小さな町は、すぐに明かりが乏しくなって、田舎道になった。藍也はさらに走り続けた。今にして思うと、藍也は人生の最期に向けてひた走っていたことになる。

 真っ暗な田んぼ道が、さらに暗い山道に変わった。道は上り坂と下り坂を繰り返し、対向車も見なくなった。


 この町で生まれたわけではない藍也に、土地勘があるはずはなかった。紗季だって、この町の出身じゃない。町の背後に連なる山並みの奥に、どんな風景があるのか知らなかった。友達から預かった車のナビが壊れていなかったら、藍也は別の道を選んでいたかもしれない。


 走り続ける細い県道は、隣町へとつながっているはずだった。途中で見かけた標識に、隣町の名前が記されていた。山の中で行き止まりになる道じゃないだろう。それだけが安心材料だった。もし、行き止まりの山道に降りることにでもなったら、藍也は何をするかわからない。紗季はそれだけが怖かった。

 真っ暗闇のくねくねとした山道を登り続けた。それから道は下り坂になった。と、道の片側の闇の向こうに、ぽつぽつと明かりが見え始めた。どこかの集落に着いたのだろうと想像できた。集落の向こうは、また黒い山になっていたが、そこを越えれば隣町へ行けるのだと思えた。


 車が集落へ入ろうとした手前、集落の明かりとは種類の違うネオンの光が浮かび上がった。


 こんなところに、店が?


 県道とはいえ、車二台がようやくすれ違えるほどしかない道幅だ。ドライブインがやっていけるような場所ではない。

 近づいて行くと、たしかに店だった。

 スナック・蛍火と記された小さな看板が建物の前に置かれ、建物の中からは、淡い光が漏れていた。


「疲れた。休んでいこうぜ」

 なぜ、こんな場所で休まなければならないのか。そう思ったが、紗季は異を唱えなかった。反論したところで、こういうときの藍也は何を言っても聞く耳を持たない。 

 短い付き合いの中で、紗季は藍也の行動パターンを覚えてしまった。

 

 狭い店内に客はいなかった。薄暗い照明にカウンターが白く浮かび、テーブル席は闇に沈んでいるように見えた。

 ギイィと後ろで扉の締まる音がしたと同時に、カウンターの向こうに、ぬっと人が現れた。

「いらっしゃい」

 かすれた声で迎えてくれたのは、長い髪の、はっきりとした顔立ちの都会的な女だった。


 あのときのみちびさんの表情を、紗季は忘れることができない。紗季の顔を見た瞬間、みちびさんは何かを悟ったように、目を細め、それからじっと藍也を見据えた。蔑むような冷たい視線だった。


「すぐにわかったのよ。あんたが酷い目にあってるって」

 両手でくるんだウィスキーのグラスを見つめながら、みちびさんが呟く。

 そう。たしかに、藍也に酷い目にあわされていたと、紗季は思う。

 だが、あのあと、藍也に起きた悲劇を正当化できるほどだったのかとも思う。

 藍也には、優しいところもあったのだ。自分が殴って付けた紗季の腹の青い痣を、ごめんなと何度も呟きながらさすってくれたものだ。そんな日は、ちょっとしたプレゼントを買ってきてくれた。


 プレゼントなんて、紗季は子どもの頃から誰にも貰った覚えがなかった。

 プレゼントをくれるとき、たしかに藍也は紗季の王子様だった。

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