第2話
集落の夜は早い。
九時前に女性グループは帰っていき、ちょっとビールを飲むだけに立ち寄った客もいなくなり、店に残ったのは、古川さんとマッくんさんだけになった。有賀さんは、女性グループが帰るより早い時間に、リサイクルショップでお客さんが待っているとかで、雇っている若い子が迎えに来て帰っていった。
人の数が少なくなると、外の静けさが、店の中に染み込んでくるようだった。山鳩か、くぐもった鳥の鳴き声がするし、風が出てきたようで、木々が揺れる音もする。
この時間から客が入ることはまずないから、テーブル席の醤油の瓶や紙ナプキンを集めていると、電話をしていたマッくんが、
「これからか?」
と、ちょっと迷惑そうな声を上げた。それからスマホを耳から外して、カウンターにしゃがんで掃除を始めていたみちびさんのほうへ首を伸ばした。
「これから友達が来たいって言ってんだけど、かまわないかな」
体を起こして、みちびさんが頷く。
「ほんと? だけど、十時まででしょ、ここ」
「閉店時間なんて、あってないようなもんだから」
実際、みちびさんは、気分によって、八時に閉めてしまうこともあれば、夜中まで表の看板の明かりを落とさない日もある。
マッくんが、店の場所の説明を始めた。どうやら、集落の人間ではないらしい。
残りのハイボールを飲み干して、マッくんが紗季に顔を向けた。
「悪いね、早く終われたのにさ」
ううんと、紗季は首を振った。どうせ、店が早く閉まっても、二階の、自分にあてがわれた部屋で、一人、テレビを見ているしかないのだ。
「お友達、待ってる間に、サービス」
そう言って、みちびさんが、カウンター越しに、ポテトチップスを盛った皿をマッくんに渡そうとした。
「高校んときの同級生なんだけどね、人を探してるって言ってんだよ」
皿を受け取りながら、マッくんが言った。
思わず紗季はみちびさんに顔を向け、みちびさんも目だけで紗季を見た。
「そいつの知り合いがね、行方不明なんだって。そいつが言うにはね、この村を通ったかもしれないって」
「……そう」
みちびさんが返事をするまで、ずいぶん長い時間がたったような気がしたが、ほんのちょっとの間だったのだろう。
「ママ、何?」
訝しそうにマッくんに訊かれ、みちびさんは慌てて首を振った。
マッくんの高校のときの同級生は、大塚といった。小太りで穏やかな印象の男だが、眼鏡の奥の目が、妙に鋭い。
「ずいぶん山深いところだねえ」
と、ノンアルのビールを口に運びながら、大塚は言った。
大塚は、麓の町のさらに先にある兎の谷の町の生まれだという。兎の谷は、この集落を含む山地にあるひときわ大きな温泉街だ。観光客は全国から集まり、街には観光客をあてにしたホテルが並ぶ。
大塚は大学進学にともなって、兎の谷からさらに大きな都会へ出たために、この集落とは縁もなく過ごしてきたという。そう言ってから、
「いや、そんなことないな。子供の頃、遠足に来た覚えがある」
と呟いて、といっても、ここまでは来てないなと続ける。
どうしても聞き耳を立ててしまいながら、紗季は閉店の準備をさりげなく続けた。みちびさんも、厨房を片付ける手は止まっていないが、耳は二人の会話に向けているのがわかる。
マッくんと大塚は、麓の町にある高校で知り合った。兎の谷のような大きな町から、大塚がわざわざ麓の町の高校へ通ったのは、
「ちょっとグレちゃった時期がありましてね、受験に失敗したんです」
と、マッくんには失礼に取れる言い方をした。
二人は同じ高校で親しくなったが、その先の進路は違う。マッくんは地元で大工として腕を磨き、大塚は都会の町の大学に進んだ。
「そんなに仲がよかったわけじゃないんだけどね」
「で、そいつの行方を探しているってわけ?」
マッくんは安東藍也を知らない。
「俺が探す義理はないんだけどね、たまたま安東の友達だったやつと仕事でいっしょになって、安東が今年の四月の始めから行方不明だって聞いてね。仕事も兼ねて、探してみようと思ったんだ」
大塚は現在、兎の谷でタウン誌の記者をしている。そのタウン誌には、徘徊老人の身元不明者の詳細を載せる欄があり、その関係から、その友達に、大塚なら探せるんじゃないかと見込まれたという。徘徊老人の詳細を記事にするには、警察へ話を聞きに行く機会も多く、町の警察署とは顔見知りだ。ちょうど上司が変わって、おもしろくないときでもあるし、別のことをやってみようと思ったのだという。
「どっかよそで、元気に暮らしてんじゃないの?」
マッくんは、おもしろくもなさそうに訊いた。あまり興味を持てないようだ。
「そうかもしれない。だけど、ちょっと調べてみたら、いろいろ変なことがあってね。住んでいたアパートからは解約もしないまま、ある日消えたみたいにいなくなってるし、努め先にも何も言わずに来なくなってる。安東はね、新潟のほうの出身なんだが、両親はいないし、兄弟もいなくてね。遠い親戚って人にも聞いてみたんだが、何もわからない」
ふうんとマッくんが頷いたところで、紗季は大塚と目が合ってしまった。慌てて視線を逸らす。
「この集落に来たって根拠はあるわけ?」
マッくんがポテトチップスを齧り、言う。
「いや、確かな根拠はないけどね」
カタンとみちびさんがグラスを置く音が響いた。その音に、紗季は思わず怯えてしまう。
「ただいなくなる直前、町のガソリンスタンドで、安東を見かけた男がいるんだよ。安東の同僚なんだが。声はかけなかったらしい」
「車だったってこと?」
「そうだろうな。で、町の北側にあるガソリンスタンドで給油してたってことは、こっちのほうへ来たかもしれないと思ってね」
「ずいぶん大まかな推理なんだな」
酔いが回ってきたのか、マッくんはだるそうにカウンターに肘をついている。
「今夜、麓の町で仕事があってね。こっちのほうへ来たついでに、この集落に来てみようと思った。そしたらおまえがこの集落に住んでるのを思い出してさ」
「それで突然電話してきたってわけか」
「悪い、悪い」
あんまりそうと見えない表情で言い、大塚はみちびさんに顔を向けた。
「ちょっと訊いていいですか」
洗い物の手を止めて、みちびさんが顔を上げた。
この男なんですけどねと、大塚は脇に置いたショルダーバッグから、一枚の写真を取り出した。
「見かけた覚えはありませんか。ここはこの辺りの集落で唯一のスナックですよね? それに、ここの前の道は、国道へ抜ける道でもあるし、もしかしたら立ち寄ったかもしれない」
ゆっくりと、歯がゆいくらいゆっくりと、みちびさんはマッくんと大塚のほうへ近づいて、カウンター越しに濡れた手で写真を受け取った。
「どうですか」
一瞥したみちびさんは、ちらりと紗季を見た。
「わかんないわねえ。この集落の人じゃなきゃ、めずらしいから、憶えてるはずなんだけど」
たまらくなって、紗季も近づいて行った。
振り返った大塚が、紗季に写真を見せる。
一枚の写真の一部だけを大きくした写真だった。詰襟の学生服姿の少年の、上半身だけが写っていた。
「どうですかねえ」
紗季は首を振った。
「やっぱ、わかんないか」
ふうっと息を吐く大塚。マッくんは眠いのか目を閉じている。
わかないと言ったくせに、紗季は写真から目が離せなかった。目の前にあるのは、まぎれもなく藍也の姿だ。自分の知っている藍也とは違うけれど、皮肉っぽく上がった口角や細い顎が思い出を蘇らせる。
大塚の視線を感じた。目を逸らさなければ。そう思うのに、できない。
「紗季ちゃん、そろそろ表の看板」
みちびさんの声に、紗季は我に返った。あっと顔を上げて、自分が息を詰めていたとわかる。
表に出て、紗季はようやくはああと大きく息を吐いた。表は風が出ていた。
看板のコンセントを抜くと、辺りが闇に包まれた。
――おい、紗季。
藍也の声が聞こえた気がした。
――なあ、紗季。
ぎゅっと目を閉じ、紗季は看板を抱えて店の中へ逃げた。
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