蛍火怪異譚
popurinn
第1話 第一章
第一章
夜が来る。
紅い夕焼けが、最後の光を放ってから、重なる山並みに、今、沈もうとしている。
光が山の向こうに吸い込まれてしまうと、ふいにすとんと闇が空から落ちてくる。闇が落ちると、集落に永遠とも思える夜がやって来る。
集落はぐるりと山に囲まれていた。季節が来ても葉の色を変えない杉に覆われた山々が、重なり合い、押し合うように迫り、集落を包む。その集落の底に、地面を錐で削ったように川が流れる。
集落の夜は、静かだった。獣の啼き声や地虫たちのひそかな唸り。その間を縫って、ふと聞こえる得体の知れない声。木々は手招きするように揺れる。風は何かを孕んでいる。
紗季は今夜も、道の先の濃密な闇に怯えた。この集落で暮らすようになって、そろそろ七ヶ月が経とうとしているが、やっぱり、ここの夜には慣れない。
長い髪を後ろに払い、紗季は店の看板を持ち上げて、いつもの場所に置いた。コンセントを差し込むと、パッと明かりが点く。
「悪いわね、休みなのに」
店の中から声がして、紗季は振り返った。この店のママが、カウンターの向こうで、申し訳なさそうにこちらに顔を向けている。
「いいんですよ。どうせ、どこへも行く予定なんかないんだから」
今日は、週に一度の紗季の休みの日だが、めずらしく予約の客が入って、急遽出ることになった。十人も入ればいっぱいになる小さな店でも、毎日数人の常連客はあるから、予約が入ると、ママ一人では回しきれない。
スナック・
集落に一軒だけあるスナックだ。集落を流れる川に架けられた橋のたもとに、竹林に隠れるように立っている。昼間、といっても、午後の遅くに食事を出し、夕方からは酒を出す。型は古いが、一応カラオケもある。山あいの集落で暮らす人々が、思い出したようにやって来る店だ。
蛍火のママは、みちびという名の、四十代半ばの女性で、十数年前、放置されたままだった製材所の小屋をタダ同然で買い取り、手を入れて、スナックに変えた。といっても、建物の半分は以前のままだから、山に面した裏側は、工具を置く土間がそのままで、土間を出ると、迫っている山の竹林まで畑になっている。その畑に、みちびさんは、店で出すネギやナスを植えている。
みちびさんは、元々この集落とは縁もゆかりもない人で、なぜ、こんな場所にやって来たのか、常連客の誰も知らない。まして、この蛍火の二階に置いてもらうようになって間もない紗季に、わかろうはずがない。みちびさんは、自分についてほとんど話さない人で、人のことも詮索しない。だから、みちびさんと紗季は、お互いをほとんど知らないまま、同じ家に暮らしている。
箒と塵取りを手に取り、紗季は店の前の枯葉を集め始めた。そろそろ十月になる。首筋を撫でる風がひんやりと冷たい。
夜の部の開店である七時になると、予約の客がやって来た。それと同時に、常連の有賀さんや古川さんも顔を見せる。今夜も騒がしくなりそうだ。
「ママ、いつものやつかけてな」
有賀さんがカウンターの端からマイクを片手に声を上げた。
「はいはい、ちょっと待ってて」
みちびさんがカラオケをセットし、途端に曲のイントロが流れ出した。有賀さんは、口開けに、まず、「昴」を歌う。今、これを練習中だというが、ちっともうまくならない。
「いやあ、うれしいなあ。今日の突き出しは、タコの三杯酢だあ」
そう言ったのは、有賀さんとつるんでやって来た古川さんだ。ママの料理はほんとにうまいよおと続けて言ったが、みちびさんは返事をしなかった。テーブル席にいる予約客の料理に追われていたからだ。
予約客の三人は、女性だけのグループだった。蛍火は、集落にあるただ一軒だけのスナックとして、集落みんなの社交場も兼ねている。だから、農家のおかみさんたちも、ちょっとした集まりにはここを使う。
「昴」が終わり、有賀さんが、マイクをテーブル席に渡した。
「さあさ、次はあんたたちが歌ってよ」
「いいよお。あたしらはおしゃべりに来たんやからあ」
日に焼けた顔をほころばせて、おばさんの一人が応えた。まだサワーを一杯しか飲んでいないはずなのに、もう頬が赤い。
「あんた、もう一曲歌ってよ」
もう一人のおばさんが言った。この人はたしか、川向こうにある郵便局の隣に住む、亀代さんというんじゃなかったか。はっきりしなかった。紗季は人の顔を覚えるのが得意じゃない。その上、この集落では、俯きがちに暮らしているせいもあって、ますます人の顔と名前が頭に入ってこない。
別の曲をリクエストされた有賀さんは、調子に乗ってもう一曲歌い始めた。六十はとうに越しているだろうが、ジージャン姿は、まあ若く見える。太めの古川さんと違って、それほどお腹も出ていないから、おばさんたちには人気だ。有賀さんは、集落の外の国道沿いで、リサイクルショップをやっているらしい。県外からの客も来やすい場所だからか、結構繁盛しているという。
古川さんは、この集落の西のはずれで、農業を営んでいる。年齢は有賀さんよりはちょっと若いだろうか。よく笑う明るい感じの人だが、ふとした隙に、しんとこちらまで冷えてくるような暗い目つきになる。白髪混じりの長めの前髪が、そんな表情のとき、凄みを感じさせる。いつだったか、有賀さんだかほかのお客さんだったか、
「古ちゃんは、家で黙ってる分、ここでしゃべるんだよなあ」
と言っていた。
古川さんは、八十代の母親と二人暮らしだ。母親はまだ呆けていないが、ほとんど口をきかないらしい。だから、古川さんは家では何もしゃべらないのだという。
こんな話を紗季が知っているのは、有賀さんと古川さんが、常連の中でも頻繁に蛍火にやって来る客で、二人が紗季を気に入ってくれているからだ。ほかの客は、集落に来て日の浅い紗季とは、あんまり話したがらない。そのほうが紗季には有難いのだが、店を手伝っている以上、声をかけてくれた相手とは、話し込まないわけにはいかない。三十は過ぎたが、紗季は集落でじゅうぶんに若い女だ。二人が紗季の若さを愛でているのは承知している。
有賀さんが立て続けに三曲歌って、そのあと、ようやく店が静かになったとき、勢いよく店のドアが開いてマッくんが入ってきた。
マッくんは、月に一度ほど顔を見せる、集落に両親と暮らす大工だ。年齢は四十になるかならないか。濃い眉毛と人の良さそうな丸い目をした物静かな男だ。
今夜も「どおも」と、呟いてからカウンターの椅子に腰掛けた。
「久しぶりねえ、マッくん」
おしぼりを出しながら、みちびさんが声をかけた。マッくんは、井澤守といい、子どもの頃マッくんと呼ばれていたとかで、いまだその通称が使われている。みちびさんはマッくんの子ども時代を知らないが、みんなに倣ってマっくんと呼んでいる。
いつものように、マッくんはハイボールを飲んで、陽気になったところで、店のみんなが知らない最近のJポップを歌い出した。高めのいい声をしている。女性グループのおばさんたちが、調子の外れた手拍子で応援して、有賀さんのとき以上に盛り上がる。
「なんだよ、知ってる曲を歌え!」
拗ねた有賀さんが吠え、古川さんが、
「負けるなー! マッくん」
と妙な合いの手を入れるものだから、店中爆笑になった。つられて、紗季も笑う。
笑いながら、オーダーをもらった枝豆を出そうとカウンターの中に戻ると、みちびさんが、グラスを洗いながら、ふと呟いた。
「よかった。笑ってる」
冷蔵庫の扉を開けながら、えっと紗季は振り返った。
「なんですか? ママ」
「なんでもないよ。紗季ちゃん、だんだん元気になってくれたからよかったなって」
枝豆の入った袋を胸の前で握り締めたまま、紗季は俯いたままのみちびさんを見つめた。そういえば、みちびさんの言ったとおり、ここに来てからあんまり笑った覚えがなかった。
今だって、まだ、心の底から笑えるわけじゃない。いや、これからもずっと、自分は心底笑ったりしてはいけないんだと思っている。
笑ったりだけじゃない。喜びを感じたり、穏やかな気持ちになったり、安らかに眠りにつくことも、希望を胸に朝を迎えることも、もう、自分には一生縁がないと思っている。
「ほら、枝豆、早く出さないと」
みちびさんはそう言って、思い切りよくグラスの水を切ってから、顔をカウンターの外に向けた。
古川さんが手を挙げて、
「紗季ちゃん、ジョッキおかわり~!」
と叫んだので、紗季ははあいと返事をした。みちびさんに言いたかったありがとうの言葉が、喉の奥に引っかかったままだったせいで、古川さんに向けた笑顔がぎこちなくなってしまった。
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