エピローグ くろ

 温かい部屋。ふかふかのお布団。ほのかに香る人間の匂い。

 昔は、人間と暮らすなんて、ちっとも考えられなかった。僕をいじめる敵と一緒に暮らそうなんて、ちょびっとも考えられなかった。でも、今は、この生活が当たり前。そして、今日も幸せ。昨日も幸せだった。だから、明日もきっと、僕は幸せ。

 「くろ!散歩しよう!散歩!」

 あっ!優真(ゆうま)だ!優真は本当に優しい。いじめられて、もう駄目かも、と思ったときに、僕を助けにきてくれた。ボロボロになりながらも、必死に立ち向かう姿は、今でも忘れられない。僕にとって、優真は、世界で1番格好いいヒーローだ。

 「もう、優真ったら、勉強しなさい!」

 「ええー、散歩したらするもん!!」

 「そんなんでいいの?後々医者になれなくても、かあさん、知らないわよ。」

 「.........ごめん、かあさん。でも、なんとかするから」

 「にゃっ!」

 「あっ......行こっか、くろ。」

 優真が、玄関を開ける。ドアを開けきる前に、身体をすり抜ける。

 「...ふっ。またやってる。」

 すり抜ける瞬間は、挟まるのではないか、と思う。正直、怖い。けれど、これをやっていると、なぜか優真が笑ってくれる。優真の笑顔が見えるのなら、ぼくは何度でも、すり抜けてみせる。

 「にゃ!にゃ!にゃ!」

 「...散歩、楽しい?」

 「にゃ!!」

 「ならよかった。」

 人間の言葉は、何年も共にすることで、なんとなくわかってくる。いつも、優真は机に向かってばかりで、どことなく辛そうな顔をしている。でも、今は笑ってる。散歩を楽しんでいるぼくを見て、よかった、と喜んでくれている。


 「あ!モンキチョウだ!」

 「にゃ?」

 モンキチョウ...モンキチョウ......。あっ、思い出した。確か、優真がよく言っている、『幸せを運ぶもの』だ。そうだ!あれを捕まえて、優真に渡したら、優真は、机から解放されるかも!!捕まえて、もっともっと優真が、幸せになるようにしよう!!

 「にゃう!!」

 「えっ!待ってよ!くろ!!」

 早くしないと、どんどん、モンキチョウは先に行ってしまう。早く!もっと早く!そうだ、腕も伸ばそう!!

 「にゃ!にゃう!うにゃ!......にゃ!」

 「モンキチョウか...。みちがよく気にしてるやつだよなぁ。」

 みち......?なんとなく聞き覚えのある声と音の響きが気になり、そっと上を向いてみる。優真よりも背が高い。なんだか見覚えがある。この、温かく、キラリと光るまなざし。優しい人間ならはの匂い。そして、声と音の響き。......あっ!思い出した!いつも、優真がご飯を買いに行ってくれる「かふぇカフェ」みたいな音の所の近くで、もう1人の人間と一緒に歩いている人だ!そういえば、もう1人の人間のことを「みち」って呼んでた気がする!!

 気がつけば、視界からモンキチョウが見えなくなっている。しまった、と思い、すぐに前を向く。幸い、それほどは遠く離れていなかった。この距離なら、ちょっと走れば、まだ間に合う。あのモンキチョウを捕まることさえできたら、優真はきっと、机から解放されるに違いない。もっと笑ってくれるに違いない。

 「にゃう!にゃううにゃう!」

 届かない。もっと、腕が長ければ良いのに。

 「......もう少し、足が長くないと、届かないんじゃないの。」

 「うにゃっ!!」 

 何でそんなこというの!気にしてるのに!!

 「あっ、怒ったな、これは。さすがにごめん。」

 「うにゃ。」

 わかればよい、わかれば。

 「って、あっ!おいっ!戻っておいで!!赤になるから!」

 赤?赤になるって、何が?モンキチョウは、黄色だぞ。

 「うにゃうにゃうにゃ!」

 もう少しで届きそうだ!いよいよ捕まえられる!捕まえられたら、優真は、きっと机から解放されて、幸せになれる!!......あれ?なんだ?なんか、すごい、キーッとした音が、すぐ右側から――――

 「危ない!」

 「にゃっ!!!」

 なになに?!

 『ドン』

 ......なにが起こったんだろう。何かに、全身を包まれた。少しだけ温かい。でも、それ以上に冷たい。なんか、ふわふわする。空を飛んでいるような気がする。怖い、怖い。優真、助けて。

 『どかっ』

 止まった。とにかく、ここを抜け出さなきゃ。必死に、空間をめがけて、頭を上へ上へと動かし続ける。あっ、誰かが走ってきている音がする。優真かな?優真だよね。お願い、早く助けて。

 「.........くろ!あっ、これは......。誰か、誰か助けてください!人が、人がくろをかばって!!」

 もう1人、パタパタと音を立てながら、必死にやってくる。

 「ぼうや、大丈夫よ。今、救急車を呼んだわ。」

 「にゃ?」

 やっと出られた。なにが起こったんだろう。......あれ?例の人間が倒れている。至る所に、赤いものが飛び散っている。どうやら、この人間から出ているようだ。.........もしかして、僕の、せい...?

 「どうしよう!このままじゃ、この人、死んじゃう!くろのせいで、僕がくろを止められなかったせいで、死んじゃう!」

 「......落ち着いて。大丈夫。きっと、あなたのお父様が、助けてくれるはずだわ。だって、あの人は、どんな状態でも、助けられる名医なのだから。」

 シンジャウ死んじゃう。そうか、この赤いのは、『血』だ。人間も、猫と同じように、僕が昔、耳から血を出して、すごく痛かったのと同じように、痛さを感じながら、血を出して死んでいくんだ。

 「.........みち、ごめん............」

 みち、ごめん。みち。人間が何度も何度も、柔らかく、温かさを込めて呼んでいた名前。みち......『みち』。そうだ、会いにいかなくちゃ。謝りにいかなくちゃ。ぼくのせいで、ぼくがモンキチョウを追いかけたせいで、みちにとっての大切な人間が死んじゃうのだから。






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