第7章 モンキチョウ
猫を置いて帰ろうとしたが、結局、かれんちゃんが、連れて帰ってきた。可哀想だから、くろちゃんもわざとではないだろうから、と、眉を少し下げながら呟いていた。正直、玄関から追い出してしまいたかったが、もう気力はないので、仕方なく、部屋に入れる。
「......にゃぁ」
「もう!あっちに行っててよ!っていうか、私のそばに来ないで!」
「.........にゃ」
とぼとぼした様子で去って行く。もう夕方だ。おそらく、腹が減ったのだろう。さすがに、飯をあげない訳にはいかない。重い腰を上げて、冷蔵庫に向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、中身は空っぽだった。驚くほど、何もなかった。
「......ちょっと買い物してくるか」
ちらりと猫の様子を覗くと、しきりに窓ガラスをひっかいている。
「......ベランダに出たいの?」
「にゃ」
「......わかった」
ベランダの窓を開ける。外はかなり冷たい。最近の日本は、夏と冬が異様に長く、反対に、春と秋は短い気がする。今は、暦で言うと、おそらく秋真っ盛りだが、体感では、初冬である。日は照っているものの、肌寒い。
「.........じゃあ、行ってくるから。寒くなったら、部屋に入りなよ。隙間、少し開けてるから。」
魚肉ソーセージと牛乳、喉に流し込めそうな惣菜を買って、家に戻る。途中で、担当の生徒の親御さんにばったり出会ってしまい、かれこれ2時間近く話してしまった。ただ、電気をつけておいたお陰で、日が沈んだ後でも、地面がよく見える。なんなら、大量のホコリが空中で舞っているのも、はっきり見える。
「......くろ?」
あれ、まだ部屋に入ってきていないのだろうか。こんに寒いのに。もう、暗くなっているというのに。おもむろにベランダを見ると、室外機の上で、しん、とくろが固まっている。ぴくりとも動かない。もしかして、死んでる?
反射的に急いでしまう。恨んでいるはずなのに、憎んでいるはずなのに、必死に窓を開け、くろの元に向かってしまう。
「くろ!」
「....................にゃ」
声が小さい。そっと体に触れると、かなり冷たくなっていた。おそらく、ずっと外にいたのだろう。
「......なんで入らなかったの。」
急いでくろを抱いて、部屋に入る。隙間を開け、くろが通れるようにしていたのに、くろは入らなかった。
「......ん?」
毛布で丸めようとくろの前脚を触ると、なにやら黄色いものがある。
「......あ」
モンキチョウだ。わずかにぴくぴくしているところを見ると、おそらく、モンキチョウはまだ生きている。
「......くろ、放してあげて。」
「にゃあぁ」
「放してあげて。」
「にゃあぁぁ」
前脚からモンキチョウを取り出そうとするが、なかなか力が強く、取り出せない。このままでは、モンキチョウが死んでしまう。
「くろ、お願い、放してあげて。」
「にゃあぁぁぁ!」
必死に握りしめている。とても強い。
「にゃぁぁぁ!」
くろが立ち上がる。前脚以外には、あまり力が入っていないのだろう。かなりふらふらとしながら、なんとか歩みを進めている。
「......くろ。」
ソファの上に行こうと、ガシガシ前脚を動かすが、モンキチョウを握っているため、爪を使えず、全く登れていない。
「......しょうがないか。」
あまりにも必死に登ろうとしているので、本当は、まず、ご飯を食べさせたいが、くろを抱えて、ソファの背もたれの上に乗せる。
「......にゃぁ。」
背もたれの上を器用に歩く。縁まで歩ききると、そこから――
「え」
タシっ、という軽い足音とともに、タンスの上に着地した。
「そこは」
そこは、写真がある。純と最後に行った場所であるコスモス畑での写真がある。
くろが、強く握りしめていたモンキチョウを写真の前で放す。モンキチョウは、ひらひらと優雅に舞う。そして、まるで、本物のコスモスに止まるかのように、写真の表面に、ピタっ、と止まった。
「......もしかして...」
まさか、モンキチョウを供えようとしたのだろうか。いやいや、そんなことがあるわけがない。いくら、モンキチョウが幸せを運ぶものだ、と猫に伝えても、猫が人間の言葉を理解する訳がない。......それとも、意外と分かる、のだろうか。言われてみれば、名前を呼ぶとくろはやってくるし、毎回、相槌を絶妙なタイミングで打つし、『ただいま』って言ったら、まるで『おかえり』って言うかのように鳴くし。
「.........くろ。」
力を振り絞ったのだろう。くろが、写真の前で、パタッ、倒れる。
「くろ!」
わからない。わかる訳がない。でも、わからないままで良い。自分にとって、たとえ、恋人を失わせた、本来は憎むべき対象であったとしても、私は、どうしても、くろと一緒に生きていたい。必死にもがきながら、頑張って写真の前に行ったくろ。残る力でモンキチョウを握りしめ続けたくろ。いつも、玄関にやってきて、迎え入れてくれるくろ。命日に家にやってきたくろ。どんなくろも愛せるかはわからないけれど。それでも、愛おしい。憎しみも恨みも混ざっているけれど、それでも、もう、何もかもが愛おしい。
「すぐご飯の用意をするからね、くろ。」
くろを毛布にくるめさせ、急いで魚肉ソーセージを焼き、牛乳を電子レンジに入れる。
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