第4章 心
「どうやら、極度のストレスによって、動きが止まってしまっていたようです。連れてこられたときには、かなり危険な状況でしたが、なんとか間に合われたようで、良かったですよ。それに、薬も処方しておきますので、1週間ほど、薬を与えながら様子を見ておけば、段々と完治していくと思いますよ。まあ、もう少しで目を覚ますでしょうし、ご安心ください。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「.........あの、失礼を承知で伺いますが、本当に、こんな深夜に、夜遅くに、異変に気付かれたのでしょうか。状態を見させていただいたところ、おそらく、午後7時頃には、調子を崩してしまっていたように考えられるのですが.........。」
「......すみません、実は...」
まさか、担当生徒の犯罪に関して対応していたとは言えず、仕事が終わらなかった、とかなりぼかして事情を説明した。
「まあ、そういうこともありますからねぇ。失礼ですが、旦那さんや彼氏さんなどの同居人は?」
「いません」
「ああ.........そうでしたか。それは、大変失礼しました。」
「いえ、このような夜遅くに対応していただき、本当にありがとうございました。」
「いえいえ。あっ、それともう1つ。」
「なんでしょう」
「耳の傷は、かなり昔のもので、おそらくあなたが飼い始めるよりも前の傷だと思われます。なので、もう、痛みは感じていらっしゃらないと思いますよ。」
「....診てくださったのですか。」
「ええ、まあ、もしかしたら、何かの病気かもしれない、と思いましてね。まあ、注意深く・・・・見てくださいね。」
「......ありがとうございます」
まだ目を覚まさないくろを横目に、お医者さんが声を少し大きくした、注意深く、という言葉と、さっきの質問が、頭の中をものすごく速いスピードで駆け巡リ続ける。長い沈黙、気まずそうな声、泳ぐ視線。同居人がいないことは、夫や彼氏がいないことは、そんなに気を遣われることなのか。仕事で手が離せず、大切にしきれず、後悔し続ける姿勢は、そんなに無責任に思われることなのか。
「...にゃ...」
「くろ!」
「良かったですね。無事に目を覚まされて。」
「ありがとうございます」
目をさましたくろを抱いて、病院を後にする。うっすら開いたくろの目を眺めながら、考える。したくない仕事のために、家族とも言えるくろを犠牲にするのか。そもそも、自分自身の幸せや自由を壊していく意義など、本当にあるのだろうか。
「『ねえねえ、なんで、みちって、やりたくないのに頑張ってるの?』」
夢でも、生きていた頃にも言われ続けた純の言葉が、頭の中でこだまする。急いでかき消そうとするが、全く消えそうにない。なんなら、こだましている。
「私は、純みたいにはなれない。」
純のように夢を追いかけて、世間のレールから降りることなんてできない。キラキラと輝くこともできない。だけれど、本当にこれで良いのか。本当に、このまま死んでいいのか。もし、今、純と同じように交通事故に巻き込まれたとしたら。
あの日、純はなんで信号無視をしたのだろう。結婚式を控えていたというのに。小説家になるために、とある大手総合商社勤務というエリートリーマンをやめた。おまけに、大学を再受験して、国文学を学んでいたところだったのだ。なぜ、真面目な純が、信号無視なんていう、命を自ら捨てるかのような愚かなことをしたのだろう。
「...純のバカ。偉そうに言うな。」
ずっと聞いていたであろうくろが、じっとこちらを見つめている。だけど、その目に光はなかった。
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