第3章 異変

 習慣は、3日、3週間、3ヶ月のサイクルでつくられていく、という言葉を何かの本で見かけたことがある。読んだ当初は、半信半疑であったが、今なら確実に当たっている、と思える。というのも、猫と一緒に暮らす生活をし始めて、早3ヶ月たった今、もう、くろなしでの生活は想像できないからだ。

 「にゃーにゃ!にゃーにゃ!にゃーにゃ!」

 ベッドから出て、地面に足をつけると、その足をめがけて、くろが駆け寄ってきた。

 「?」

 「にゃーにゃ!」

 「くろも今日は、かなり元気だね」

 「にゃ!」

 まだご飯を食べていないというのに、どうやら、部屋を駆け巡っていたらしい。昨日掃除したばかりの部屋一面に毛が落ちている。

 「ふっ。よし!頭をなでてやろう!」

 「にゃにゃにゃ!」

 久しぶりの1日オフ。授業も部活動も持ち帰った仕事もない日というのは、言葉では言い表せないほどの開放感がある。ふと空を見ると、薄い青色をしており、とても綺麗だと思った。もっと空を見たい。そうだ、久々に窓を開けてみようか。なんて呟きながら、くろを抱き、窓を開け、ベランダに出てみる。ひんやりとした秋風が、すっと肺に入っていく心地よさがたまらなく最高だ。

 「にゃ!」

 「なになに?」

 太陽の光を反射し、キラキラと瞳を輝かせているくろが、しきりに前脚を前へ、前へとバタバタ動かしている。

 「にゃっにゃ!にゃっにゃ!」

 「......もしかして、モンキチョウをつかまえたいの?」

 「にゃ!」

 5階建ての2階。わりと階が低い部屋に住んでいるためか、ベランダに立っていると、時々近くにやってくる。この時期は、モンキチョウやモンシロチョウがメインだが、夏にはアゲハチョウ、そして夜には、季節に関係なく、蛾ガがやってくる。

 「.........ねえ、くろ、知ってる?」

 「...にゃ?」

 前脚を挙げたまま、くろがこちらを見上げている。

 「あのね、モンキチョウは、つかまえるのではなくて、見つめる程度が丁度良いの。」

 「?」

 「元々、モンキチョウっていうのは、幸せを運んでくるシンボルなの。他にも、黄色いタクシーなんかも、幸せを運ぶと言われているんだけどね。そういう幸せを運んでくるものをつかまえるのは、幸せ自体をつかまえることになる。けれど、自分がつかまえてしまうと、そこで流れが止まってしまって、他の人が幸せになれるかもしれないチャンスを奪ってしまうことになるの。だから、モンキチョウは、つかまずに、見守っているくらいがいいのよ。」

 「にゃー...」

 言葉が通じたのだろうか。くろは前脚を下ろして、モンキチョウをじっと見つめるようになった。

 「......そろそろ朝食を取ろうか。」

 「にゃ!」

 ベランダの窓を閉め、今日も温かい牛乳とペットフードを用意する。そうだ、夕飯は、猫用のご飯を作ってみようか。確か、電車の中で調べたレシピをブックマークに登録していた気がする。カーテンをちょんちょんとしているくろを見ながら、ぼんやりと考えていた。


 『1年1組』と書かれた札が、扉の上についている。1年生の教室は、建物の3階にあるため、階段の上り下りが辛い。が、1組自体は、手前の方にあるため、ちょっぴり楽だ。

 「明日は、全校集会があります。必ず、8時20分には、体育館に集合してください。それでは、菊池くん、終わりの号令をお願いします。」

 久々にしっかりと休めたからだろう。月曜日の夕方にもかかわらず、体は変わらず軽い。毎日、こんなに軽ければ、どれほど楽だろう。でも現実は変わらない。この後、積もりかけている仕事を片付ける地獄が待っている。そして、深夜3時就寝の生活が始まる。

 「...紺野(こんの)先生!紺野先生!」

 「あっはいっ!」

 「大変です!紺野先生のクラスの菊池くんが!!」

 「菊池(きくち)くんがどうかされたんですか?」

 「コンビニの入口で、他校の生徒を暴行したみたいで!」

 「えっ」

 「今、警察に事情聴取されているようです!!」

 菊池くんを連行した警察官から、学校に電話が入ったらしい。正直、他にやりたい仕事があったがものの、菊池くんの元へ行かない訳にもいかず、急いでジャンパーを羽織った。

 「この度は、我が校の生徒がご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした」

 「......まあ、今回は他校の生徒さんにも悪い点があったみたいなので、和解になりました。けれど、先に暴力をふるったのは、おたくの生徒さんなので、ちゃんと先生からも指導してください。」

 「…責任を持って、指導いたします。この度は、私のところの生徒がご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」

 「まあまあ、もうそのへんにして。ほら、この子も泣くくらい反省しているみたいですし。」

 「......大変、申し訳ございませんでした」

 怪我をさせてしまった生徒さんにも謝罪した後、泣いている菊池くんにも再度謝らせ、学校に連れて帰る。その後、菊池くんの保護者に電話をし、学校に来てもらい、警察の情報を元に説明する。そして、説明が終わった後は、緊急会議を開き、今度は、管理職、年次の先生に事情を共有し、今後の対策を練っていく。今、午後6時だから、帰りは、早くても、午後9時頃になりそうだ。最近は午後7時には頑張って帰るようにしていたため、くろもさすがにお腹を空かせてしまうだろう。


 「ねぇ、菊池くん。なんで、あんなことをしたの?普段、すごく落ち着いているじゃない。」

 午後8時。何度電話をしても、保護者に電話が繋がらず、結局、面談できたのは午後8時だった。くろは、大丈夫だろうか。

 「親御さんも、優真くんの今回のことで、なにか、心当たりはございませんか?」 

 「うちの子がこんなことをする訳がないでしょう!」

 「……」

 菊池優真の家は、代々続く医者一家だ。子育てに関してもかなり熱心で、菊池くん自身、3歳から家庭教師の元で、勉強している。成績も、常に学年トップだ。

 「菊池くん、どうなの?」

 「………ずっと辛かった。」

 「…辛かった?」

 「父さんもじいちゃんもひいおじいちゃんも、みんな医者ばっかり!俺は医者になりたくないのに!!...なのに、血筋だからって........!!」

 「なんでなりたくないの?」

 「俺は……猫カフェをつくりたいんだ!猫が大好きで、猫たちに囲まれながら、のんびりと暮らしたいんだよ、家の近くの猫カフェのおじさんみたいに!!…でも、収入が低いとか、あんな仕事は社会的に価値がないとか言ってきて......」

 「あんた、まだそんな腑抜けた夢を抱いていたの!!信じられない!!」

 「あの、お母様…」

 「あんたは、だまってて!!」

 ああ、どうせこれだ。しょせん、教員は、親にはなれない。世間では、一緒に子供を育てましょう、なんて言われているが、そんなのは戯言だ。

 「…かあさんは知らないんだ!俺が、俺が、」

 「俺がなによ!」

 「………医者一家のバカ息子って言われてる」

 「バカ息子?」

 「医者のこどものくせに、公立の中学に行ってるって!私立に落ちたバカだって!」

 「仕方がないでしょう?あんなに、勉強しなさい、って言ってたのに、あなた遊んでばかりだったしゃない。」

 「だからって、くろを捨てなくてもよかっただろう!!」

 「くろ?...............................................ああ、そういえばいたわね。くろ。」

 「『そういえば』だって?!信じられない!!」

 「あのっ、す、少し落ち着いてみては...」

 「うるさいわね!あんたはだまってなさい!」

 ...世間で言う、「医者のこども」とは、早ければ、幼稚園から私立に行き、ガツガツ勉強する。遅くとも、中学では私立に行き、英才教育を受ける。私としては、別に、公立でも、本人次第で、まだまだなんとかなるのでは、と思うのだが。

 おそらく、菊池くんもまた、世間からのレッテルや圧に、ずっと耐え続けていたのだろう。けれども、限界が来た。そして、外部の世界に、攻撃するようになったのだ。

 結局、面談は荒れに荒れ、後日、再度行うことになった。この時点で十分に悲惨だが、それ以上に、教頭先生の出張の関係で、会議も思うように進まず、結局、明日の午後6時から、再び会議をすることになった。明日の帰りも確実に遅くなる。


 「ただいまー...」

 なんとか切り上げて、深夜1時。くろの返事がない。足音も聞こえない。しかし、仕方がない。さすがにこんな時間に帰ってきたのでは、夜行性の猫だって、眠っているに違いない。

 ジャンパーを脱ぎ、玄関近くのハンガーにかける。しっかりと手を洗い、うがいもする。くろを起こさないように、できる限りの忍び足をしながら、そっとダイニングの電気をつける。

 「......くろ...ただいま」

 くろの元に向かい、そっと呟いてみる。...やっぱり、綺麗な毛並みをしている。かすかな癒やしを求めて、そっと頭をなでる。ふさふさしている。でも…

 「...あれ?」

 なでてもなでても、どこかひんやりとしている。毛布にくるまっているはずなのに、あまり温かさがない。

 「...くろ?くろ!くろ!!」

 毛布をめくり、お腹の動きを見る。動いていない。手を当てても、一向に動く気配がない。

 「病院につれていかなきゃ。」

 携帯電話で、救急搬送できる病院を探す。手は、汗でびっしょりと湿っている。






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