第2章 変わらない日常
冷蔵庫を開けてみたが、わずかな重さの牛乳と、消費期限間近の魚肉ソーセージ数本しかない。さすがに、帰り際に買った麻婆豆腐丼を猫に与えるのは、体に合わないだろう。残っていた牛乳を全てボールに注ぎ、魚肉ソーセージは、少し焼いてから、与えることにした。
「...猫って、どうやって声をかけたらいいんだろう。」
家に入ってきてから、猫はこちらを見つめつつも、食べようとしない。ずっとソファの下に潜り込んでしまっている。もし、純がここにいたなら。ふとそう思ってしまった。というのも、純は、生粋の動物好きで、特に、猫カフェには毎週末足を運んでいた。デートスポットとして、私も何度かは訪れたことがある。けれど、猫との接し方がどうしてもわからず、純に聞いても、「感覚だよ!そのうち慣れるから!」と言われてしまい、結局、猫と触れ合うことはできずに終わった。
「......く.......くろちゃん。」
黒猫だからくろちゃん。ありきたりの名前だが、名前を呼んだら来てくれないだろうか。食べ物はこれしかないし、近くにスーパーやコンビ二はない。だからといって、こんなにも弱った猫を放って、家を出るわけにもいかない。
「くろちゃん。」
やっぱり駄目か。諦めて食事を引き下げようとした瞬間だった。
「にゃ...にゃう」
「!」
「にゃう...」
ソファから出てきたからだろう。せっかくお風呂に入れて、綺麗にしたにもかかわらず、もう耳にホコリがついている。
「ごめんね。これしか食べ物がなくて。ほんの少しだけど、お食べ。」
「......にゃ......」
よっぽどお腹が空いていたのだろう。魚肉ソーセージの破片が、皿周辺に飛び散るほほど、猫、改め、くろちゃんは、すごい勢いで食べている。食事に集中してる間に、勇気を出して、耳のホコリを摘む。
「にゃ!!」
ご飯を食べて元気になったのだろう。くろちゃんは、ソファに飛び乗っては着地し、また飛び乗っては着地し、という猫カフェでも見かけた行動をしている。
「かわいいなぁ。」
小ねこという時点でもう可愛いのだが、わずかに光を含む瞳は、どこか儚さを感じさせ、尚更愛おしさを抱かせる。そんな可愛らしさに癒やされながら、昨日終えられず、持ちかえってきたテスト用紙を採点することにした。今夜も、早く眠ることは不可能だろう。
「ねえねえ、なんで、みちって、やりたくないのに頑張ってるの?」
.......ああ、これは夢だ。昔、純がよく言っていたことだ。墓参りに行く度に、この夢を見る。またか、と思う。そして、私も、またかと思いながら言う。
「しょうがないでしょう、演奏家では食っていけないの。」
音楽だけで食っていけるのなら、わざわざ教員にはならない。確かに、子どもは好きだ。教員の仕事ならではのやりがいもある。おまけに、普段、中学生に囲まれている間は、楽しい。だけれど、教えたくはない。人前に立つことは好きだけれど、人に教えるのではなく、自分の実力を磨き続けたい、自分が教えてもらい続けたいのだ。そうはいっても、演奏家で生活を営むことができるのは、ほんの一握り。米粒よりも小さい可能性だろう。だからこそ、音楽科を卒業する多くの大学生は、講師やアルバイトを副業しながら演奏家を目指して頑張るか、諦めて、全く関連性のない職業に就くのだ。まあ、私の進路は、両者の中間くらいに位置するのだろう。一応、音楽を教えているのだから。
「ふーん、つまんないの。俺、結構好きだったよ?みちが、綺麗なドレスを着て......ヴァイオリン.......だっけ?なんか、弦楽器弾いてるの。」
「チェロ。ヴァイオリンは、もっと小さいし、音が高い。」
「そうだ!チェロだチェロ!!」
......また同じ展開。何度教えても、毎回忘れられてしまう。まあ、夢だから仕方がないのだろう。
「うっ!」
何かが顔に乗っている。
「にゃ!!!!にゃにゃにゃ!!!」
そっと目を開けると、猫、、いや、くろちゃんがいた。
「あー、もう朝か。」
「にゃ!」
「うんうん、おはよ。」
朝が来てしまった。昨日も夜中の3時まで起きていたため、実質、2時間ほどしか眠れていない。正直、起きたくない。それども、起きなければならない。それが、社会人だ。
「ご飯は...私はいらないから、くろちゃんの分だけ準備するか」
少しだけ焼いた魚肉ソーセージと温めた水を差し出す。あいもかわらず、くろちゃんは、バクバクと食べる。
「ふふっ。今日、仕事が終わったら急いでペットフードを買いに行くから、楽しみにしててね。」
「にゃ!」
もう少し見ていたいが、そろそろ家を出ないと間に合わない。もう少しで、生徒が朝練に来てしまう。
「くろちゃん、お腹が空いたら、残りの魚肉ソーセージを好きなだけ食べてていいからね。できる限り、早く帰ってくるからね。」
「にゃ!」
かなり心配だが、預ける人もいない。とりあえずは、魚肉ソーセージと、温めた水で、一日耐えてもらおう。あと、くろちゃんが寝転べるように、毛布も窓際に置いておこう。確か、猫はひなたぼっこが好きだと聞いた気がする。
「それじゃあ、行ってくるね。」
「にゃう!」
キラキラ輝く瞳を見つめながら、そっと玄関の鍵を閉めた。
「えー!みち先生、猫飼い始めたの!?」
「まあ、保護に近いけどね。」
「保護?」
「なんか、家の前で倒れてて。なかなか飼い主も現われないから、まあ、保護に近い飼育、みたいな。」
「へえ、そうなんだ。」
「ねえねえ、どんな猫?かわいい?かわいい?」
「とってもかわいいわよ。」
「写真は?写真ないの?」
「......撮ってない。」
「ええー。もう、みち先生ったらー。」
「はいはい、もう授業始めるから、席に着いて。」
「ちぇっ。」
「ちぇっ、じゃないわよ。」
やってしまった。基本、プライベートは隠す主義だったのに、ついつい、話してしまった。これでは、親バカならぬ猫バカである。まあ、写真は今度撮っておこう。
近年、教員の仕事はブラックだと、テレビやSNSなどで報道されている。そのような報道によって、一部の大学生が、教職を諦めているとも言われている。残念なのは、ブラックなのが事実だということだ。毎日遅くても朝7時30分には学校に行かなければならない。そして、たいした休み時間もないまま、昼休み。でも、休みなのは生徒だけ。教員は、給食指導をしており、休んでいると感じることは、あまりない。そして、ノンストップで午後の授業をやり切った後は、部活動。部活動が終わってから、授業準備やテストの採点、教員がしなくてもよさそうな事務作業を始める。本気でやると、深夜まで学校にいることになるが、形だけの働き方改革によって、午後8時には、学校を後にする。でも、仕事が終わった訳ではないため、家に帰って、続きをする。おまけに、土日もやる。部活動もセットで。こんな日常生活を送りたい人は、ほとんどいない。だからこそ、今、教職に就いている人たちは、相当な熱意があるか、他に道がないか、あるいは、諦めの境地にいるということになる。そして私は、諦めの境地にいる人間だ。仕事も恋愛も、そもそも人生自体が。
本当はもっと残っていたかったが、くろちゃんが心配すぎる。なんとか午後6時に仕事を切り上げ、急いで家に帰った。食べ物も沢山調達しておいた。これで、1週間程度は、買い物に行かなくてもなんとかなるだろう。
「ただいまー」
「にゃーう!」
テチテチ、テチテチ、という足音とともに、くろちゃんが玄関に向かってくる。
「お腹空いたでしょ?くろちゃんが好きそうなご飯、買ってきたよ。」
「にゃ!!」
「すぐに準備するから、もう少しだけ、待っててね。」
「にゃ!」
ペットフードを山盛りし、温めた牛乳をボールに注ぐ。人生で初めて、ペットフードを購入したが、正直、人間から見ても美味しそうである。
準備が終わり、くろの元へ向かうと、なにやら、真剣な顔で、左を向いている。視線の先を追うと、写真を見ていた。私の高さだと、首を向けるだけで、はっきりと写真が見える。でも、猫の場合は、ソファの上に行かないと、なかなか見えない高さにある。おそらく、ソファで飛んだり降りたりしている内に、写真が目に入ったのだろう。
「......気になる?」
「にゃ」
「......この人、私の恋人なの。今も昔も、すごく大切な人よ。」
「......」
黙ってしまった。もしかして、悲しい雰囲気を出してしまったのだろうか。できる限り、あっさりとした声で言ったつもりが、思いのほか、くろを戸惑わせてしまったのかもしれない。
「......くろ!はい、どうぞ!!」
「にゃうう!」
よっぽど美味しいのだろう。昨日以上に、食べる勢いがある。至る所にペットフードの粉が散っていったが、気にしない。
「美味しい?」
「にゃん!」
「ふっ。良かった。」
猫は、よく水を嫌うから、お風呂に入れるのは至難の業だと聞いたことがある。しかし、くろちゃんは、水を嫌わない。お陰様で、風呂に入れるのに手間がかからない。疲れが溜まっているため、本音を言うと、かなり助かる。
「えらいぞ、くろちゃん」
思わずそっと頭をなでる。猫カフェでは、まったく触れなかったその頭は、見た目通りに、ふさふさとしており、しかも、心地よいぬくもりがあった。
「にゃにゃにゃ!」
なんとなくだが、頭をなでられて、くろちゃんも嬉しそうだ。
「さてと、そしたら仕事しますか。」
今日は、早く帰ってきた分の仕事が、山のようにある。昨日の分と並べてみると、2人用のダイニングテーブルは、すぐに埋まってしまった。これは、久々の徹夜コースかもしれない。
「......猫はいいなぁ」
ベッドの上ですやすやと眠りにつくくろちゃんを見ながら、気ままに生きていそうに見える猫がたまらなく羨ましい、と思った。
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