第7話 願望



「欲を出しすぎて仕事にあぶれた。諦めて帰ったらこの有様だ。……何なんだ、全く」


 再起動したばかりの彼女へ話し掛ける。会話になっていない、言い訳じみた独り言。


「……お帰りなさい」


 不意に発せられたが、俺の心臓を引っ掻いた。一気に鼓動が早まり、視界が狭まる。

 慌ててナナセの首元を覗き込むと、表皮が若干浮いていた。先程までは存在しなかったはず・・の切り傷。心当たりは一つしかない。


「……あいつの仕業か。何を話した」

「一緒に来てほしい、と。丁重にお断りしました。ですが──」

「わかった、もういい」


 声の件も気に掛かるが、今は触れる気さえ起きない。とにかく、今の数分間を一瞬でも早く忘れてしまいたかった。


「喋り疲れた。休ませてくれ」

「ちょっと待って──」

「寝る」


 頭の先から布団を被り、耳を塞いだ。全身から汗が吹き出す。眠れ、眠れ、早く眠れ。無慈悲にも、俺の身体に願いは届かない。覚醒した脳があらゆる出来事を呼び覚ます。


 その刹那。

 何かが落下するような音と強烈な振動が、床に響いた。

 慌てて飛び起きると、地に伏すナナセの姿があった。呻き声にも似た音を立て、肩と腰を這わせながらナナセは進む。


「おい、待て!」 


 すぐに仰向けに抱き起こす。こんな痛々しい姿、一秒たりとも見ていられなかった。


「……這ってでも行きます。追いかければ、まだ間に合うかも──」

「止めてくれ!俺が悪かった! ずっとお前を無視し続けて、自分勝手なことばかり──」

「大切でないのなら仕方ありません」

「……ぁ」


 EDR事故記録装置。機能停止中の会話も、全てナナセの記録ログの中。基本的なシステムさえ忘れてしまう程に、俺は心を乱されていたのか。


「……すまない。ごめん。申し訳ない」


 謝罪の語彙はすぐ底を突いた。罪悪感とやるせなさが混ざり合い、喉と胃が小刻みに震える。


「構いません。たとえ大切でなくても、人生そのものと言っていただけたなら十分です」


 慈悲の言葉は決して救いにならない。俺はナナセを問い詰める。


「どうして、何でそこまで」

「知ってます、わたし。自分を責め続けている理由も、ずっと後悔に苛なまれていることも。申し出をお断りしたのは、後悔の原因がわたしにあっても、あなたの側に居たかったからです。行ってしまえば、わたしたちは二度と会えない。そうなれば、きっとあなたは……」


 返って来た答えに、思わず虚を突かれた。

 ああ、どうして目を背けていたのだろう。俺はずっと、ナナセに見守られ続けていたのだと。


「……今まで聞かなくて悪かった。頼む、お前の本心を、お前の望みを教えてくれ」


 まるで語り聞かせるような落ち着いた声色で、改めてナナセは述べた。


「どんな危険があったとしても、あなたたちと肩を並べて歩きたい。自分の脚で外の世界を感じたい。……それに、わたしはあなた達の夢でした。それは決して悪夢のままではいけない。白昼夢で終わらせてはいけない。わたしは叶えられる夢でありたい」


 意志を強く訴えるナナセを目の当たりにしたのは、今日が初めてだった。そんなナナセの言葉を噛み締め、何度も脳内で反芻したのちに俺は告げた。


「部屋の外に出たいだけなら、すぐ車椅子を工面する。俺が背負ったっていい。接続部を隠せる服だって用意する。完全な成功例はゼロなんだ。最長でも二十日。本当にいいのか」


 返事は非常に端的だった。瞳が俺に語り掛ける。真っ直ぐ、力強く。


「……わかった。でも」


 悔しいが、身体については俺の専門外。専門家・・・の連絡先が入った携帯電話は、自宅に置き去りにしたまま。過去の職場に連絡してツテを辿ろうとするなど、もっての外だ。


「すまない、俺には何も──」


 ナナセは首と顎を振って、床に転がる数枚の紙幣を指した。幾重にも折り重なる黄土色に目を凝らすと、僅かに白い部分が紛れている。

 名刺だ。


「お見通しでしたね」


 ナナセの微笑みに釣られてしまいそうになったが、隣で得意げな表情を浮かべるもう一人・・・・の姿を想像してしまったので、辛うじて苦笑に押し留めた。そんな俺を見て、ナナセは再び笑った。

 代替品スペアのない歯車同士が、三年越しに噛み合おうとしていた。

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