第5話 再会
“日払い可 権利金・保証人不要”
アパート……いや、簡易宿所と呼ぶべきだろうか?車窓越しに見えるひび割れた外壁に、都合の良い宣伝文句が掲げられていた。掠れと欠けの目立つフォントが、どことなく禍々しさを感じさせる。
建物から出ていく彼の姿は数分前に見届けた。そろそろ良いタイミングだと信じ、私は車を後にした。
──地方都市までメンテナンスへ出向いた際、私は彼の姿を目の当たりにした。当然、最初は幻覚を疑った。
人目を避けるように俯きながら現場を歩いていた彼は、すれ違った私の存在に気付いていないようだった。中途半端に伸びた髪と無精髭。指紋が目立った眼鏡のレンズ。三年前とは似ても似つかない雰囲気でも、仮にも
労働者の終業時間を待ち跡を付け、私は彼の棲家を探り当てた。そして、
こんなにも突飛な行動を起こさせた引き金は、根拠のない確信だった。彼が潜む場所には必ずナナセも居る、と。
二階を目指し、赤錆まみれの急な階段をゆっくり踏み締めていくと、わざとらしいレモンの香りが漂ってきた。共同トイレから湧き上がる芳香剤の仕業らしい。臭いに急かされながら、私は彼の部屋に辿り着いた。
手帳に挟んだ七枚の写真の中から、ナナセとのツーショットを取り出して眺める。写真の中のナナセは、ぎこちなく口角を上げている。最後の覚悟を決めるには、その
ピッキングなんて性に合わない。辺りを見回し、監視カメラがないことを今一度確認する。そして、建て付けの悪そうなドアと枠の隙間にモンキーレンチを差し込む。無意識に震え出した右手を左手で庇い、思いきり体重を掛けると、耳障りな金属音を上げて鍵は壊れた。
ドアの先に広がる空間に、私は息を呑んだ。色褪せた畳はささくれ立ち、所々が擦り切れている。壁には雨漏りのような染みが張り付き、湿気とカビ臭さが充満する。家財道具はほとんど見当たらず、生活感を感じさせるものは畳の上の寝具だけ。
でも、今は環境なんてどうだっていい。何よりも大切なのは、燻んだ空間でたった一つだけ彩りを放つ、目の前の存在。
ガラス越しの太陽が舞い散る埃を煌めかせ、椅子に腰掛けた病衣姿のナナセを照らしていた。
「あ……」
感情の処理が追いつかず、最低限の声しか絞り出せない。靴を脱ぐことも忘れて窓辺に走り寄り、ナナセの細い肩を抱き寄せる。勢いで、はらりと埃が舞い散った。
「良かった、無事で──」
無事?そうじゃない。動く唇の下から言葉が現れない。
私は咄嗟に免許証の角を喉元に捻じ込み、人工皮膚の合わせ目を剥がした。やっぱり、声帯モジュールの接続が外されている。理由や経緯を考えるよりも、今はナナセの為に身体が動く。
「じっとしてて」
幸いにも断線はしていなかった。頭部のメインプロセッサーと咽頭部のイコライザーに、外されたモジュールのコードをそれぞれ繋ぎ直す。
「どう?何か喋ってみて」
恐る恐る話し掛けた。再会できたのに会話さえも叶わない不幸なんて、絶対に受け入れられない。
「……ありがとうございます」
良かった。三年前と変わらない。胸の中に直接響く優しい声。ひとまず安心した私は、剥がした皮膚の吸着面を内骨格に強く押し当て、残った傷痕を撫でた。
「ごめんね、強引にやっちゃった」
「いえ。……そんなことより、何故ここへ?」
聞かれるまでもない。私は少し語調を強め、ナナセに告げた。
「決まってるでしょ。あなたに会うため」
「
イントネーションには二重の意味が混じっているように感じられた。
「そう、
今更彼と顔を合わせるつもりはない。面と向かって文句をぶつけたい。胸ぐらを掴んで怒鳴ってやりたい。負の感情はどうしても捨てきれないけれど、優先するべき目的は違う。
「約束を果たすために来た。今度こそ、あなたを歩けるようにする」
返事を数秒待ったものの、沈黙は続く。今度は腰を落とし、なだめるように言った。
「お願い、一緒に来て」
重ねようとした目線は、すぐに逸らされてしまった。私は両手をナナセの肩に当て、力を込めながら抵抗する。
「ねえ、どうか──」
「ごめんなさい」
三年間溜め込んだ切なる願いは、あっさりと遮られた。
「お気持ちは有り難く頂戴します。探し出してくれたことにも、声を元に戻していただけたことにも感謝しています。ですが、この場所を離れるつもりはありません」「どうして」
「彼の望みを叶えるためです」
違う。
「……何それ」
「仰っていました。外の世界から私を守ると」
「守る?そんなの信じられる?あいつの勝手な言い分だって思わない?」
「勝手かもしれません。それでも私は構いません」
違う。
「あなたの意志はどうなるの」
「これはわたしの偽りない意志です」
「約束、忘れたわけじゃないでしょ」
「勿論です」
「ならどうして!」
「どうしても、今は彼の側にいなければ」
違う。
「何で!?そんな義理、尽くす必要ある!?」
こんな話をするために、私はナナセを探し出したわけじゃない。
延々と続く押し問答で、我慢の糸が徐々にほつれ始める。ナナセの口から彼の話題を聞き続けことが、どうしても許せなくなっていた。
「やっぱり納得できない。だって、あなたが大切にされてるなんて思えないから」
引っ掛かりがあまりにも多すぎた。髪と肩に積もった埃。封じられた発声機能。外界と接触せず、誰とも口を利かず、給電ケーブルという鎖に繋がれたまま、檻の中で主人を待ち続けるだけ。そのような非情な扱いを受けてまで、どうして彼を選ぼうとするのか。
悩めば悩むほど、不本意な最終手段に心が傾く。車に積んだトランクと、デニムの右ポケットに入れた
「納得は難しいかもしれません。でも、私はこのまま──」
糸が切れた。
瞬発的にポケットに手を突っ込み、忍ばせた小さな装置に親指を掛ける。積み重なった悔しさと苛立ちが、叫び声になって溢れ出した。
「止まって!」
眠りに堕ちるまでは一瞬。ナナセは
考えるのを止めた。考えたくなかった。
腰に挿さったケーブルを抜くと、両脇の下から腕をくぐらせ一気に抱き上げた。合わさった胸から伝わる熱が私に溶け込み、鎮めた鼓動が再び騒ぎ出す。
その瞬間、突然ドアが金切声を上げた。反射的に私は右を向き、ナナセを抱く腕に力を加えた。
「ナナセに触れるな」
見知った顔と声が、三畳間を支配する。私は動揺する胸の内を悟られないように、ナナセを無言で椅子の上へ戻した。
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