第4話 逃亡
彼が外出してから十五分ほど経過した。右側の曇り硝子から放たれる橙色の光線が、わたしの居場所を映し出す。
日の出と共に創造する世界は砂漠と決めている。遙かなる山の頂や、水面が揺らぐ果ての水平線。太陽が似合う風景は数え切れぬ程存在するが、特に私の琴線に触れたのは砂漠だった。砂だけが形成する大地は、さながら新品の画用紙のよう。揺らぐ蜃気楼。列を成す駱駝の隊商。朽ちて沈んだ栄華。描ける想像の余地が多いので、日課の始まりにも相応しい。
今日も砂の大地へと一歩を踏み出す。地面に足を取られないよう、厚底履を身に着ける。靴など一度も履いた経験はないが、そんなことは些細な問題だ。吹き付ける砂塵を振り払いながら、少しずつ前へと進んでいく。
窓から射す光が強さを増した。反射的に瞳を閉じてみるが、わたしの前には変わらずに世界が息付く。頭部に備わる小型の環境検知器が視覚情報を取り入れているため、瞼を開けようが閉じようが意味はない。当然理解している。
とはいえ、瞼と瞳は決して無用の長物ではない。感情表現の役に立つ上、わたしの設計思想の根幹を成す“人間らしさ”の証明でもある。以前は持っていた両腕と両脚も、その思想の賜物だった。
両腕の取り付けは、反応や言語機能等の試験を終えた後に行われた。
腕の動作自体は容易かったが、指先に力を加えるための微細な感覚調整に苦心した。簡単と言われる平仮名の筆記ですら、一週間以上の練習を要した程だった。
彼女から渡され、挑戦した『硬筆美文字練習帳』……。紙面に走る鉛筆の軌道は奇妙に捻れており、わたしの恥じらいを見事に体現していた。そんな弱々しい文字列を見て、彼女は屈託の無い笑みを見せた。
「可愛い字だね。ちっちゃい子みたい」
「すみません。どうしても、上手く力が入らなくて」
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。続けていれば必ず出来るから」
身体に思いを巡らせる時は、決まって彼女の記憶が蘇る。わたしの身体は、彼女から授かったものだから。
両腕を自在に使いこなせるようになってから約一ヶ月後、遂にわたしは両脚を手に入れた。ただし、これらは意のままに動く両腕とは異なり、
「もう少し待っててね」
彼女は頻繁に言い聞かせてくれた。必ず中腰の姿勢をとっていたのは、椅子に腰掛けたわたしに目線を合わせようとする、真摯な心の表れだろうか。
しかし、わたしは彼女との約束を反故にして、彼との生活を受け入れている。
始まりは突然だった。
非常誘導灯が輝く
全身の感覚が不自然だった。身体を見回すと、昼間まで存在していたはずの四肢が一つもない。即座に
「しばらく我慢してくれ」
一言告げると、彼は旅行用鞄の中にわたしを押し込んだ。全力で身体を揺り動かしたところで何の抵抗にもならないと悟り、わたしは一切の身動きを止めた。
蓋が閉じられた時、初めて真の暗闇の恐ろしさを知った。
検知できる外部情報は、鞄の底の車輪と路面が弾け合う轟音。梱包材が身体に擦れて軋む破裂音。そして、逃れようのない黒。感覚の暴力が四六時中襲い来る中、わたしはひたすら思考を廻らせた。空を、海を、街を、人を、花を、鳥を、星を。思考を回転させて現実を空想で塗り潰す、不合理な気慰み。無力なわたしは、その慰めに縋るしかなかった。
再び光を感じられたのは五日後。視覚に飛び込んで来たのは、かつての居場所とは似ても似つかぬ、古ぼけた小さな和室。わたしは窓辺に置かれた簡素な椅子へと運ばれ、腰に給電用の配線が挿し込まれた。
彼は何かを語りかけてきた。なおも平静を失ったままの彼の言葉は、歯切れが悪く支離滅裂としていた。確かに理解できた内容は、彼が今まで培ってきたものを全て捨て去ったという告白。そして、彼女と縁を絶った以上、わたしの身体は永久に
「お前を守る為だ。こうするしかなかったんだ」
力無き彼の言葉を、わたしは黙って受け止めた。たとえ不条理であろうとも。
──部屋の外で床が軋む音が聞こえる。目覚めた隣人が仕事に向かうのだろうか。いや、足音は確かにこちらへ向かっており、扉の前で止まった。何らかの事情で彼が戻ったのだろう。別の可能性を僅かでも期待した自分自身を、わたしは戒めた。
すると突然、扉の方から鈍く鋭い音が響いた。無理矢理に鍵を破壊した音だ。異常な事態に驚き、左へ振り向く。
ゆっくりと扉が開いた。
とても信じられないが、紛れもない現実だ。
わたしの眼前には、確かに彼女の姿があった。
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