第2話 後悔
「行ってくる」
決まりきった独り言と共に、俺は三畳間を後にし、夜が明けたばかりの街に繰り出した。日の出の早さと滲む汗が、嫌でも夏を感じさせる。
持ち出した逃亡資金が底を突いた後は、止むを得ず数日に一度の日雇い仕事で食い繋いでいる。肉体的な苦痛は拭えない一方、
辿り着いた寄せ場──市民広場の成れの果ては、いつも通り喩えようのない臭いがする。複数の銘柄の紙巻き煙草と、炊き出しの香りが混在する独特の空気だ。未だに慣れない。
労働者と手配師との交渉が、視界の端々で目に留まる。募集は早い者勝ち。吟味しすぎて仕事に溢れぬよう神経を研ぎ澄ます。視覚と聴覚、そして直感。
すると、大柄な手配師と視線が合った。近寄って条件を確認する。仕事はガラ出し。破砕用機器の不調で、代わりに多くの人手が要るのだという。一万円足らずの日当は決して高額とは言えないが、ひっそりと生き長らえるだけなら問題ない。納得の上、書類に記入を済ませる。以前は辿々しく記していた偽名も、今では易々書けるようになった。 俺は男の傍らに停まっているワゴン車に乗り込んだ。最奥の席は既に埋まっていたので、奥から二列目の窓側に腰掛けた。
「隣、失礼するよ」喋り掛けてきた中年の男に、形式的な会釈を返した。身に纏った作業着は俺のそれと同様に煤けており、帽子の下からは灰色混じりの髪が顔を覗かせる。馴れ馴れしいな、放っておいてくれ。そんな俺の意思は伝わらず、男は話を続けた。
「金貰えるだけ幸せだよな、おれたち」皮肉を聞き流した一方で共感も覚える。技術が雇用を奪おうと、働き手を必要とする現場は消えていない。歯車のアイデンティティは、当分脅かされずに済むだろう。
「おい兄ちゃん、寝ぼけてんのか」隣席から追撃が来た。
「はぁ」
気怠い返事を放り投げる。絡まれるのが面倒なので、普段は目もくれぬ車窓へと視線を向けた。狸寝入りをしなかったのは、せめてもの強がりだ。
即座に視界に入ったのは、登った朝日に照らされながら歩道を駆け抜ける、運動着姿の青年たち。朝練にはまだ早い。自主練をする生真面目な運動部員だろう。
このように市井の人々の暮らしを垣間見てしまうと、何気ない風景が引き金となり、忘れたい過去が蒸し返される。
人間を模した機械を造っていた、三年前までの記憶の残照が。
脳裏を過ぎったのは、四番目の試作機──シキの身に降り掛かった事件。脚部の動作確認のために、体育館で持久走のタイムを測ろうとした時だ。
テストは順調に進んでいた。脚と腕をリズミカルに振り上げて堂々と走る様は、まさに陸上選手さながら。駆動に問題は感じられない。シキは確かなバランスを保ちながら、無事に二千メートルを走り切った。上層部や仲間たちは成功に安堵していたようだが、俺は違和感を拭えずにいた。
何故、止まろうとしない……?
ゴールしてもなおシキは走り続け、トラックを抜け出した。文字通りの
「止まれ!」
前のめりに倒れたシキは勢い任せに転がり続け、やがて動きを止めた。
機体の完成間近、脚部の動作実験中におけるトラブルが後を絶たなかった。その際の俺の役目は、遠隔操作端末による“予防安全システム”の発動、つまり強制
システムはスイッチと音声の二段階認証から成る。対象の半径三百メートル以内で、ペンを
いかに高度な処理能力を持つAIであっても、四肢を同時に制御させようとすると過負荷が発生し、思考に重篤かつ永続的な不具合を引き起こしてしまう。特に下半身の挙動、即ち不整地における姿勢維持と二足歩行が、強烈な負担を強いるためだ。
二足歩行にさえ固執しなければ、プロジェクトは滞りなく完了していただろう。豊かな表情と
声を掛けられた時は馬鹿馬鹿しいと思った。だが、黙々とAIの研究を続けてきた俺にとって、一つの欲望が芽生えたのもまた事実だった。形に残るものを世に残したい、と。
相変わらず、俺は車窓を眺めていた。どのような物体にも焦点を合わせずにいようと思った矢先、大型犬を引き連れた中年女性が目に留まった。
最悪だ。
鼓動と呼吸が速まっていく。六番目の試作機──リクが引き起こした、異種間コミュニケーションテストの記憶が鮮明に蘇る。
始まりは順調だった。投げたボールを大型犬にキャッチさせ、一緒に走り回る。どう見ても飼い主と愛犬だ。ところが、突然犬が吠え出し激しく暴れ回った。目の前の男が“人ならざるもの”と察して警戒したせいだろうか。
自分に害を為す存在。犬をそのように見做した彼は、突然犬の横腹に向けて右足の一撃を放った。度重なるトラブルで鍛えられた反射神経が指先へ伝わるまで、ほんの一瞬。俺は停止装置のスイッチを押し、あらん限りの大声を上げた。
「
鈍い音が大地を震わせる。彼と犬は同時に地に伏した。その場に居合わせたスタッフの半分が、血相を変えて犬の元へ走っていく。残りの半分は立ちすくみ、ただ唖然としていた。リクの元に駆け寄った者は一人も居ない。どれだけ情が移った機体だとしても、過負荷でクラッシュしたAIには手の施しようがないと、皆知っていた。
被害者となった犬は大事に至らず、すぐに回復し元気を取り戻した。しかし、事件には固く
「動物へ危害を加えるなど論外。人身事故にも繋がりかねない、極めて由々しき事態だ」「思考回路が正常であっても、人命優先を選択し、同じ判断を下したのではないか?」「威嚇と殺意の区別も付かぬなら尚更問題だろう」「一向に進展が見られないのだから、このプロジェクトは中止すべきではないか」「判断が性急過ぎる。投資額を覚えていないのか」
紛糾し続ける上層部の怒声が忘れられない。外様の研究者だった俺への風当たりは強く、幾度も謝罪と弁解を繰り返す羽目になった。
「次こそは、次こそは絶対に──」
七番目の、最後の試作機。ナナセの製作は、こうして幕を開けた。
エンジンの振動は、いつの間にか止まっていた。
「ほらぁ、ボサッとしてんなよ」とぼやく隣の男に小突かれながら、俺は車を後にした。充足感のない日々は、こうして続いていく。
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