第5話 八より一つ少ない

 いくつかのオアシスを経由して、辿り着いた所は異様だった。砂漠とは違う乾いた風にさらされた、灰色の建物。コンクリートを使っているらしいが、今どきこんなものは見られないだろうと言うのが俺の率直な感想だった。前々世紀の科学力はどこまでだったんだろう。こんなのがゴロゴロしていたのだろうか。思うと昔話で聞いた事があるバベルの塔を思い出した。人が一つの言葉で統一されていた時代。そんなものがあったら、こんな建物も簡単に作れたのかもしれない。

 アリサの持っていた本の中で比較的写真の多い本をペラ読みしていたとは言え、その圧倒的な存在感は眩暈がするほどだった。


 ラクダたちもどこか怯えている様子だったが、全部アリサのコンテナに入れて俺達は中に入って行く。懐中電灯なんて高級品は持っていないから、松明だ。何も無い、とアーサーが言っていた通り、壊れた機械が転がっていたり、ベッドの名残のようなものがあったり、不思議な感覚だった。知らない場所なのに、そんなに怖くないのは、てけてけ歩いて行くアリサと銃で武装した仲間たちのお陰だろう。こんな所に人が住んでいるとは思えないが、可能性はゼロじゃない。事実最寄りのオアシスは一キロ程度しか離れていないのだ。

 そこでの聞き込みでは、ここでは昔悪魔が生まれて、その色を真っ黒にしてしまったのだと聞かされた。真っ黒と言うほどではないが、村人も近付かないバベルを上り、出たのは大きなホールだった。

 壊れたドアが七つ。それぞれ上に1、2、3、と番号が振られている。七。人が認識できる数字の限界。アリサは迷わずに七番の部屋に入って行った。


 そこはそれまでのどこか牢獄染みた部屋よりいくらかマシで、窓もあったし本棚もあった。ベッドも傷んでいる風じゃないし、いざとなれば暮らせるんじゃないかと思わせるものがある。だが物騒なものが落ちてもいた。薬莢である。おそらくサブマシンガンの。そしてこの部屋は、妙に、地面に黒い染みが多い。

 まるで暴発でも起こったかのように。


 アリサは壁の砂漠の地図を剥ぐ。そこには隠し扉があった。とは言え人が通れるほどではなく、人の頭が入るサイズだ。


「銃を貸して」


 違和感に飲まれてしまっている俺は、少しの怯えさえ覚えながら、アリサの言うとおりにする。拳銃の銃底で蝶番を叩き壊したアリサは、慎重にコンクリートの壁を引っこ抜いた。


 そこには白く色の抜けた、魚のモツを思わせる塊が水槽のようなものの中で浮かんでいる。


「これが――アルヴィの」


 前々世紀最大の科学者であり物理学者であり天文学者の。

 脳みそとのご対面である。

 よく見ればそこは電気が通っているようで、脳にもいくつかのパイプが刺さっていた。こんな場所でどうやって、と思って、アリサのコンテナの太陽光パネルを思い出す。すすけた場所でも生き残っていたのか、ならばこの脳は『生物』なのか? 思考でもしているのだろうか。何百年も。こんな牢獄のような場所で、隠されて、秘されて、隠匿されて。


 世界中の誰もが欲しただろう、その天才の脳。

 シンと静まり返る俺達。

 お宝の中身を知らなかったおっちゃん達は、薄気味悪そうに冷や汗を垂らしている。

 動いているのは、アリサだけ。


 アリサは自分の髪を解く。纏められていたので知らなかったが、背中を覆うほどに長いプラチナブロンドの髪は、天然パーマなのかうねっていた。そしてその不自然に短い箇所をさらけ出すと、剃刀か何かで剃ったのか、髪がない。そこにぺたぺたと付けていくのは電極だ。あらかじめ解っていたように、知っていたように。

 何をしているかは分からないが、おそらく脳との交信を試みているんだろう。具体的にどうやってかは分からないが、脳には微弱な電気信号が走っているとアリサに教えられたことがあるから、それを使うのかもしれない。


「アルヴィ――私の声は届いているか?」


 ジジ、とっと音がして、やあ、と声が届く。ラジオのようなそれに、俺達はらしくなくびくっとした。思わず銃を撃ちそうになるおっちゃんを手で制して、アリサの声を聞く。問いかけを訊く。その答えを耳にする。もしかしたらこれは、世界でもとっておきの偉業なのかもしれないと思いながら。それを目にすることを許された、選ばれたのだと思えてしまいそうな。


『やあ――次はお嬢さんかい』


 しわがれた声がジジジ、とノイズ混じりに響く」


「アルベルト・アリサ・アウグスタ・アイソポソス・艾璃アイリイ・アクラム・亜衣・アジモフ。あなたのクローンの一人だ、アルヴィ」

『そうか。Aが一つ増えたんだな。随分早い成長のようだ。だがお嬢さん。フロイライン。私にはもう何もないよ』

「何もない? 私と話しているのはアルヴィだろう?」

『搾り取り尽くされた、ね。脳の切片は世界中に散り、今見えているのはタンパク質で何とか崩壊を留めている臓物だ。私から取れるものは、もうない』

「それでもあなたは私と話し、会話している」

『それもまがい物だ。過去に縋ったところで答えは出ない。過去を見聞することは出来ても、未来に繋がることは出来ない。私は過去だ。君に何も、与えられない』

「それじゃあッ」


 それじゃあ。

 何のために生まれて。

 選別されて来たのかが。


「それじゃあ私は何も新しいことが出来ないッ! あなた以上になれない!」

『なれるさ、ドクトルA8。君は組織の人間を煙に巻いてここに来た。彼のように』

「彼?」

『なあ、ドクトルA7』


 タァン、と拳銃の音がして、薬莢が落ちた。

 崩れるのはアリサの身体。ひびが入ったのは防弾ガラスのようだったアルヴィの水槽。

 水槽を撃ったのは――アーサーだった。

 アーサー――A?

 ドクトルA7?


「アルベルト・アマデウス・アウグストゥス・アリストファネス・アーサー・アナベル・アジモフ。『アルベルト・アジモフ』シリーズの二級品が俺だ」


 一気に距離を取った仲間たちに、くくっとアーサーは笑う。突然の交信不良にアリサは白目を剥き、口から泡を吹いている。その口が喘ぐように言葉を紡いだ。


「電極を外して――早くここから逃げなさい――私の脳にはいざという時の消却装置が――」


 がらがらと音を立ててバベルは崩れる。げらげら笑いながらアルヴィの脳を撃ち続けるアーサーを置いて、俺達は急いで縄を使い、壁を滑り落ちて行った。もっとも壁も崩れ始めていたからどの程度の減速になるかは分からないし、俺はアリサを抱いていたから余計にそうだったが、上手く砂の上に落ちる。


 コンテナに向かい、アリサの指を鍵に押し当てる。いつか俺だけに教えてくれた扉の解除方法だ。いざとなればこの指をもいで行け、と悪戯混じりに言っていた。そんなことが出来るかと、俺はちょっと本気で怒った。だが今はそれが良かったと思う。ラクダたちを外に出し、オートに切り替えて俺のラクダを追って行くようコンテナにもセッティングをする。

 そうしたら俺はアリサを床に寝かせ、自分のラクダに向かった。バベルの崩壊で少しばかり動揺しているが、盗賊のラクダたちだ、すぐに平常心になって崩れる建物から離れて走って行く。


 アーサーは――助からなかっただろう。

 ドクトルA7。アルベルト・アマデウス・アウグストゥス・アリストファネス・アーサー・アナベル・アジモフ。そんな名前の事、これっぽっちも教えてくれなかった。友達だと思っていた。否、多分友達だった。アリサが現れるまでは。口減らしで施設を捨てられた。『施設』から捨てられた。多分それは、そう言う事だったんだろう。でも逆境に負けず、あいつは砂漠の強盗団になった。自分の存在意義を勝ち取ろうとしていた。そしてそれは成功しかかっていたんだ。『アーサー』に、なれる所だった。あと少しでも時間がすれ違っていたら。アリサが選んだ強盗団が俺達でなければ。

 アーサーは、アーサーとして生きていられたんだろう。それを思うと、少しばかり同情は出来た。


 でもアリサを害するものは駄目だ。

 俺はこの花を手折られたくない。

 こいつをどうにかするのは、自分でいたかったのだ。

 もしかしたら女郎屋の女たちに持つのとは違う感情で。

 俺は、そうしたかったのだ。


「ルスラン――アーサーの奴は」

「きょうだいだったんだよ。アリサの。だから出来の良い妹が許せなかった」


 訊ねられてそうかと返され、やっとオアシスに戻ると、黒い塔が無くなったと言うことでわいわいと騒いでいた。直後と言って良いタイミングで帰って来た俺達に向けられたのは好奇の目だが、気にせずに女郎屋に向かったり食堂に向かったりすると、それもばらけて行く。

 半開きになっていたコンテナのドアを開けると、アリサの頭にはまだ電極の切れっぱしがくっ付いていた。乱暴にそれを取り、プラチナブロンドの髪を撫でていると、ぅん、と子供のようにむずがる声がして、ぼうっとアリサは目を覚ます。


「ルスラン――アーサーは」

「アルベルト・アマデウス・アウグストゥス・アリストファネス・アーサー・アナベル・アジモフ。『アルベルト・アジモフ』シリーズだとか言っていた」

「ああ――私たちクローンプロジェクトはそう呼ばれていた」

「あいつはお前の」

「兄、だったんだろうなあ」


 ふーっと息を吐いて、アリサは手の甲で目を覆った。


「ちっとも気付かなかった。お兄ちゃん」

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