第9話
ロバートの住む家は、イースト・ハムにあった。
ロンドンの中心街から東に位置する雑然とした町だ。
ジョアンナによると、ロバートはこの町のフラットで年金暮らしをしているという。
「あんまりいい暮らしじゃないみたい」
市街地図を頼りにフラットを探しながら、ジョアンナは心なしか沈んだ声で言った。
殺風景な集合住宅が見えてきた。ロバートの住むフラットらしい。
日はわずかに傾き、涼やかな風が建物と建物の間を通り抜けていった。建物のまわりを所在なげな表情で散歩する老人たちの姿が目立つ。ここはロバートと同じような、年金生活者が暮らすフラットらしい。
誰も僕らに注意を向けなかった。他所者が徘徊しても気に留めない住人たちの様子が、ここが紛れもなくロンドンであることを思い出させてくれる。
僕らは誰に怪しまれることなく、ロバートのいる建物に入っていった。
落書きで汚れた階段を上り、二階に着いた。右端のドアが、ロバートの住むという28だ。
先頭を歩いていたデイビッドが、みんなを振り返った。
「電車の中で打ち合わせたとおり、カメラ・クラブの同窓会で集まったことにしよう。ボロが出ないように細かい思い出話は極力避けるんだ、いいね」
「彼はジョンが死んだことは知らないのよね」
ジョアンナが念を押すように、言った。
「知らないはずだよ。ルイーズは知らせてないし、ロンドンに住むロバートが、地方紙に載ったジョンの死亡記事を見たとは思えない」
僕がそう言ったとき、僕らは、28のドアの前へ来ていた。
ドアを開いて突然の訪問者を迎えたロバートは、口を半開きにし、何も言わなかった。
五十年以上も会っていない仲間なのだ。途端に思い出せるはずがない。
ロバートは痩せた体にかぶさるように駱駝色のカーディガンを着て、黒縁の時代がかった眼鏡をかけていた。厚いレンズのせいで滑稽なほど大きく見える目は、叱られた老犬のように怯えている。
「なんて、懐かしいんでしょう」
口火を切ったのは、マギーになっているレベッカだった。声音や言葉のテンポまで変えてしまっている。もう彼女は老人に成りきっていた。
「ロバート、元気でうれしいわ」
ロバートは呆然と立ち尽くし、マギーの顔を見つめた。
「思い出して、ロバート。カメラ・クラブのみんなであなたに会いに来たのよ。私はマギー。こちらはマーク。彼はスティーブよ」
「なんだって?」
低く、呻くような声だった。
「ブロムリーの町にカメラ・クラブがあったのを忘れちゃったの?」
マギーはジョンとなったデイビッドの腕を取った。
「さあ、ジョン。ロバートの記憶を呼び覚ましてあげて。あなたたちは仲がよかったじゃないの」
彼女はいつか有名な女優になるかもしれない。僕はマギーとなったレベッカの横顔を見ながら、そう思った。
ジョンに扮したデイビッドに視線を移したとき、ロバートは眩しいように目を細めた。そしてデイビッドの後ろに立つメアリとなったジョアンナを認めたとき、ロバートは大きく目を見開いた。
「――信じられない」
デイビッドがロバートの手を取った。
「さあ、ロバート、中に入れてくれ。昔のように語りあおうじゃないか」
弾かれたように、ロバートは後ずさった。そのとき背後の薄暗い室内から黒猫がそろりと現れ、みんなの足元をすり抜けていった。
「じゃあ、あんたらは、全員カメラ・クラブのメンバーだったというんだね」
ロバートは狭い居間に入ると、みんなを見回しながら、言った。
部屋の中は薄暗い。西側の窓のカーテンが開けられているが、夕方になって雲の多くなった空からは、五月らしい光は入ってこない。
くたびれた焦げ茶色の応接セットがあった。その脚の部分が、猫が引掻いたらしい傷でボロボロになっている。壁際に置かれた小さな古いテレビが、付けっぱなしになっている。
「偶然ジョンとメアリが再会したのよ。それで連絡がついた私たちが呼ばれたの。それからあなたの話になって、会いに行こうということになったのよ」
優しい声音で言ったのは、ジュディスになっているアンだった。
ロバートは、ジュディスの言葉に耳を貸さない。ただずっと、衝かれたようにメアリとなっているジョアンナばかり見つめている。
「本当にあんたはメアリなのか?」
ジョアンナが頷くと、ロバートは眼鏡をとって、指先で眉間を揉んだ。
「――メアリのはずがない、メアリのはずがないんだ。メアリは…」
「メアリはどうなったの? なぜ、失踪したの?」
声音を作ることも忘れたジョアンナが、叫んだ。
「知っていることを話して。本当のことを知りたいのよ!」
「――あんたは何者なんだ?」
ロバートが顔を上げ、ジョアンナを見据えた。
もう、駄目だ、きっとバレる。僕がそう思ったとき、ジョアンナがふいに頭のウイッグを取り外し、床に投げ捨てた。
「あっ」
みんながいっせいに声を上げた。
「あたしはジョアンナ。メアリの孫よ。そしてあなたの孫でもあるわ。さあ、本当のことを話してちょうだい」
「いったい、これは――、おいジョン、どういうことなんだ?」
ジョンとなったデイビッドが、ジョアンナのウイッグを拾い上げ、ロバートに体を向けた。
「僕も、ジョンじゃありません」
そしてデイビッドは話し始めた。ジョンが公園で心臓発作のために亡くなったこと。僕が紹介され、僕がオークションで古い写真集を見つけ、ジョアンナの祖母と友人であるジョンの写真を見つけたこと。
「ジョアンナとアキヒコは、ジョンはメアリの若い頃に瓜二つのジョアンナを見て、衝撃を受けたのだろうと思いました。その驚きが、彼の心臓を止めたのだと思ったんです。そうして考えるうち、二人は、メアリの失踪の理由をジョンが知っていたんじゃないかと思うようになりました。メアリの失踪の理由がわかれば、ジョンがなぜショック死するほど驚愕したのかも明らかになる。それを知るには、ジョンが死んだ今、あなたから話を聞くしかない。そう思った二人は、ジョアンナの劇団仲間の僕らに協力を頼んで、当時のカメラ・クラブのメンバーに成りすまし、あなたから本当のことを聞き出そうと思ったんです」
「――じゃあ、あんたらは全員偽者なのか?」
ロバートがぐるりと部屋にいる老人たちを見回した。
「残念ながら」
そう言って、ウイッグをはずしたのは、ジュディスとなっていたアンだった。続いてレベッカもウイッグを取った。
「――わしを騙したんだな」
呻いたロバートに、ジョアンナが言った。
「悪かったわ。でもこうでもしないと、あなたは知っていることを話してくれないと思ったのよ」
ロバートはしばしジョアンナを睨みつけ、やがて溜息とともに首を振った。
「本物のジョンは、いつ死んだんだ?」
「先月です」
僕が答えた。
「ジョンはきっといるはずのないメアリを見て驚いたんだわ。メアリがどうなったか知ってるんでしょう? 話して――おじいちゃん」
ジョアンナの声が、せつなく響いた。
「――メアリは」
ロバートは唇を振るわせた。
「メアリが生きているのか死んでしまったか、わしは、知らん。あれ以来会ってないからな」
「あれ以来というのは、失踪して以来ということですか?」
僕の問いに、ロバートが力なく首を振った。
「いや、ドーバーで会ったのが最後だよ」
「じゃ、メアリはドーバーにいたのね。それなのに、どうして見つからなかったと」
続きを言おうとしたジョアンナを、ロバートは遮った。
「ドーバーの漁師の家で、メアリに会ったときの衝撃が、あんたにはわからんだろう。あれがメアリだと認めることは、どうしてもできなかったんだ…」
そしてロバートは、ジョアンナの膝の上にある白髪のウイッグをぼんやり見つめた。
「ジョンとわしは出かけていったんだ。メアリに似た人物がいるというあの港町の漁師の家へ」
ドーバーには、何度も出かけたことがあった。学生だった頃、フランスへの旅行といえば、安上がりなフェリーを使ったものだったから。
海に面した白い崖を思い出しながら、僕はロバートの話に耳を傾けた。
「漁師の家に、メアリにそっくりな人物がいたよ。そいつは仲間連中とビールを飲んでた」
ロバートは悲しげに、ジョアンナを見た。
「メアリがいたんだ。その男たちの一人が、紛れもなくメアリだったんだ」
「――意味がわからないわ、どういうことなの?」
そう声をあげたのは、ジュディスとなっていたレベッカだった。
「メアリは男になっていたんだよ」
「男?」
「そうさ。メアリにそういう嗜好があったことを、わしは知らなかったんだ。あの家はキャスリンの家だった。メアリが妙に親しくしてい町のニューススタンドで働いていた女の子だよ。キャスリンを追って、メアリはあの町へ行ったんだ」
僕はジョアンナに顔を向けた。目を見開いて、何も言えずにいる。
「本来の自分に戻ったんだと聞かされたよ。だが、わしは納得できなかった。力づくで連れ戻そうとしたよ。だが、ジョンに反対された。そっとしておくべきだと、そう言われたんだ」
「それからあなたとジョンは仲違いをしたんですね」
僕の問いにロバートは頷いた。
「メアリのことは、わしとジョンだけの秘密だ。――もし女のままのメアリをジョンが見たと思ったなら、あいつはさぞ驚いたことだろうよ」
僕らは全員立ちすくんだまま、放心したようなロバートを見つめた。いつのまにか窓から部屋の中に入ってきた黒猫が、ロバートの膝の上に乗った。
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