第7話
ジョン・クーパーは、一九二三年にスコットランドのグラスゴーで生まれた。
その地にいたのは彼が六歳のときまでで、その後は両親とともにロンドン郊外の町ブロムリーに移ったという。
成長した彼は、ロンドンの大学で学位を取り、その後各地の大学で教鞭をとった。
彼の十代から二十代は、ロンドンも空襲を受けた第二次大戦の影響なしに語れないが、肺が悪かったために、召集は受けておらず、一度も兵役に服していない。ジョンはその事実に、忸怩たる思いがあったようだ。
ジョンが写真にあるカメラ・クラブに入ったのは、彼が三十歳になったときで、ロンドンの大学で仕事が見つかり、ロンドン郊外のブロムリーの町から通えるようになったからだという。
ケーキとお茶を用意して僕を待ってくれていたルイーズが、ジョンの生い立ちを語ってくれた。
「私と知り合ったのは、ジョンがロンドンの大学に勤めてる頃よ。私はブロムリーの隣町の出身なんだけど、叔父がブロムリーで商売をしていてね。戦争が終わってからまだ数年しかたっていなかったでしょう? 人手が必要なときだったから手伝いをしていたの。そして叔父を通してジョンと知り合ったのよ」
ティカップをゆっくりと口に運びながら、ルイーズは夢見るような表情で、遠い昔を懐かしがった。ルイーズはこの当時二十代半ば。女性としていちばん輝いていた頃なのだろう。
そしてあの女性も輝いていたはずだ。僕は写真を覗き込むと、ジョアンナの祖母の上に指先を置いた。
「この人を知っていますか?」
眼鏡を眉間に押し付けて、ルイーズは写真に見入った。
「…これは、確か…。メアリじゃないかしら。メアリ・ピックフォード」
「行方不明のメアリですね?」
まあと驚いて、ルイーズは顔を上げた。
「あなた、どうしてそんなことを知ってるの?」
僕はジョアンナとのいきさつを手短に説明し、そしてジョアンナに写真を見せたところ、この写真の女性――メアリ・ピックフォードがジョアンナの祖母であることを知ったと話した。
「奇遇ね。そういうのを奇遇っていうのよ」
まるで手品の種明かしをされたかのように、ルイーズは驚き、喜んだ。
「そのお嬢さんに会ってみたいわ。あのメアリにそっくりなんでしょう? ジョンも生きていたら、さぞ驚いたでしょうね」
なぜか、僕はなにか頭の隅に引っかかるものを感じた。だが、はっきり形となって見えたわけではない。
「メアリが行方不明になったとき」
ティカップを掌であたためるようにしながら、ルイーズが続けた。
「ジョンはとてもショックを受けてたわ。メアリの夫のロバートはね、ジョンの親友だったのよ。親友が悲しむのを見るのが辛かったのね」
僕は写真の中のメアリを見つめた。美しいが、どこか頼りなげな雰囲気を持っているメアリ。彼女の身の上に、いったいどんなドラマが起きたのだろう。
電話が鳴って、僕の思考は中断された。ルイーズが電話を取るために立ち上がった。
時計を見ると、もう五時を回ろうとしている。そろそろ暇を告げる時間だ。
電話を終えるルイーズを待っていると、サイドテーブルの上に置かれた一冊の本に目がいった。
本は、美しい刺繍がほどこされたブックカバーがかけられてあった。目が留まったのは、その刺繍の見事さのせいだ。おそらくヴィクトリア時代のアンティークにちがいない。
本を手にとって、中を見た。ケルト神話とある。ジョンはあらゆる書物に興味を持っていたが、ケルト神話まで読んでいたのは知らなかった。
そして僕の目は、パラパラとめくった頁の中の一行に、釘付けになった。それは神話に出てくる詩の中の一節だった。
――蛇の現れた日よ、呪われてあれー―
さっきから僕の頭の中に引っかかっていた何かが、ようやくかちりと音を立てたようにはっきりと形になった。
ジョンは何かを見たのだ。そしてショックを受けた。その驚きが、弱っていた心臓の鼓動を止めたのではないか?
その何かとは、ジョアンナではないだろうか? 行方不明になったままのメアリが、当時と同じ顔で目の前に現れたせいで、ジョンの心臓は早鐘を打ったのではないだろうか?
ジョンはジョギングをするジョアンナを町で見かけ、後をつけたのかもしれない。そして、あの公園にたどりついたのではないだろうか。老人の足で走るジョアンナに追いつけたはずはない。おそらく途中まで姿を追い、見当をつけて公園に向かったのではないか? 町の中心部から公園までは一本道の狭いフット・パスだ。
ルイーズが電話を終えて居間に戻って来た。
「ねえ、ルイーズ。ジョンが公園で倒れたのは、メアリを見てしまったからじゃないでしょうか」
「メアリを?」
「僕の知り合いに、メアリにそっくりの女の子がいるって言ったでしょう?その彼女、ジョギングをするとき、ノーマン・パークを通るんです。ジョンは行方不明のメアリを目の前にして驚いて、そして――」
ルイーズは片手で口を押さえた。
おそらく、この推理はまちがっていないだろう。だが、僕は、何か腑に落ちないものを感じた。昔の親友の、行方不明のままの妻の姿を見かけたとしても、心臓が止まるほど驚くだろうか。ジョンの心臓は、たしかに弱っていたのかもしれない。だとしても…。
「メアリが行方不明になったいきさつをご存知ですか」
ルイーズが首を傾げた。
「いきさつといってもね。メアリって、ちょっと変わった人だったのよ。あんまりフランクなタイプじゃなかったわね。無口で何を考えているかわからないようなところがあったわ」
ルイーズは写真のメアリに見入る。
「でも、女同士の中では、そんなメアリを評価する人もいたわ。女が集まると、すぐ噂話をするでしょう? メアリはそういう場が嫌いだった。そうそう…」
そして、ルイーズはほんの少し眉間を寄せて、声をひそめた。
「お酒が強かったのを忘れられないわ。女のくせに、ウィスキーを何倍も飲むのよ。飲むと、陽気になって、男たちと肩を組んで歌ったりして」
当時の女性としては、メアリのようなタイプはめずらしかったのかもしれない。
「戦後七、八年の頃ね。町はすっかり昔の様子を取り戻していた。ただ、ちょっと以前のイングランドとは変わったの。何でもアメリカのようになってしまって。クリスマスの飾りつけも、派手で盛大になったものよ。それでも、まだ、メアリみたいに、パブで男たちと騒ぐ女は少なかった。でも、だからって、夫のロバートとうまくいっていなかったっていうんじゃないけど。ロバートは役人で真面目な人だったし、メアリも家庭の主婦としてしっかりやってたわ。失踪した日も、家の中はきちんと片付けられてたようよ」
「家出したとは考えなかったんですか?」
「まさか。メアリに家出する理由はなかったはず。確か、翌朝よ、捜索願を出したのは。私の記憶が正しければ」
「誘拐されたとか?」
「それはないわね。駅で電車を待つメアリを見ていた人がいたらしいわ」
電車に乗って、メアリはどこへ行ったのだろう。
「メアリの写真を印刷したビラを配ったわ。妻同士でちょっとしたグループを作ってたんだけど、そのグループで手分けして、ロンドンでも撒いたのよ。でも、なんの効果もなかった」
「警察は?」
「もちろん、捜索をしてくれたわ。でも、家の中の様子から、警察は家出だと思ってたふしがあるわね。戦後の復興が落ち着いてきた頃といっても、まだまだ不穏な事件が起きていたのよ。警察も真剣には探してくれなかったんじゃないかしら」
日本でいえば、昭和二十年代だ。今とは失踪者に対する扱いも違うかもしれない。
「そういえば、一度だけ、メアリに似ている人を見たっていう情報が入ったの。あれは、たしか…、ドーバーだったと思うわ」
ドーバーは、ドーバー海峡に面した海辺の町だ。
「でもね、人違いだったの。メアリの夫のロバートと一緒に、ジョンが会いに行ったのよ。考えてみると、あれからね」
僕は溜息をついたルイーズを見た。
「ジョンとロバートが仲違いしてしまったのは。親友だったのに、そのとき以来疎遠になってしまって」
「その町で、喧嘩でもしたんでしょうか」
「さあ、わからない。ジョンは何も話してくれなかったから。そういえばキャスリンも」
初めて出る名前だった。
「町のニューススタンドで雑誌を売ってた女の子よ。メアリがいなくなる直前に、キャスリンが病気で故郷の町へ帰ったと聞いたわ。キャスリンは、メアリが親しくしていた女の子でね。もしメアリの失踪を知ったのなら、一番悲しんだのは彼女だろうって噂したものよ」
窓から差し込む日の光が、わずかに傾いている。開けたアーチ型の出窓から冷えた風が入り込み、ぱらぱらと雨の音が聞こえはじめた。
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