第2話
ジョンの家は、町の南端に広がる丘陵の緩やかな斜面に建つ。その辺りは、ふた昔ほど前までは牧草地に隣した村だったらしいが、町に併合されてからは、田舎特有の美しさと静寂を求めて都会からの移住者が増えた。
ジョンもそんな移住者のひとりで、十数年前、仕事の引退を機に、妻のルイーズとともにロンドンから移ってきたのである。
歩くにはちょっと遠い距離で、僕はバスで向かうことにした。
駅前から乗ったバスは、あっという間ににぎやかな町中を通り過ぎ、いつしか丘陵の緩やかな斜面を登り始める。
窓の外には緑の牧草地が広がり、その緑を仕切るように菜の花の鮮やかな黄色い畑がところどころに固まって、まるでやさしいパステル画を見るようだ。
道が下りになり、ふたたび家が並びはじめた。郵便局の前でバスを降り、僕はジョンの家を目指した。
ジョンの家は、美しいツルバラの垣根に囲まれている。僕はまっすぐ玄関へは行かないで、垣根越しにジョンの書斎の方へ足を向けた。ジョンはいつも書斎にいたのだ。去年もその前の年も、ここを訪ねたとき、ジョンはバラのアーチの向こうの窓辺に坐り、僕を笑顔で迎えてくれた。
もうそれは叶わぬことなのだ。美しく咲き乱れている赤いバラも、今年は心なしか色あせて見える。
「まあ、アキヒコじゃないの」
声のしたほうへ顔を向けると、ジョンの妻ルイーズが、庭に面したテラスの窓から顔を出していた。
束ねた真っ白い髪、昔は美人だったことを思わせる高い鼻、都会的な表情。
「来たのね、今年も」
ルイーズに迎えられ、僕は懐かしい家へ入った。
通された居間は、一年前と何も変わってはいなかった。剥き出しの黒い梁がある白い漆喰の壁、手作りの素朴な椅子やテーブル。棚に立てかけられた釣り道具。そして出窓の棚には、庭で切り取られた草花が盛られている。
「あなたに知らせたかったのよ。でも、電話がつながらなくて」
今年になって、携帯電話を落とし、買い換えた。その際に、安全を考えて電話番号も変えた。知り合いには連絡したが、ルイーズに連絡するのは失念していた。
華奢なお盆にのったティ・セットを、ルイーズがテーブルの上に置いた。
「昨日イギリスに着いて、二週間前の新聞で知ったんです。あんなに元気だったのに、信じられません」
「もともと心臓が弱い人だったから」
「散歩の途中だったんですか」
「――そう。でも、あの公園はいつもの散歩コースじゃないのよ。しかも夕方だったらしいの。あの日の夕方、町でジョンがぼんやりと歩いているのをこの近所の人が見ているのよ。町を歩いたあと、あの公園に行ったようだわ」
ジョンが倒れていた公園は、こんもりと樹木に囲まれ、日が沈むと人通りが途絶え、老人が一人で歩き回るような場所ではないらしい。
「あの日私は、ちょうどドーバーに住む義妹のところへお見舞いに行ってたの。義妹もジョンと同じように心臓が悪くてね。家族に先立たれているから、私しか看てあげる人がいなくて――。それで翌日帰って来たらジョンがいなかった…」
もともと痩せた女性だったが、去年よりも一回り小さくなったように見える。年はたしかジョンよりはいくつか下だろうが、もう七十五は過ぎているはずだ。
「そしたら警察官がやって来たの。この界隈中大騒ぎと言ってもいいくらいだったわ。知り合いがみんなこの家に押し寄せてね。――私たち他所者でしょう? もともと住んでいた人たちにしてみれば、何かあったらどんな暮らしをしているか覗いてみたかったんじゃないかしら。――そのうえ死んだのは前の晩で、それから丸一日公園に放置されていたことがすぐに知れ渡ったもんだから、なかには私を非難する人もいて…」
「あなたのせいじゃない」
僕は言ったが、ルイーズは返事をせず、俯いて目頭を押さえた。僕は白い漆喰の壁を背に俯く小さな老女を、ただ見つめるしかなかった。
ジョンの家を出た僕は、その足で仕事に向かった。ジョンのことは悲しいが、といってイギリスにやって来た目的をおろそかにするわけにはいかない。
デイ・パックの中からコレクター情報という名の冊子を取り出し、今日開催されるアンティークの競り市を調べた。
僕が競り市で狙うのは、男性の客をターゲットにした品ばかりである。女性が好む陶器の皿やアクセサリーは扱わない。叔父の店の客のほとんどは男性で占められているからだ。
一時半から釣り道具専門の競り市と、同じ場所で夜の八時から区別なしの競りが開かれることがわかった。区別なしの競り市は、ほとんどガラクタ市と変わらないから、その日の運で左右されるが、釣り道具専門のほうは期待できそうだった。古いリールは日本でもよく売れる。もしロンドンの有名釣具専門店であるハウス・オブ・ハーディのものが見つかったら、今回のイギリスへ来た目的が、じゅうぶん果たされる。
バスで町の中心地へ戻り、僕はオークション会場に向かった。会場は、僕が降りたバス停とは通りを挟んで反対側にある。
競りのことに気を取られていたせいだろう。通りを渡ろうとしたときだ。同じように通りを渡ろうとする老婆にぶつかってしまった。
「ごめんなさい!」
腰をついて転んだ彼女に、僕は駆け寄った。相手はどう見ても七十過ぎの老婆だ。曲がった背中、白く長い髪。皴だらけの灰色の顔。この季節にはちょっと不自然なほどの厚手のグレーのコートを着ている。春とはいってもイギリスは急に冷え込むことがあるから、老人ゆえ用心して着ているのだろう。
抱き起こそうと腕を貸すと、老婆は思わぬ強い力で僕の腕を振りほどき、杖と古びた茶色いバッグを拾って、歩き出した。その歩き方は、腰を曲げてふらつきながらもしっかりしている。
よかった。後姿を見送りながらそう思ったとき、僕は背後から呼びかけられた。
「ねえ、これ、忘れ物じゃない?」
振り返ると、どこかの店の店員らしき制服を着た中年の女性が、紙袋を僕の目の前にかざして立っている。
「さっきのおばあさんが持っていたのよ。渡してあげなきゃ」
そう言った彼女の目には、非難めいた色が浮かんでいた。不注意で老人を転ばせてしまった若い男に、腹を立てたにちがいない。
お礼を言って紙袋を受け取ると、僕は老婆が去って行ったほうへ向かって走り出した。老人の足だ。すぐ追いつけるはずである。
ところが老婆は見つからなかった。路地が左右にいくつもある。
どうしたものか。仕方なく僕は立ち止まって、紙袋の中身を見てみた。中に老婆の住所がわかる何かが入っているかもしれない。
中には、薄い小型のノートが入っていた。 不本意ながら、ノートをパラパラとめくってみた。どの頁にも小さな文字で走り書きがしてあるが、特に老婆の手がかりになりそうな言葉はない。
と、一枚の小さな、紙のカードが見つかった。一〇パーセント・オフ・ベリーズとある。印刷された文字を読むと、この町の美容院のようだ。
カードの裏を見てみた。有難いことに、名前と住所がアドレス欄に手書きで記されている。名前はジョアンナ・グレッグ。住所はこの町だ。どうやらちゃんと届けられそうである。
僕は安心して、競り会場へ向かった。一つ目の競りが終われば、次の競りは夜である。その間に届けることができる。
マーケット・ストリート、二七番。そんなに遠くないはずだ。僕は頭の中でルイスの町の地図を思い浮かべ、会場へと向かった。
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