ローズマリーの宿から

popurinn

第1話

 ジョンが死んだことを、僕は新聞で知った。

 イングランドの南東部――サセックス州の一部のみで発行されている地方紙の片隅に、その記事を見つけたのである。

 新聞は十四日前、四月二十二日の日付のものだった。

 

 その日の午後イギリスに到着し、サセックス州にある小さな町―ルイスで旅装をといた僕は、定宿にしている古びた宿屋の居間で、ローズマリーが出してくれた濃い紅茶を飲んでいた。レースのカーテンが下ろされた窓の向こうは黒く沈み、他に客の見当たらない宿は静寂に包まれていた。

 その古新聞は、暖炉の横の、無造作に積み上げられた雑誌の間にあった。そろそろ六十に手が届く気のいい宿の女主人ローズマリーは、あまり掃除が得意ではない。いつ訪れてもヴィクトリア調にまとめられた居間の陶器や銀の置物は埃をかぶっていたし、ゴブラン織りのソファの上に猫の毛のかたまりを見つけるのも毎度のことだ。そんな調子だったから、雑誌の間からばさりと二週間前の古新聞が出てきても驚いたわけじゃなかった。


――公園で八十二歳の男性、遺体で見つかるー―


 太字部分に続いて、数行で事のあらましが説明されていた。

 見つかったのは、町の北側にあるノーマン・パークであること、発見者は隣村へ近道をしようとして公園を通った十歳の少年であること。死因は心臓発作によるものとされていた。

 

 新聞を掴んだまま、僕は立ちすくんでいた。

 何度も名前を読み返した。

 イエスター・ロード一六番のジョン・クーパー、八十二歳。

 僕の知っているジョンに間違いなかった。

 

 毎年五月になると、僕はイギリスにやって来る。そして仕事の合間を縫って、必ずジョンを訪ねることにしている。ジョンもそれを楽しみにしてくれていて、日程なんか知らさずに突然訪問しても、あたたかく迎えてくれたものだ。

 

 もうジョンの、しわがれてはいるが力強い声を聞くことはできないのだ。

 彼の家で酒を飲むことも、ましていっしょに釣りに出かけることなんか、金輪際できない。

 ジョンの年齢を考えれば、いつかこういう日が来ることはわかっていた。だがジョンは普通の八十二歳には考えられないほど意気軒昂だった。赤ワインが大好きで一晩のうちに一本空けてしまうし、釣りに出かけたら、僕よりも長く水の中に体の半分を漬けておくことができる。

 頭のほうだってちっとも衰えてはいなかった。引退するまで大学で経済学の教鞭をとっていた彼は、静かな余生を送るようになって長いが、いまだ日本のことにはじまり、世界の情勢について詳しかった。

 

 新聞を落としたことにも気づかず、僕は両手で顔を覆った。そのとき居間に入ってきたローズマリーに、

「アキヒコ、気分でも悪いの?」

と、訊かれたが、僕は応えることができなかった。



 翌朝、調子はずれの歌声で、僕は目を覚ました。

 歌声は庭から聞こえてきた。ローズマリーが歌を歌いながら洗濯物を干しているらしい。

 壁の時計は、九時三〇分をさしている。昨夜眠れなかったせいで、寝坊をしてしまったようだ。

 

 今日の予定を頭から追い払って、僕は出かける仕度にとりかかった。どこへ行くよりも先に、ジョンの家を訪ねてみるつもりだった。もう葬式は終わっているだろうが、ともかく家へ行って、家族にお悔やみの言葉をかけたい。着替えをすませ、朝食を終えた僕は、デイ・パックを肩にかけ、宿を出た。

 

 ここルイスは、サセックスのなだらかな丘陵に囲まれた小さな町だ。町の中心地にはノルマン人が造ったという石造りの古い城、二、三の小さなホテルや銀行。ほかに目立つものといえば、一五世紀に建てられたという家のたたずまいをそのまま残した、絵本の店。路地にひっそりとある手作りの籐製品の家具屋。

 マクドナルドも大型ショッピング・モールもない、静かな古い町だ。

 

 僕はこの町に、アンティークの仕入れにやって来る。神奈川県の葉山で叔父の経営する手作り家具とアンティークの店で働いている僕は、毎年イギリスに二週間程滞在し、この町を拠点にしてアンティークの競り市に出かけ、数々のアンティークを仕入れるのだ。

 

 この町を拠点にしている理由は、いくつかある。

 まず宿代が安いこと。ロンドンは日本からやって来るには便利だが、ホテル代がべらぼうに高い。その上、ロンドンの競り市は観光客目当てのものが多く、掘り出し物が見つけにくい。イギリスでは各地で大小様々なオークションが開かれ、田舎へ行けばいくほど、掘り出し物が安く手に入る。

 だが僕がこの町を選んだのは、そういった理由よりも、この町とサセックスの丘陵地帯に、深い愛着を感じているからだ。


 僕は日本の高校を中退しイギリスの語学学校に通うようになってから、その後カレッジを卒業するまでを、このイギリスで過ごした。通った学校はロンドンだったが、学校の友人とも、下宿人のウェールズ人ともなかなか馴染めなかったせいで、休みになると、逃げるように一人旅に出た。その旅先が、ロンドンから半日で回ることができる、サセックスの丘陵地帯で、特に気に入ったのがこの町ルイスだった。


 僕が日本の学校を途中でやめてしまったのは、いわゆる引きこもりになってしまったからで、自分から去ったというよりは追い出されたといったほうが近い。経済的には恵まれた家庭だったものの、仲の悪い両親に反抗して、いつのまにか自分の殻にと閉じこもるようになり、気がついてみると学校に行くことができなくなっていた。


 もし、引きこもりなんかにならずに、ちゃんと日本の高校を卒業していたら、僕はきっとアンティークに興味を持つことなく暮らしていただろう。そして、叔父が定年退職したあとにはじめた店を手伝うこともなかっただろう。

 だが、語学学校の休みのたびにイギリスの各地を歩き回ったおかげで、アンティーク・オークションの開かれる町に、叔父の注文どおりの品を探してくることができた。

 何が幸いするか、わからないものだと思う。もちろん、もうすぐ三十二になる僕は、この先ずっと叔父のアンティークショップを手伝っていくかどうかはわからないけれど、いまのところ、この仕事が気に入っている。


 あれから四年。店は大儲けとはいかないが、僕が毎年イギリスに渡り、仕入れ兼休暇を楽しむほどの利益を出してくれている。

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