第8話 魔術
あの後、泣きつかれたように眠ってしまったアイシャをおんぶして、緋倭斗は宿に戻ってきた。ギルド長には伝書鳩でいきさつを伝えている。宿について部屋を2人部屋に変えてもらった後、アイシャをベッドで寝かしてやると、そのままこんこんと眠り続けた。
翌朝、階下でたくさんの人が行きかう気配で目が覚めると、お腹のあたりが何やら温かかった。
(昨日、湯たんぽでも作ったけ?あれ、いま夏だよな。)
寝ぼけ
(竜の子じゃなくてリスの子を拾ってきたみたいだ。)
そんなことが頭に浮かぶ。そういえば昨夜、アイシャを寝かしつけていたら緋倭斗も寝落ちしてしまったのだった。
昨夜、獣の唸り声のような音で目を覚ますと、アイシャが自分の喉元を掻きむしりながら、喉の奥で鳴らしているようなくぐもった苦しげな唸り声をあげていた。慌てて両腕を掴んで揺り起こすと、アイシャは瞼を開けてこちらを見た途端、堰を切ったように泣き出した。相当怖い夢を見たようだった。そっと抱きしめて背中をさすってやると次第に落ち着きを取り戻し、また眠りについたが、緋倭斗も眠くなってしまったのだった。
今は安らかに眠っているその寝顔に、ふっと笑みが零れ落ちる。9歳の子ならあまり添い寝はよくないのかもしれないが、まあいいかと緋倭斗は考える事を放棄して、頭をポリポリとかきながら朝の身支度を始めた。
アイシャが起きてきたのは丁度おかみさんが朝食を持ってきてくれた時だった。いつもは階下で朝食をとっているのだが、慣れるまでしばらくは部屋でとろうと、
朝食はトマトスープとトーストのようだった。トマトスープにはニンジンや玉ねぎ、キャベツなどがとろりと煮込まれており、野菜の甘い香りがする。トーストは溶き卵を焼いたもので包まれており、2枚のパンで何かを挟んでいるようだった。芳醇なバターの香りとピリッとした胡椒のにおいに混じって、かすかに香ばしいにおいがする。どこからともなくお腹の虫が鳴く音がした。
2人で顔を見合わせて、お祈りをした後にトーストにかぶりつくと、中からとろりとチーズがあふれ出た。チーズのまろやかな香味に混じって、燻製独特の濃厚な香りと豊かな肉汁が口いっぱいに広がった。思わず夢中で食べていると、器の中身はすぐに空になっていた。ちらりと横を見ると、食べ終わったアイシャがどこか物悲しそうな顔で器を見つめていた。今にも指をくわえそうな表情だった。思わず声を立てて笑ってしまうと、アイシャは少し不貞腐れた顔をした。
朝食の後はギルドに向かうことにした。アイシャの魔力計測と師弟契約のためだ。ギルドにつくと、既にギルド長が待ち構えていた。念には念を入れて、魔力測定は別室でできるようにあらかじめお願いしていたのだ。
ギルド長に案内されて別室につくと、そこには小さな水晶玉を持ち、ギルド職員のローブを羽織った眼鏡の男が佇んでいた。男はどこか少し胡散臭そうな笑顔でアイシャを手招きすると、ここに手をかざしてくださいと言って水晶玉を指さした。緋倭斗は思わずごくりと唾を飲み込んで、ギルド長と顔を見合わせた。ギルド長の顔も少し強張っているように見えた。
一方でアイシャはためらいなく水晶玉に近づくと手をかざした。水晶玉はピカッと一瞬だけ光って沈黙する。ギルド職員の男性はじっと水晶玉を覗いた後、一人納得してから言った。
「Eランク程度の魔力量ですね。いたって普通のレベルです。冒険者になるには少し少ない気もしますが、鍛えれば増えますからこれからの頑張り次第ですね。」
そう言って仕事を終えたとばかりにそそくさと部屋を出ていった。身構えていた分少し拍子抜けではあったが、ある意味よい結果だったのかもしれない。そう思って緋倭斗が一息ついていると、アイシャはなぜか少し自慢げな顔をしていた。わが弟子ながらよく分からなかった。
そうやって緋倭斗が首をかしげていると、いつの間にかギルド長が師弟の契約書をもってきた。師弟といっても商人やら鍛冶師やらといろいろあるが、今回は冒険者として指定契約を結ぶことになっていた。緋倭斗が先に署名を書いて
『ここに名前を書けばいいですか。』
と署名欄を指さして聞いてきた。ほっと胸を撫で下ろして頷いてやると、『
午後からは魔法の稽古をすることになった。師弟契約を結ぶにあたって緋倭斗が教えることは一人暮らしの仕方、魔法の使い方、剣術、
魔法を教えるにはまず基礎から知る必要がある。もうすでに知っている可能性もあるが、何を知っていて何を知らないかを把握するためにも一つずつ確認もかねて教えていく必要があった。
『魔法の系統は大きく分けて3つある。この話は知ってる?』
『はい、赤魔法、青魔法、緑魔法です』
どうすべきかと考えて、とりあえず使える魔法を見せてもらおうかという結論に至った。この様子なら魔法の一つぐらい使えそうな気がする。
『何か使える魔法、得意な魔法があれば見せてくれないか。』
試しにそう言うと、愛紗はすぐさま了承して、『師匠が好きな魔法は何ですか?』と聞いてきた。なぜそんなことを聞かれるのかと不思議に思う。それでも、少し考えてから
『水魔法かな。見てて涼やかで気持ちがいいし。』
そう答えると、愛紗『では水魔法を使った舞を披露します。』と言った。
にこやかに笑って優雅に一礼する。
その時、ぶわりと膨大な魔力があたり一帯を包み込んだ。
『それでは御覧に入れましょう。春の
愛紗は神に祈るような仕草をすると、両手を前に突き出した。そのままゆっくりと両手を上げる。ふわりと漆黒の髪が風に吹かれて舞い上がると、まるで舞台に立つ役者のように口ずさんだ。
『水と風の妖精たちよ。手と手をとって舞い踊れ』
指揮者のように両手で円を描きながら、両の拳を握りこむ。その周りに無数の水の玉が浮かび上がった。
愛紗がふわりと手を広げて回りだすと、つられて水玉もくるりと回る。右手をサッと広げると、たくさんの水玉がすぱりと切れる。そうして増えた水玉が、愛紗の周りでふわりと踊った。
そのまま踊るように池に向かうと、パシャパシャと水面の上を駆けだした。楽しそうに水の玉と戯れながら、池の水を掌ですくい上げる。それにふっと息をかけると、水の鳥が飛び立った。そうしてまたふわりと踊りだすと、最後にこちらを向いてまた一礼した。それを合図にパシャリと水の玉が池に落ちた。
緋倭斗はその光景に魅入られていた。全身に鳥肌が立ち、背筋がぞっと凍り付く。
これはあってはならない光景だった。あまりの驚きに呆然として、
『愛紗、さっきのは……』
そう聞くと、愛紗は自慢げに胸を張って言った。
『代々伝わる演舞、春の誘いです。』
『普通、水は空を飛ばない』
そう言えば、愛紗は当然だというように答えた。
『もちろん加工を加えた特殊な水です』
『詠唱もなくどうやって』
思わずそう呟くと、愛紗はなんてことないようにのたまった。
『この程度のことに詠唱なんていりません。詠唱は言霊、言葉の力を使ってイメージを助けるためのもの。魔法のかなめはあくまで理解、イメージ、コントロールです。イメージできるのに詠唱する必要なんてありません。』
あまりのことにそれ以上言葉が出てこなかった。
これは世界の常識を覆すものだった。
いや、人族の常識を覆すものだった。
よく考えれば魔族は突飛な魔法を使用していた。空を駆け、空を切り裂き、大地を揺るがす。もし
緋倭斗は思わず身震いした。魔族が一騎当千なのも納得だった。
(あまりにも文明のレベルが違いすぎる。)
昔の誰かが言っていた。魔族の魔法はもはや魔法ではなく魔術だと。世の理を理解し体系化し、行使する。
今では廃れたその考えが、いかに的を射たものだったか、いま身に染みて理解した。
(隠さなければ――)
緋倭斗は思った。この数奇な少女に背負わせるにはあまりにもことが大きすぎる。人族の発展に必要不可欠なのは明白だが、この少女には酷すぎた。幸い今代は魔王に対抗しうる勇者がいる。いま急いでこのことを明らかにする必要はないはずだった。
そう、魔族には勇者が対処すればよいのだから。
そう心に誓って、緋倭斗は愛紗のそばに腰を落とすと、目線を合わせて話しかけた。
『愛紗、その魔法は決して人前では使っちゃいけない。』
そう言うと、愛紗は困惑した表情をした。緋倭斗はどう説明すべきか思案に暮れた。どう説明すれば伝わるだろうか。
『そう、だね。これから俺が普通の魔法を教えるよ。俺たちにとっての普通の魔法がどういうものか。愛紗にはそれをしっかり学んで、なぜ俺が使っちゃいけないって言ってるかを考えてほしいんだ。いずれこの意味を理解して、自衛できるようになるまでは、決して人前では使わないと約束してほしい。』
そう言うと愛紗は不思議そうな顔をしながらもしぶしぶ頷いた。
緋倭斗は思わずふうっと大きくため息を吐いた。思った以上に教えるべきことが山積みかもしれなかった。
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