第29話

「…………え?」


 予想もしていなかった言葉に、絃一郎はしばらく言葉を失ってから、辛うじて絞り出すような声を上げる。


 が、永海はお構いなしに早口で続けた。


「初めて君の歌を聞いたとき、すごくびっくりしたんだよ。だって、心の音が何にも聞こえないんだもん。何にもなくて、真っ新で、心地の良い音。だから、君となら歌えるって思ったんだ」

「……まさか、それで伴奏を?」

「そう。伴奏をお願いしたのは、寺方くんの伴奏で歌いたかったから」


 何度も聞いた伴奏を頼んだ理由をもう一度口にして、心底嬉しそうに微笑む永海。


 確かに永海は、絃一郎が理由を尋ねる度、『寺方くんの伴奏で歌いたいから』と答えていた。それは、絃一郎の伴奏からは何の音も聞こえないから、ということだったらしい。


 まさか、そんな事情があったなんて。いや待て。そもそも、どうして絃一郎の音だけ聞こえないんだ。


 そんな衝撃と疑問でいっぱいになった頭の片隅で、そりゃあ驚くのも当然か、と納得した。伴奏者から聞こえる音で苦しんでいる最中、何の音も聞こえない人に出会ったのだ。相手が箏曲部員だろうと、素人だろうと、伴奏を頼みたくなるのも分かる気がする。


 驚きのあまり絃一郎が動けないでいると、永海が小さく笑いを漏らした。すると、その手がこちらへ伸びてきて、髪をかき回すように撫でられる。


「最初は無理言っちゃったかなと思ってたけど、いっぱい頑張ってくれるし、優しくていい子だし。頼んで良かった。ありがとね、寺方くん」

「ちょ……ちょっと、永海先輩……!」


 触れた永海の手は、優しくて、ちゃんと温かくて。


 途端、胸がじんわりと熱くなってくる。それが何だが照れくさくて、絃一郎は顔を隠すように俯いてしまう。


 癖のついた短髪をひとしきり撫で回し、満足そうに手が離れていったところで、絃一郎は尋ねる。


「それじゃあ、これまでずっと永海先輩は、思いを込めて気持ち良く歌うってことが出来なかったんですよね……」


「まぁね。でも、悪いことばかりじゃないよ。今回は寺方くんの箏爪探しを手伝えたし……あぁ、それに、寺方くんの先生の音も聞けたんだった」


 ふと思い出したように言う永海。


 途端、目を丸くした絃一郎が顔を上げた。すると永海も目を丸くして、二人の視線がバチリとぶつかる。


「…………今、なんて?」

「? 寺方くんの先生の音も聞けたよ」

「え、えぇっ! どういうことですか?!」


 絃一郎は、裏返った声を上げながら、そのまま倒れそうな勢いで頭を後ろに反らした。


 千尋の音を聞いた。


 絃一郎が六歳の夏に姿を消して以来、一度も会っていない千尋の音を。今どこにいるか、そもそも会えるのかすら分からない幽霊の音を。


 そんなとんでもないことを、永海は平然と言った。自分の話よりも、絃一郎の驚きっぷりに驚いているあたり、本当に何でもないことだと思っているのだろう。


 少し傾けた首を撫でながら、永海が言う。


「まぁ、これは僕の推測なんだけど」


 影を追いかけ、ソルフェージュ室で倒れてしまった後。


 その時、普段何も響いてこないはずの絃一郎から、心の音が聞こえたのだという。驚いて耳を澄ませば、どこからか箏の音色が聞こえてくることに気が付く。


 何故聞こえてきたのかは、永海にも分からない。酷使した耳が過敏になっていたせいか、はたまた、その音の主が何かを伝えようとしたからか。理由は分からないが、確かに、絃一郎の側から音がしたのだった。


「多分、寺方くんの箏を見学に行った時、弾いてくれた曲じゃないかな。こういう――」


 そう言うと、永海は記憶を手繰るように少し上を向いて目を閉じ、鼻歌を歌い始める。



 ♪~……



 高くきらびやかで、澄み渡る高い声。それに応える、深く響いてくる低い声。一つの喉から出ているとはとても思えない、互いに呼びかけ合うような、美しくも寂しげな二つのメロディ。


 まさに、あの日、永海の前で弾いた十七絃の曲だ。


 六歳の夏に千尋が教えてくれた――「貴方が箏を弾き続ける限り、私は貴方の側にいるわ」という約束を果たすため、今も弾き続けている曲だった。


 絃一郎は首を縦に振ることも出来なかった。だが、そんな呆然とする姿が何よりの肯定となったのだろう。永海は「やっぱりそうか」とうなずくと、顎に手を当てながら話し始める。


「この音と一緒に聞こえてきたのは、喜びとか、感謝とか、ホッとした気持ちも強かったかな。すごく綺麗で、真っ直ぐで、ゆらぎが少ない音。この前聞いた『日脚伸ぶ』の伴奏みたいな、幽霊の音の響き方の良く似てた。箏爪が見つかったことに一安心する、箏の音を奏でられる幽霊といったら……僕には、寺方くんの先生しか思い浮かばない」


 そこで一度言葉を切ると、永海は絃一郎へ視線を向ける。


「寺方くんはどう思う?」

「俺も、そう思います」


 絃一郎は迷うことなく、言葉を噛み締めようにうなずいた。


「まだお話してなかったんですけど……実は今の曲、千尋先生から教えてもらったんです」

「そうなの?」

「はい。なので、その曲が聞こえたってことは、千尋先生が弾いてくれてたってことなんだと思います」


 それを聞いた永海は意外そうにまばたきを繰り返していたが、やがてしみじみとした口調で言った。


「そっかぁ。じゃあきっと、先生は寺方くんの側にいて、いつも見守ってくれてたんだろうね」

「そ、そう……そうなんですね……!」


 うなずこうとした絃一郎の喉に、何かが込み上げてくる。

 言葉を詰まらせたその熱は、途端に胸から溢れ、目頭まで押し寄せてくる。思わず漏れそうになった声を堪えながら、絃一郎は左の手のひらに置いたままだった箏爪を握り込む。


 千尋は約束を守ってくれていた。


 絃一郎の目に姿が見えなくとも、耳に箏の音が届かなくとも、ずっと側にいてくれていたのだ。


 そう思ったら、もう駄目だった。


 絃一郎は、奥歯を噛んで声を殺し、握った両手を今にも涙がこぼれそうな目に押し当てた。それでも耐えるには足りなくて、顔を腕で覆い隠して、背中を丸めてしまう。


 その背中の上に、そっと優しい手のひらの感触が乗った。


「……もしかして、終わっちゃった? 寺方くんの幽霊探し」


 そう尋ねられて、絃一郎は咳払いを一つした。そうして涙声になりそうだった喉を誤魔化してから、顔を隠したまま答える。


「え、えぇと、実際に会って話した訳じゃないので、終わってはいないんですけど……約束通り側にいてくれたって分かっただけで、俺としては満足というか……」

「そっか。それは困るな」

「えっ」


 唐突にそう言われ、絃一郎は隠すつもりだった顔を上げてしまう。


 見れば、永海は喉元を抓ったり襟元を触ったり、落ち着きなく動いていた。珍しく焦ったような様子に、絃一郎の目からこぼれようとしていた涙が引っ込んでしまう。


「僕は、これからも寺方くんに伴奏してほしいと思ってる。けど、幽霊探しが終わったら、寺方くんは僕の伴奏をする理由がなくなっちゃうよね? どうしようかな、僕に出来ることが他にあればいいんだけど」

「いえ。やりますよ、伴奏」

「えっ」


 絃一郎が当然のように言えば、今度は永海が声を上げる。


 そういえば、以前永海は「僕も寺方くんの幽霊探し手伝うから、寺方くんはずっと僕の伴奏者でいてほしい」と言っていたっけ。それで、幽霊探しが終わったら困るということか。


 その時絃一郎は、永海に受け入れてもらえた安堵で胸がいっぱいで、まともに話せていなかった。こちらの思いは何も伝えられていなかったのだろう。


 ならば、と言葉を選びながら、絃一郎は口を開く。


「確かに、最初の理由はそうでしたけど……今はそれだけじゃなくて。先輩が気持ち良く歌えるように、先輩の力になれるように、って思って伴奏をやってます。それに、俺の伴奏なら歌えるって聞いたら尚更です」


 それを聞いた永海が、きょとんとした表情になる。


 絃一郎は、やっぱり伝わっていなかったか、と苦笑いした。それから、右手で永海の手を握り、どこか宣言するような口振りで言う。


「だから、俺に伴奏任せてください。ま、まだ上手くはないので、それについてはこれから頑張りますけど……。せめて、先輩の耳が人の心の音を聞かなくなる方法が見つかるまではやりますから」


 スゥ、と永海が息を呑む音が聞こえた。


「……あるのかな。そんな方法」

「探せばありますよ。俺だって、もう千尋先生に会えないかもと思ってましたけど、永海先輩のおかげで側にいるって分かったんですから」

「そうかな」

「そうです」

「ふふ、そっか」


 力強くうなずきを返した絃一郎に、永海は柔らかく微笑む。と同時に、握った手が優しく握り返された。


「じゃあ、これからも伴奏でいてくれる?」

「はい、もちろんです」


 そう答えた直後、何かを思い出したのか、永海がハッと目を丸くする。その瞳はみるみるうちに輝きを増し、握ったままの手が揺れて。仕舞いには弾けるように手を離し、その一刺し指が勢い良く部屋の反対側を差した。


 その先にあったのは、一台の電子ピアノ。冬休みの間、絃一郎がお世話になっていたピアノだ。


「そうだ、寺方くん! 今度新しく始める曲があるんだけど、伴奏してみない? リズムは弾んでて軽やかなんだけど、メロディの響きは荘厳さを感じさせる美しさがあって、そのギャップが癖になる曲なんだけど」

「あの、せめて、定期演奏会終わってからでもいいですかね?」

「……そうだったね」


 途端、仏頂面に戻り、小声で「頑張ってね」という永海。そのしぼみみっぷりに、絃一郎は遠慮もなく声を上げて笑ってしまう。


 どんなことがあっても、声楽オバケは相変わらずのようだ。きっと新しく伴奏を始めたら、もっと勢いを増していくのだろう。


 絃一郎は、それが楽しみで仕方がなかった。

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