第25話

 夕日によってあかね色の絵が描かれている床。


 そのまぶしさに負けてしまっている天井の蛍光灯。


 壁には練習室の扉がズラリと並んでいて、そのガラス窓からは生徒達が真剣に演奏している様子がうかがえる。


 この一ヶ月ですっかり日常になった、いつも通りの音楽棟の風景だ。


 今までいなかった人が急に現われるだとか、不自然な人影やモヤが見えるだとか、そういった幽霊のような姿はどこにも無い。


 変わらない景色に絃一郎が首をかしげたところで、丁度歌も終わり、永海がこちらを向く。


「どう? 何か見えた?」

「うーん……特に何も……」

「そっか。まぁ、そう簡単にはいかないよね」


 淡々と言ってうなずくと、永海は視線をどこか遠くへとらした。

 つられて絃一郎も、もう一度辺りを見回す。


 見えなかったとなると、ここに「物取り幽霊」はいないのだろうか。


 見えるとすれば、いつだろう。もし幽霊が現れてくれれば――盗難が起きた現場に駆けつけられれば、見えそうなものだが。


 いやいや、なんて物騒なことを。


 浮かんでしまった考えに、慌てて頭を横に振る。幽霊は見たいが、盗難はもう起きてほしくない。


 そもそも、犯人が「物取り幽霊」だと決まった訳ではないのだ。そうであってほしくはないが、犯人が人間である可能性も考えなければならない。


 永海の言った通り、犯人を見つけるのは簡単にはいかないだろう。


 そこまで考えて、気を取り直した絃一郎は、先程渡された練習室の鍵を取り出した。


「じゃあ、次は練習室に行ってみますか?」

「……そうしようか」


 たずねると、やや間があった後にゆったりとうなずく永海。


 それを見て、絃一郎は小さな違和感を覚えた。


 思えば、さっき廊下に立っていた時もそうだった。……なんとなく、心ここにあらずで、反応がにぶいような。


 永海の視線の先を追えば、そこには練習室の扉が一つ。少し距離があって中の様子を見ることは出来ないが、うっすらとピアノの音が小さく聞こえてくる。


 どうやら永海の意識は、その音に向けられているらしい。


 じっと見つめる視線は、一歩踏み出した後もそのままで。

 二歩目を踏み出したところで、ようやくこれから向かう階段へと移る。


 そうして、名残惜しそうにその場を離れる永海。それに絃一郎も続き、連れ立って練習室へと向かう。


 すると、階段を登り始めたところで、ものすごい勢いで上から足音が駆け降りてきた。


 思わず足を止めた二人の前に現れたのは。


「えっ、ながみんとテラちゃんじゃん!」

「お疲れ様です、高宮先輩」


 足音の正体は、息を弾ませる高宮だった。


「あーっ、二人揃ってるなんてレアなのになぁ! 突撃インタビュアーちゃんになりたいのは山々なんだけど、伴奏の子待たせてるの! じゃあね!」

「あ、あぁ……お気をつけて……?」


 そうまくし立てながら、嵐のように隣を通っていく高宮。手には楽譜らしき何枚もの紙を持っていて、一段下りる度にバサバサと音を立てている。


 そういえば、高宮とは昨日もすれ違った。「アタシのチームは地方大会に進めなかった」と言っていたから、次へ向けた新しい曲の練習が始まって忙しくしているのだろう。


 なんて思いながら、その背中が入って行った練習室の扉をながめていると、同じ扉を永海も見つめていることに気が付いた。しばらくして、そこから高宮の歌声がうっすらと聞こえてくる。


 それを初めて聞いた絃一郎は、息をんだ。


 芯の通った、どっしりとした力強い声。どこまでも伸びていきそうな、綺麗なビブラート。話す時の、明るくて可愛らしい印象とは全く違う声だ。


「すごい……高宮先輩って、こんなにパワフルな声なんですね」


 絃一郎が、全身に鳥肌を立てたまま、胸の震わせた驚きのままにつぶやく。


 永海は何も言わなかった。


 珍しいな。声楽の話なのに、永海がこんなに静かだなんて。そう不思議に思いながら、隣を見れば。


 下くちびるを噛んで、曲げられた口元。眉間みけんに寄ったしわ


 そこにあったのは、苦しげに歪められた永海の顔だった。


 見たことの無い表情に、絃一郎は心臓を跳ねさせながらも、咄嗟とっさに声をかける。


「先輩? どうかされましたか?」

「……あぁ、うん。行こうか」


 途端とたん、永海は表情をさっと引っ込めてしまった。そして、何事も無かったかのように階段を上っていく。


 一体どうしたのだろう。

 音楽棟に来てからずっと、永海はいつもの調子ではないように見える。


 絃一郎には、永海の考えていることが全く分からなかった。


 普段は表情がとぼしい代わりに、思ったことはハッキリと言葉や歌に出してくれていたので、今までこんなことは無かったのだが。


 何か考え事をしているのだろうか。箏爪ことづめを探すため、また何か策をめぐらせているとか。あるいは、これから向かう練習室で過ごしていた、昨日のことを思い出しているのかも。……だとしても、あの表情は何だったのだろう?


 絃一郎は気になって仕方がなかったが、どうたずねようか迷っている間にも、永海は階段の先へとどんどん進んでいってしまう。


 考えていることが何であれ、永海は一緒に箏爪を探してくれているのだ。ならば、自分も箏爪探しに集中しなければ。


 そう自分に言い聞かせた絃一郎は、胸の内に疑問を残しながらも、先を行く背中を追いかけた。




 二一〇の練習室に着いた後も、永海の様子は変わらなかった。


 絃一郎が鍵を開けて中に入っても、廊下に立ったままぼんやりとしていたり。かばんを置いたところで様子をうかがうと、小さく眉を寄せて悩ましげな表情をしていたり。


 やっぱり、様子がおかしい。


 そう確信した絃一郎がたずねようとすると。


「ちょっと、外出てるね」

「あ、あの……!」


 永海はそれだけ言い残すと、たずねる隙を与えないまま、足早に練習室を出て行ってしまった。


 引き留めようとした絃一郎だったが、扉のドアレバーを握ったところで思いとどまる。


 永海が何を考えているのか、絃一郎には分からない。

 それでも、箏爪を探すために動いてくれていることくらいは流石に分かる。ならば、引き留める必要は無いと思ったのだ。


 もしかすると、昨日のことを思い出して、別の場所に心当たりがあったのかもしれない。だとすれば尚更なおさらだ。絃一郎が確信した違和感については、永海が戻ってきたらたずねればいい。


「……よし」


 気持ちを切り替えるように、小さくつぶやく。


 ドアレバーから手を離した絃一郎は、グランドピアノがすっぽりと収まった小さな部屋の中をぐるりと見渡した。


 箏爪の無くしてしまった可能性が一番高いのは、この練習室だ。


 昨日、絃一郎は練習時間のほとんどをこの場所で過ごしている。もし絃一郎の不注意で落としてしまったのだとすれば、箏爪はここにあるはずだ。


 勿論、盗難事件の犯人によって持ち去られた可能性もあるので、絶対にここだとは言い切れない。せめて、その手掛かりになるようなものがあればいいのだが。


 そんな不安を覚えながらも、絃一郎は手始めにピアノの周りから探してみることにした。




 ――結局、箏爪は見つからなかった。


 そもそも、小さな部屋である上に、置かれているのはピアノと椅子と譜面台くらいなものだ。探せる場所はそう多くはない。


 だが、どこを探しても。何度探しても。絃一郎の箏爪を入れたがま口が見つかることは、最後までなかった。


「はぁ……駄目かぁ……」


 小さな部屋の中で一人、絃一郎は立ち尽くす。


 これ以上、この部屋で探せる場所は無いだろう。


 そんな諦めかけた気持ちで、ふと練習室の小窓に視線を向ける。


 ブラインドの隙間から見えるのは黒一色だけ。いつの間にか、すっかり日が沈んでいたらしい。


 そこで絃一郎はようやく、心当たりを探すには十分すぎる時間が過ぎていることに気が付く。


 途端、息の根が止まるような心地がした。


 ――永海が戻って来ない。


 嫌な予感がした。


 後回しにしてしまった違和感がムクムクと膨らんできて、ギュッと胸が締め付けられる。その痛みにも似たやるせない思いが後悔であると気が付くのに、そう時間はかからない。


 絃一郎は、スラックスのポケットに入っていたスマートフォンを引っ掴むと、すぐさまメッセージアプリを起動する。文面を考える余裕もなく、ただ『今どこですか』とだけ打ち込んで、永海へ送る。


 が、数秒の間の後、部屋の中から無機質な通知音が聞こえた。ハッとして見れば、そこには、永海が置いていった楽譜の入ったファイルと小さなかばんが一つ。……頼むから携帯しておいてほしい。


 こうなったら、永海を探しに行くしかない。


 手にしたスマートフォンをポケットへ突っ込んだ絃一郎は、二人分の荷物が置かれたままの練習室から出て鍵をかけると、一目散に駆け出した。

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