第26話
二階の廊下には誰もいなかった。
辺りにあるのは、練習室から
そんなことを考えながら廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしで駆け降りる。
一階の廊下を見渡すと、やはり誰もいない。
と思ったのは一瞬で、すぐに早合点だったと気が付く。
立ち並ぶ練習室の扉。その先にある廊下の突き当たりは左右に分かれていて、右には音楽室や職員室があり、左はエントランスへと続いている。
丁度その廊下が分かれる場所、壁際に、小さく丸くなった人の姿が見えた。誰かが
癖のない真っ直ぐな黒髪。丸まったジャージ姿の背中。上履きには、青色のライン。
まさか、と思うと同時に、その人が壁に
起き上がって顔が見えた瞬間、絃一郎は悲鳴じみた声を上げた。
「永海先輩っ!」
慌てて駆け寄り、今にも倒れそうな肩を支える。
すると、ハッと驚いたように永海が顔を上げた。蛍光灯に照らされたその顔は真っ青で、生気を感じない。
「だ、大丈夫ですか?!」
「寺方くん……」
呼びかけると、いつもより
その時、眉間に寄った
「先輩、どこか具合が悪いんですか? もしかして、今日様子がおかしかったのも、体調が悪かったからなんじゃ……あぁ、それなら、早く保健室に……つ!」
永海は、小さく首を横へ振った。
「後でいい。それより……今、盗難が起きてる」
「……え?」
耳を疑った。
盗難が起きている?
起こった、ではなく、今まさに起きているというのか。
その意味を理解しかねて、絃一郎が首を
「それは、どういう……?」
と、その時。
どこか遠くから、悲鳴が聞こえた。
立て続けに言い合うような声が聞こえてきて、練習室から聞こえる音だけしかなかった廊下が
声が聞こえるのは、階段から。正確には、その先の二階からだ。
どちらともなく、絃一郎と永海は顔を見合わせた。すると、ガチャッと乱暴に扉を開ける音がして、二人の耳にまではっきりと声が飛んでくる。
「……――無いの! さっきまであったのに!」
苛立ちを込めた言葉に、絃一郎は「物が無くなった」と騒ぎになっている――今まさに盗難が発覚したのだと理解した。
それは永海にも聞こえていたのだろう。小さく舌打ちの音がしたかと思えば、ふらついた足取りで永海が歩き出す。声の元へ行こうとしているのだ、と気付いた絃一郎も慌てて駆け寄り、その肩を支える。
階段を上り、二階へ着くと、廊下には何人かの生徒が集まっていた。
彼らの視線の先にあるのは、廊下の中ほど、絃一郎がいた二一〇の三つ手前の練習室。遠くからでも、あそこが盗難があった現場なのだろうと一目で分かる。
人だかりを
「寺方くん。今から、歌うから……もし何か見えたら、後を追いかけてくれないか」
「! ……分かりました」
永海の声は今にも消えてしまいそうだった。それでも、言葉には確かに力が込められていて、絃一郎は気圧されるようにうなずく。
それを見て、永海が
♪Vide 'o mare quant’è bello,
spira tantu sentimento,
Comme tu a chi tiene mente,
Ca scetato 'o fai sunnà.
低く、語りかけるような優しさがありながら、どこか寂しさも感じさせるメロディ。
永海の肩を支え、その口元に耳が近付いていなければ、聞こえなかったかもしれない。
廊下に満ちる騒がしさによってかき消されそうな、細く
今度こそ、何か見えるだろうか。
と、視線を
それは、人――体に隠れて見えないはずの床や壁が薄く透けて見える、半透明の黒い人影だった。
♪Guarda gua' chistu ciardino;
Siente, sie’ sti ciur' arance:
Nu prufumo accussi fino
Dinto 'o core se ne va…
寂しげだったメロディが高く明るくなり、花が
影は、ギョッとする絃一郎の横を通ると、真っ直ぐに練習室の方へと向かっていった。行き先は、集まった生徒達の中、盗難が起きた部屋だ。だが、彼らには見えていないのか、誰も気にする様子は無い。
その光景に、絃一郎は震える声で言う。
「あ、あのっ……見えました、影が……!」
まさか、あれが「物取り幽霊」か。
後を追いかけなければ。
だが、こんな状態の永海を歩かせる訳には。そう思って隣を見れば、永海は歌うことを止めずに、こちらを見て小さくうなずいた。一緒に行こう、ということなのだろう。
その辛そうに寄せられた眉間の皺に心が痛むのを感じながらも、絃一郎は永海の手を引いて一歩踏み出――そうとして、
部屋へ入っていった影が、廊下に飛び出てきたのだ。まるで、何かを持ち出したように。
♪E tu dice: "I’ parto, addio!"
T’alluntane da stu core…
Da sta terra del l’ammore…
Tieni 'o core 'e nun turnà?
熱を帯びるように、少しずつ高くなっていく音。その温かかったメロディが、切なげな音色になったかと思えば、また低く語りかけるような寂しいメロディへと戻ってくる。
廊下に出て、こちらへ引き返してきた影は、絃一郎の目の前を通り過ぎ、そのまま廊下の反対側へと走っていく。
その横切る一瞬、絃一郎の目には、影の後頭部で小さなお団子が揺れているように見えた。
影が向かったのは、練習室の無い、絃一郎がまだ足を踏み入れたことのない廊下だった。この先に何があるのだろう。そんな不安が頭を過ぎる。
それでも「物取り幽霊」を追いかけたい一心で、永海を支えながら、影の後ろをついて行く。
影は、しばらく廊下を進んだところで、ある一室の扉をすり抜けて中へと入っていった。その扉の上にあったのは「第二ソルフェージュ室」と書かれた看板だった。
♪Ma nun me lassà,
Nun darme stu turmiento!
Torna a Surriento,
Famme campà!
永海の歌声が、聞き覚えのあるメロディになる。
この歌、以前歌っていた『
だが、きっと「返して欲しい」という思いを込めて歌ってくれているのだろう。他でもない、「音にはその人の思いが込められている」と言っていた永海が。そう思うと、頼もしく感じる。
影が消えていったソルフェージュ室の前までやってきた絃一郎は、扉についたガラス窓をおずおずと覗き込む。
日も落ち、電気もついていない部屋は、当然真っ暗である。だが、窓の外から差し込む街灯の光が、うっすらと部屋の中を照らしてくれていた。
薄明かりの中に立つ、暗闇よりも更に濃い黒色をした影。
その頭部が辺りを確かめるように左右へ動くと、やがて早足で部屋の奥へと進んでいく。
そうして一番奥まで行ったところで、影は立ち止まり、何の前触れもなくフッと消えてしまった。
「き、消えた……?」
「……じゃあ、ここだね」
思わずつぶやいた絃一郎の言葉を聞き、永海が歌うのを止める。
扉を開けようと、ドアレバーに手をかける永海。が、防音室の扉は力の入らない手には重かったようで、レバーが下がらない。
それ見た絃一郎は、上から手を重ねるようにしてレバーを下げ、一緒にドアを押し開けた。
中に入って電気をつけると、暗くて見えなかった部屋の様子が
影が消えた場所にあったのは、一台のグランドピアノだった。
胴体部分の大きな
絃一郎がここで影が消えたことを伝えると、永海は何か思いついたのか、ハッとした表情でピアノに歩み寄った。
「寺方くん。このピアノの屋根、開けてみようか」
そう言って、永海が大きな蓋をノックするように叩いてみせる。
「ま、まさか」
「うん。多分あるよ、ここに」
息を
それから二人で、ピアノの上に置かれていたものを手近な机に移して、掛けられたカバーを外して。そうして、艶やかな黒い表面が露わになったところで、絃一郎が大きく重い蓋をそっと持ち上げる。
現れたのは――。
「あ……――あった!」
独特のカーブを描いた形の中に収まった、大きな金色のフレーム。細かな銀色の部品。いくつも並んだ弦とハンマー。
そこにある
「ありましたよ! 永海先輩!」
がま口を、その中にある
「そっか。良かっ――」
「先輩!!」
そこで、永海は力尽きたように膝をついてしまった。
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