第26話

 二階の廊下には誰もいなかった。


 辺りにあるのは、練習室かられ出てくる歌声や楽器の音ばかり。放課後も残り三〇分といった頃だ、部員達はみんな練習室か音楽室の中で練習に励んでいるのだろう。出歩いている人を見かけないのも当然か。


 そんなことを考えながら廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしで駆け降りる。


 一階の廊下を見渡すと、やはり誰もいない。


 と思ったのは一瞬で、すぐに早合点だったと気が付く。


 立ち並ぶ練習室の扉。その先にある廊下の突き当たりは左右に分かれていて、右には音楽室や職員室があり、左はエントランスへと続いている。


 丁度その廊下が分かれる場所、壁際に、小さく丸くなった人の姿が見えた。誰かがうずくまっているのだ。


 癖のない真っ直ぐな黒髪。丸まったジャージ姿の背中。上履きには、青色のライン。


 まさか、と思うと同時に、その人が壁にすがりながらヨロヨロと立ち上がる。


 起き上がって顔が見えた瞬間、絃一郎は悲鳴じみた声を上げた。


「永海先輩っ!」


 慌てて駆け寄り、今にも倒れそうな肩を支える。

 すると、ハッと驚いたように永海が顔を上げた。蛍光灯に照らされたその顔は真っ青で、生気を感じない。


「だ、大丈夫ですか?!」

「寺方くん……」


 呼びかけると、いつもよりかすれた、弱々しい声で名前を呼ばれる。

 その時、眉間に寄ったしわが少しだけ和らいだようにも見えたが、そんな声で呼ばれてしまえばますます不安になるばかりで。


「先輩、どこか具合が悪いんですか? もしかして、今日様子がおかしかったのも、体調が悪かったからなんじゃ……あぁ、それなら、早く保健室に……つ!」


 狼狽うろたえる絃一郎の右手を、永海が握った。それが人肌とは思えないほど冷たく、力もいつか握られた時よりもずっと弱くて、絃一郎は口をつぐんでしまう。


 永海は、小さく首を横へ振った。


「後でいい。それより……今、盗難が起きてる」

「……え?」


 耳を疑った。


 盗難が起きている?

 起こった、ではなく、今まさに起きているというのか。


 その意味を理解しかねて、絃一郎が首をかしげる。


「それは、どういう……?」


 と、その時。


 どこか遠くから、悲鳴が聞こえた。


 立て続けに言い合うような声が聞こえてきて、練習室から聞こえる音だけしかなかった廊下がにわかに騒がしくなる。


 声が聞こえるのは、階段から。正確には、その先の二階からだ。


 どちらともなく、絃一郎と永海は顔を見合わせた。すると、ガチャッと乱暴に扉を開ける音がして、二人の耳にまではっきりと声が飛んでくる。


「……――無いの! さっきまであったのに!」


 苛立ちを込めた言葉に、絃一郎は「物が無くなった」と騒ぎになっている――今まさに盗難が発覚したのだと理解した。


 それは永海にも聞こえていたのだろう。小さく舌打ちの音がしたかと思えば、ふらついた足取りで永海が歩き出す。声の元へ行こうとしているのだ、と気付いた絃一郎も慌てて駆け寄り、その肩を支える。


 階段を上り、二階へ着くと、廊下には何人かの生徒が集まっていた。


 彼らの視線の先にあるのは、廊下の中ほど、絃一郎がいた二一〇の三つ手前の練習室。遠くからでも、あそこが盗難があった現場なのだろうと一目で分かる。


 人だかりを一瞥いちべつして、永海が言う。


「寺方くん。今から、歌うから……もし何か見えたら、後を追いかけてくれないか」

「! ……分かりました」


 永海の声は今にも消えてしまいそうだった。それでも、言葉には確かに力が込められていて、絃一郎は気圧されるようにうなずく。


 それを見て、永海がくちびるを震わせながら歌い始めた。



 ♪Vide 'o mare quant’è bello,

  spira tantu sentimento,

  Comme tu a chi tiene mente,

  Ca scetato 'o fai sunnà.



 低く、語りかけるような優しさがありながら、どこか寂しさも感じさせるメロディ。


 永海の肩を支え、その口元に耳が近付いていなければ、聞こえなかったかもしれない。

 廊下に満ちる騒がしさによってかき消されそうな、細くかすれた小さな声へじっと耳をませる。


 今度こそ、何か見えるだろうか。


 と、視線をめぐらせた瞬間、絃一郎の頬にかすかな風が当たる。自分のすぐ隣を、何かが走り抜けていく。


 それは、人――体に隠れて見えないはずの床や壁が薄く透けて見える、半透明の黒い人影だった。



 ♪Guarda gua' chistu ciardino;

  Siente, sie’ sti ciur' arance:

  Nu prufumo accussi fino

  Dinto 'o core se ne va…



 寂しげだったメロディが高く明るくなり、花がほころぶような温かい響きへと変わる。


 影は、ギョッとする絃一郎の横を通ると、真っ直ぐに練習室の方へと向かっていった。行き先は、集まった生徒達の中、盗難が起きた部屋だ。だが、彼らには見えていないのか、誰も気にする様子は無い。


 その光景に、絃一郎は震える声で言う。


「あ、あのっ……見えました、影が……!」


 まさか、あれが「物取り幽霊」か。


 後を追いかけなければ。


 だが、こんな状態の永海を歩かせる訳には。そう思って隣を見れば、永海は歌うことを止めずに、こちらを見て小さくうなずいた。一緒に行こう、ということなのだろう。


 その辛そうに寄せられた眉間の皺に心が痛むのを感じながらも、絃一郎は永海の手を引いて一歩踏み出――そうとして、咄嗟とっさに足を止めた。


 部屋へ入っていった影が、廊下に飛び出てきたのだ。まるで、何かを持ち出したように。



 ♪E tu dice: "I’ parto, addio!"

  T’alluntane da stu core…

  Da sta terra del l’ammore…

  Tieni 'o core 'e nun turnà?



 熱を帯びるように、少しずつ高くなっていく音。その温かかったメロディが、切なげな音色になったかと思えば、また低く語りかけるような寂しいメロディへと戻ってくる。


 廊下に出て、こちらへ引き返してきた影は、絃一郎の目の前を通り過ぎ、そのまま廊下の反対側へと走っていく。


 その横切る一瞬、絃一郎の目には、影の後頭部で小さなお団子が揺れているように見えた。


 影が向かったのは、練習室の無い、絃一郎がまだ足を踏み入れたことのない廊下だった。この先に何があるのだろう。そんな不安が頭を過ぎる。


 それでも「物取り幽霊」を追いかけたい一心で、永海を支えながら、影の後ろをついて行く。


 影は、しばらく廊下を進んだところで、ある一室の扉をすり抜けて中へと入っていった。その扉の上にあったのは「第二ソルフェージュ室」と書かれた看板だった。



 ♪Ma nun me lassà,

  Nun darme stu turmiento!

  Torna a Surriento,

  Famme campà!



 永海の歌声が、聞き覚えのあるメロディになる。


 この歌、以前歌っていた『Torna aトルナ Surrientoソッリエント』だったのか。み渡った響きは欠片も感じられず、信じられないほど弱々しくなっている。


 だが、きっと「返して欲しい」という思いを込めて歌ってくれているのだろう。他でもない、「音にはその人の思いが込められている」と言っていた永海が。そう思うと、頼もしく感じる。


 影が消えていったソルフェージュ室の前までやってきた絃一郎は、扉についたガラス窓をおずおずと覗き込む。


 日も落ち、電気もついていない部屋は、当然真っ暗である。だが、窓の外から差し込む街灯の光が、うっすらと部屋の中を照らしてくれていた。


 薄明かりの中に立つ、暗闇よりも更に濃い黒色をした影。


 その頭部が辺りを確かめるように左右へ動くと、やがて早足で部屋の奥へと進んでいく。


 そうして一番奥まで行ったところで、影は立ち止まり、何の前触れもなくフッと消えてしまった。


「き、消えた……?」

「……じゃあ、ここだね」


 思わずつぶやいた絃一郎の言葉を聞き、永海が歌うのを止める。


 扉を開けようと、ドアレバーに手をかける永海。が、防音室の扉は力の入らない手には重かったようで、レバーが下がらない。

 それ見た絃一郎は、上から手を重ねるようにしてレバーを下げ、一緒にドアを押し開けた。


 中に入って電気をつけると、暗くて見えなかった部屋の様子があらわになる。


 影が消えた場所にあったのは、一台のグランドピアノだった。


 胴体部分の大きなふたも、鍵盤の蓋も閉じられ、全体をおおい隠すように灰色の布のカバーが掛けられている。その上に置かれているのは、教科書らしい何冊かの本やメトロノーム。普段は演奏のためではなく、音楽の授業のために使われているのだろう。


 絃一郎がここで影が消えたことを伝えると、永海は何か思いついたのか、ハッとした表情でピアノに歩み寄った。


「寺方くん。このピアノの屋根、開けてみようか」


 そう言って、永海が大きな蓋をノックするように叩いてみせる。


「ま、まさか」

「うん。多分あるよ、ここに」


 息をむ絃一郎に、力強くうなずきを返す永海。


 それから二人で、ピアノの上に置かれていたものを手近な机に移して、掛けられたカバーを外して。そうして、艶やかな黒い表面が露わになったところで、絃一郎が大きく重い蓋をそっと持ち上げる。


 現れたのは――。


「あ……――あった!」


 独特のカーブを描いた形の中に収まった、大きな金色のフレーム。細かな銀色の部品。いくつも並んだ弦とハンマー。


 そこにあるわずかな空間、カーブした部分のフレームの上に、様々な小物類が――見覚えあるがま口が置かれていた。


「ありましたよ! 永海先輩!」


 がま口を、その中にある箏爪ことづめをギュッと片手で握り締め、絃一郎が顔を上げる。


「そっか。良かっ――」

「先輩!!」


 そこで、永海は力尽きたように膝をついてしまった。

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