第24話

 その日の授業が終わり、放課後の始まりを告げるチャイムが鳴る。


 ひとまず職員室で遺失物いしつぶつ届けの提出を済ませた絃一郎は、はやる気持ちを抑え、伝統芸能棟へと向かっていた。


 本当なら、今すぐにでも音楽棟に行って箏爪ことづめを探したい。だが、定期演奏会がせまる今、箏曲部の合奏練習を欠席する訳にもいかない。


 部室である邦楽ほうがく室へ到着し、集まっていた部員達に事情を話す。


 が、その顔は余程ひどかったらしい。

 一ノ瀬には「そんなに落ち込むなよ!」と背中を叩かれ。

 同級生達は「大丈夫、すぐ見つかるよ」「絃ちゃんならどんな箏爪でも弾けるって」と口々に声をかけてくれて。


 おかげで絃一郎は、また目尻に涙を溜めながら話すことになってしまった。


 それから萩原が予備の箏爪を出してくれたので、代わりとして使えそうなものを選ぶ。


 するとそこで、絃一郎のポケットの中でスマートフォンが震えた。


 見れば、永海からのメッセージを知らせる通知で。


『これから音楽棟に来れる?』

『試したいことがある』


 たった二行の短い言葉。


 何を、とは書かれていなかったが、それだけで理解する。どうやら、箏爪を探すための策があるらしい。


 絃一郎は心が浮き立つのを感じたが、いや待て、とすぐに思い直した。もうすぐ箏曲部の練習が始まってしまう。音楽棟に行っている時間は無い。


 そう考えながらスマートフォンを見ていると、萩原が横から声をかけてくる。


「何か連絡?」

「はい。永海先輩が、今から音楽棟に来れないかって。多分、一緒に箏爪を探そうってことだと思うんですけど」

「行ってきたら?」

「えっ」


 思わぬ提案に、絃一郎は顔を上げた。


「で、でも、合奏練習が」

「今日はパート練習にしておくから。……というか、そんな状態で練習しても身が入らないでしょう」


 萩原は呆れたような口振りで言った。厳しい物言いだが、これが彼女なりの気遣いであることを、入部してからずっと練習を共にしてきた絃一郎は知っている。


 途端とたん、絃一郎はパッと頬をほころばせた。


「あ、ありがとうございます!」

「ん。箏爪、見つかるといいね」


 ペコリと下がった頭を見て、萩原が珍しく柔らかな笑みを浮かべる。


 そうして絃一郎は、箏曲部の部員達に背中を押され、伝統芸能棟を飛び出した。




 息を切らしたまま、音楽棟の入り口のガラス扉を開け放つ。


 エントランスには、どこからかれ聞こえてくる楽器の音や歌声が響いている。

 だが、絃一郎にはほとんど聞こえていなかった。聞こえるのは、自分の胸の中で鳴る、酷使こくししてしまった心臓が跳ねる音ばかり。


 荒い呼吸を落ち着けながら、辺りを見回す。


 誰もいない、エントランスから続く広い廊下。以前見た時と変わらない、大きく『注意!』と書かれたホワイトボードの貼り紙。


 永海の姿は、どこにも無かった。


 声楽部の基礎練習はとっくに終わっている時間だ。ここへ来ることはメッセージでも伝えてある。だから、きっと永海がどこかで待ってくれていると思っていたのだが。


 不思議に思いながらも、音楽棟の奥へと足を進める。


 箏爪を探すならば、まずは昨日訪れた場所を見て回りたい。


 二階の廊下の奥にある、二一〇の練習室。

 それから、そこへ行くまでの廊下や階段。


 絃一郎の胸には、箏爪は盗難されてしまったのだという諦めにも似た思いが重くのしかかっている。


 だが同時に、それを跳ね返すような、希望にすがるような思いも確かに存在していた。自分の不注意で落としてしまったのではないか――音楽棟を探せば見つかるのではないか、という思いだ。


 そのせいか、通っただけの場所でさえ「ここで落としたのでは」と疑ってしまって、つい床をまじまじと見つめながら歩いてしまう。


 すると、練習室の扉が並ぶ廊下へと進んだところで、ようやく探していた人の姿を見つけた。


「……」


 絃一郎は、話しかけるのを躊躇ためらった。


 沈みかけた夕日に照らされ、強烈なあかね色が斜めに差し込んでいる床。その影となって暗く見える場所、廊下の真ん中の辺りで、永海は一人ポツンと立っている。


 何もせず、鼻歌も歌わず、ただ静かに。

 少しあごを上げ、目を閉じている姿は、神経をませているようにも、練習室から聞こえてくる音に耳をかたむけているようにも思える。話しかけたら最後、その集中の糸をプツリと切ってしまいそうだった。


 そうして絃一郎が立ち尽くしていると、やがて閉じていたまぶたがゆっくりと開き、ぼんやりとした視線がこちらを向く。


「……あぁ、来たね」


 永海は、驚いた様子も無く、淡々と言った。それから一度、前髪を払うように首を振って、絃一郎の方へと歩いてくる。


 まるで、夢から覚めたかのようだった。


「永海先輩、今、何を……?」

「ちょっとね。とりあえず、これは寺方くんが持ってて」


 質問には知らん顔をして、ジャージのポケットに手を突っ込む永海。


 そこから出てきたのは、練習室の鍵だった。


 書かれた番号は、二一〇。最近の定位置である、昨日も使った部屋の鍵だ。


 手渡されて初めて、絃一郎は自分が鍵を借りずここまで来たことに気が付いた。


 箏爪を探さなければとばかり考えていて、すっかり忘れていた。二一〇の練習室を見に行こうにも、職員室で鍵を借りてこなければ部屋には入れないのに。


 永海が借りておいてくれて良かった、とひそかに胸をで下ろしながら、絃一郎は鍵を受け取る。


「すみません、借りておいてくれたんですね。ありがとうございます」

「うん。でも、行く前に一つ試したいことがある」


 そう言うと、永海が右手の人差し指を一本立ててみせる。


 絃一郎はすぐに思い至った。


 メッセージで言っていた、箏爪を探すための策だ。


「これは、箏爪を盗んだのが『物取り幽霊』だっていう前提で提案するんだけど」

「はい」

「僕の歌と寺方くんの目で、犯人見つけられるんじゃない?」

「はっ……!」


 見開いた目も、大きく息を吸い込んだ口も開けたまま、ポンと手のひらを打つ。


 永海の歌を聴くと、絃一郎の目には幽霊が見えるようになる。

 それを上手く使えば、噂になっている「物取り幽霊」を見つけられるかも知れない、ということか。


 絃一郎にとって、幽霊は見ようと思っても見えるものではなかったし、会いたいと思っても会えないものだった。

 だから、幽霊を見つけようなんて考えもしなかった。


 だが、今は違う。


 永海が歌ってくれさえすれば、幽霊が見える。幽霊を見つけることが出来る。


 途端とたん、期待に心がき立つのを感じて、絃一郎はたまらず握り拳を作った。


「やりましょう! 永海先輩、歌ってみてください!」

「……寺方くん、意外と乗り気だね? もっと怖がるかと思ったんだけど」

「こ、こわ……っ!」


 永海が心底不思議そうに言うので、絃一郎はまたあの時の悪寒を思い出してしまう。練習室のガラス窓に不気味な黒い影が貼り付いていた時の、恐怖で体が凍えてしまう感覚だ。


 確かに、永海の歌によって見えたその幽霊は恐ろしい姿をしていたが、それは今言わないで欲しい。


「そりゃあ幽霊は怖いですけど! ……それでも、犯人が見つかるかもしれないなら、やらない手はないじゃないですか」


 口をとがらせて言えば、どこかいじけたような口振りになってしまう。

 そんな絃一郎を見て、永海は小さな笑みをこぼした。


「ふふ、そう。じゃあやろうか」



 ♪Ma nun me lassà,

  Nun darme stu turmiento!

  Torna a Surriento,

  Famme campà!



 柔らかく、優しい永海の声。


 ゆったりとした温かみのあるフレーズの後、どこか切なげな音色で終わるメロディ。


 昨日の帰り道で歌っていた、あの曲だ。確か、曲名は『Torna aトルナ Surrientoソッリエント』。


 並んだ扉かられ聞こえてくる音とそう変わらない、小さく口ずさむような声だった。それでも、んだ響きが音の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていて、一つ一つの言葉がはっきりと耳まで届いてくる。


 絃一郎は、思い出してしまった悪寒のせいで震えそうになる肩を永海に寄せながら、恐る恐る廊下に視線を向けた。

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