第23話
翌日の金曜日。
日課の朝練習を早々に切り上げた絃一郎は、朝のホームルーム前の騒がしい廊下を、人の波をかき分けながら大股で進んでいた。
目的地は、二年F組の教室である。
だが。
「……っ」
教室の扉の前まで来たところで、足がすくんで動けなくなる。
顔の高さにある正方形のガラス窓から見えるのは、顔も名前も知らない先輩達ばかりだった。ここが彼らの教室なので、当然ではあるのだが。
何の考えも無しにここまで来てしまったが、どうしよう。
誰かに
扉を開けたら、きっと教室中の視線を集めてしまう。やってきた余所者を
――いや、そんなことで
そう自分に言い聞かせるが、震える手は扉のくぼみに触れただけで、横には引けずに固まってしまう。
と、その時。
「寺方くん?」
背後から聞こえる、明るくハキハキとした良く通る声。
ビクッと肩を跳ねさせた絃一郎が振りかえると、そこには、部活動を終えたばかりらしい
「み、水谷先輩!」
「こっち来るなんて珍しいね、どうしたの……っていうか、顔色悪くない? 大丈夫?」
「あぁ、えっと……!」
水谷は、絃一郎を見るなり目を丸くして駆け寄ってくる。
知っている人が来てくれた安心と、心配してくれるありがたさ。それから、ここから話さなければならないことへの緊張。
次から次へと
そのくせ涙だけは代わりとばかりに
落ち着け。落ち着いて話さなければ。
ギュッと目をつむり、大きな深呼吸を一つ。それから、絞り出すような声で言う。
「そ、その、実は……――昨日、家に帰ったら、
「! ……うん」
水谷が一瞬ハッとしたが、すぐに真剣な面持ちになってうなずく。
「自分の部屋とか
「うん」
「それで、その……もしかしたら、音楽棟で無くしたかもしれなくて……!」
「うん。そっか。そっかぁ~……!」
声を震わせる絃一郎の話を、何度も首を縦に振りながら聞いていた水谷だったが、そこでついに天を
「本当にすみません! 昨日気をつけてって言われたばっかりなのに!」
「ううん、謝らないで。寺方くんが悪い訳じゃない。確かに自衛を呼びかけてはいるけど、それは被害を減らしたいからで、被害にあった人を
箏爪が無いことに気が付いたのは、昨日の夜。箏爪のメンテナンスをしようと巾着袋を
昨日の放課後、
そうして練習を終えて家に帰って来たら、巾着袋に入れていたはずのがま口が見当たらなくなっていた。
自分の部屋や邦楽室、おほり荘の食堂や通学路に至るまで、落としうる場所は片っ端から探したがどこにも無い。
誰かに拾われて届けられたかもしれない、と淡い期待を抱いて職員室も訪ねてみたがそんな幸運も無く。
残る心当たりは、音楽棟だけだった。
しかも「盗難が起きている」という話を聞いたばかりだ。となれば、箏爪も盗難されてしまったとしか思えなくて、絃一郎は後悔と自責の念で押し潰されてしまいそうだったのだ。
「で、でも……俺がもう少し気を付けてればと思ったら、申し訳なくて……!」
「そんなに気に病まないでよ。こちらこそ、ごめんね。色々対策してはいるんだけど、こうも効果が無いとはなぁ……!」
「何がごめんなの?」
「うわっ?!」
唐突に隣から聞こえてきた声に、絃一郎は声を上げて飛び
見れば、絃一郎の後ろ、肩の横からひょっこりと永海が顔を出していた。
い、いつの間に。今一瞬、心臓が止まったかと。
永海も部活動を終え、教室へやって来たところなのだろう。だが、絃一郎の背がより高いせいか、それとも永海が身を乗り出すようにして
絃一郎と向かい合っていた水谷にはその姿が見えていたようで、一つうなずいただけで平然と言う。
「永海、いいところに来たわね。それが……」
心臓を押さえる絃一郎に代わり、水谷が無くなった箏爪のことを手短に話す。
すると、永海は目を丸くして水谷を見て、それから絃一郎を見て、最後には少し
水谷が腕を組み、悩ましげに言う。
「実は、盗難された物はまだ一つも見つかってないの」
「そうなんですか……」
「うん。毎日見回りしながら近藤くん達と探してるし、先生達も動いてくれてるんだけどね。寺方くんの箏爪も私達で探してみるけど、すぐに見つかるとは言えなくてさ……。あぁ、それに、見つかるまでの間どうするかも問題よね? 無いと練習にならないでしょ?」
「い、いえ。一応、予備の箏爪が部室にあるので、弾けなくは」
「寺方くんの箏爪、
絃一郎の言葉を永海が
いつになく鋭い声と視線に、絃一郎は言いかけた言葉をグッと飲み込む。
「十七絃用の予備はあるの?」
「……いいえ。ありません。
「弾ける?」
「弾け、は……します。けど、やっぱり、納得のいく演奏は出来ないと思います」
「そう」
淡々と言う永海は、相変わらず無表情のままだ。
よく覚えているな、と絃一郎は思った。
以前、永海が伝統芸能棟までやって来た時、絃一郎は自分の弾く十七絃について話している。その中で、箏爪の違いについても説明していたはずだ。
永海の言う通り、絃一郎の爪は十七絃を弾くためのもので、十三絃のものと比べると少しだけ大きく分厚い。
定期演奏会はもうすぐだ。慣れた箏爪で練習出来ないとなると確実に影響が出るし、もし演奏会までに見つからなかったらと思うとゾッとする。
――あぁ、だが、それ以上に恐ろしいのは、このままずっと見つからなかった時だ。
想像するだけで
絃一郎にとって、あの箏爪は代えが利かないものだ。唯一無二の、特別な――。
「――千尋先生から貰った箏爪だったりする?」
ポツリと言ったのは、永海だった。
考えを読まれたかのような言葉に、絃一郎はハッと顔を上げる。
「…………ど、どうして、それを?」
視線がぶつかると、永海は息を
「寺方くんの顔、今までで一番ひどいから。だから、まさかと思ったんだけど……本当に?」
「は、はい。な、なので、だから……もし、無くなっちゃったら……」
「……そう」
もし無くなったら。
その先を口に出すことも出来ない絃一郎を見かねてか、永海は言い終えるのを待たずに首を縦に振る。そして、
それから、一呼吸ほどの
「……うん。僕も手伝うよ、箏爪探し」
顔を上げた永海は、どこか硬い声で言った。
聞いたことのない声だった。
いつもの細くて掠れた、繊細な響きはどこにも無い。喉に詰まった言葉を無理矢理出したような。あるいは、覚悟を決めたような。
絃一郎は思わず永海の顔を見るが、そこに浮かんだ表情からは何の感情も伝わってこなかった。
一方、水谷は大して気に留めなかったようで、溜め息
「助かるよ永海。正直、私達だけじゃ手が回らない部分も多くてさ……」
「だろうね。忙しいでしょ、たにやん。部長だし、チームBだし」
「それは理由にしないけど。……まぁ、余裕が無いのは事実ね」
そんな二人に、絃一郎は戸惑いながらも頭を下げる。
「すみません、ご迷惑をおかけして……」
「別に。寺方くんのために出来ることがあるならやろうって決めたからね。それに」
一度言葉を切ると、永海がそっぽを向いた。
「良い度胸してるな、って思っただけだから」
「えっ」
「うわっ。永海が怒った」
吐き捨てるように言った永海に、絃一郎と水谷は揃って目を丸くした。
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