第22話

 幽霊。


 絃一郎の脳裏に、あの日見た光景が浮かんだ。練習室のガラス窓へ貼り付くようにしてこちらを覗き込む、不気味な黒い影。


 背筋がヒヤリとする。


 結局あの影は、こちらを恐怖に陥れるような亡霊などではなく、伴奏を果たせなかった男子生徒だろうという話だったが。それでも、絃一郎にとって恐ろしい存在であったことには変わりない。


 またあの恐怖が蘇りそうになって、絃一郎は慌てて首を横に振る。


「いえ。盗難が続いてるって話は、聞きましたけど……?」

「そう、それよ。何でも、ただの盗難じゃなくてねぇ……夜な夜な現われる幽霊が、みんなの道具を取ってるんじゃないかって!」

「えぇっ」


 初めは細く弱い声で言い、幽霊の登場に合わせてワッと語気を強めて言う高宮。

 声楽部の肺活量をここで活かさないでほしい。そんな怪談を話すみたいにされたら、ますます怖くなってしまう。


「だって盗難は起きてるのに、誰も見た事がないし、気付きすらしないんだよ。これはもう幽霊の仕業しかないよ!」

「そ、そんなまさかぁ……」


 と言いつつも、絃一郎は内心で「また幽霊が出たのか」と絶望していた。高宮が喜々として話す度に、自分の顔が強張こわばっていくのが分かる。


 不意に高宮が口を閉じ、ニヤリと笑う。


「……んふふ。もしかしてテラちゃん、おばけ怖い?」

「こ、怖くなんかないです!」

「もう、分っかりやすーい!」


 悪戯いたずらが成功した子供のように笑う高宮は、楽しそうに絃一郎の脇腹をつつく。


 小さな悔しさを感じながらも、絃一郎はそれ以上言い返さなかった。口では怖くないと否定したが、説得力のない顔になっている自覚はある。


 そんなビビりっぷりに満足したのか、高宮は笑いを引っ込めるように長く息を吐くと、「よいしょ」と置きっぱなしだった段ボール箱を抱えた。それを見て、絃一郎は音楽室の重い扉を開ける。


「ありがとね~テラちゃん! じゃあまたね!」


 閉まった扉を挟んでもうっすらと届く、高宮の明るい声を背中で聞きながら、ふと気が付く。


 ――随分寄り道してしまったが、大丈夫だろうか。


 慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。そこに表示されている時計を見れば、伝統芸能棟を出てから二十分が過ぎていて。


 絃一郎は、大急ぎで来た道を戻った。




「失礼します」

「待ってたよ、寺方くん」


 ノックだけは忘れずに練習室へ駆け込むと、永海はピアノの前に座って絃一郎を待っていた。


「すみません、お待たせしてしまって」

「うん。待ったけど、寺方くんに非はないよ。楽しみで楽しみで、きっと僕の体感時間が伸びてるだけだから」

「……ちょっと、寄り道をしまして」

「……そうなの?」


 途端とたんわずかに口をヘの字に曲げる永海。


 普段表情がとぼしいせいか、たったそれだけでも悲しげな顔に見えて、絃一郎は慌てて事情を説明した。


 伝統芸能棟を出るのが少し遅くなって、水谷と近藤から盗難に気をつけるよう言われて、高宮の荷物運びを手伝って。


 それを聞いた永海は「そうだったんだ」とだけ言って、いつもの仏頂面に戻った。良かった、機嫌を損ねてはいないようだ。


 永海が席をゆずるように立ち上がり、練習室の真ん中に置かれた譜面台の前へ移動する。その空いた席へ座った絃一郎は、かたわらに置いたかばんから『Caroカロ mioミオ benベン』の楽譜を取り出して、ピアノの譜面台の上に並べた。


 この瞬間の緊張感には、まだ慣れない。鍵盤に置く指やペダルを踏む足が震えることは無くなったが、つい指先をこすり合わせ、爪先を上下に動かしてしまう。


「今日もよろしくね、寺方くん」

「はい、よろしくお願いします」




 体感、三分だった。


 時間はあっという間に過ぎ、永海との伴奏練習はすぐに終わってしまった。実際、以前の半分ほどになっているので、そう感じるのは当然のことなのだが。


 絃一郎としては、不完全燃焼だった。練習したフレーズは納得するまで合わせることが出来なかったし、永海がどう歌っているのか確認したいフレーズもまだ残っていた。

 欲を言えば、永海の歌と自分の奏でるピアノが一つの曲になる、あの鳥肌が立つ感覚をもう少し味わっていたかった。


 そんな物足りなさは、永海も同じだったらしい。

 声楽部の終礼の後も「まだ歌いたい」と譜面台の前を離れなかった永海は、施錠の見回りに来た水谷によって、半ば追い出されるように音楽棟の外へと連行されていた。


 絃一郎は、その後ろを二人分の荷物を持って着いていったのだが、冷たい夜風に吹かれた永海がみるみるうちにしぼんでいく様子を見て、思わず笑ってしまったのだった。


「そうだ、寺方くん。分身するのはどう?」

「出来る訳ないじゃないですか。したいですけど」


 たわいない話をしながら、おほり荘までの帰り道を連れ立って歩く。


 その途中で、ふと絃一郎はたずねる。


「そういえば、永海先輩は物取り幽霊のうわさってご存じですか?」

「あぁ、近藤の地雷だね」

「えっ?」


 永海は表情を変えずにうなずいた。


 近藤といえば、吹奏楽部の部長だ。ホワイトボードの前で腕を組み、絃一郎へ盗難に気をつけるよう言った男子生徒。その地雷とは、どういうことだろう。


「あいつ、その話すると爆発するみたいに怒るんだ。『幽霊なんて有り得ない! 犯人が罪から逃れるために流した、根も葉もない噂だ!』って」

「な、なるほど……」


 それであの時、機嫌が悪そうだったのか。


 納得すると同時に、真面目で正義感のある人なのだろうな、と絃一郎は思った。顔を名前も知らないであろう絃一郎に、音楽棟に出入りしているという理由だけで事情を話し注意してくれたのも、きっとその表れだろう。


 すると、真っ直ぐ前を見ていた永海が、こちらを向いて口を開く。


「近藤の言うことにも一理あるとは思うけど。寺方くんは、そうは思ってないよね」

「……そうですね」


 内心を見透かされたようで、絃一郎は小さくうなずいた。


 幽霊なんて有り得ない、とは思えない。


 六歳の夏に見たもの、そして永海の歌を聞いて見えるものは、絃一郎には「幽霊」としか説明出来ない。百歩ゆずっても「この世に存在しないもの」だ。


 それに、幽霊の存在を否定すれば、千尋のことや、彼女との思い出をも否定してしまうことになる。それだけは絶対にしたくない。


「じゃあ、寺方くんは幽霊の仕業だと思う?」

「うーん、どうでしょう……」


 そう聞かれると、首をひねってしまう。


 断言は出来なかった。幽霊を信じているからといって、犯人が幽霊だと決めつけることは出来ない。

 ようは、今起きている盗難事件の犯人が二択になるだけなのだ。人間の仕業か、幽霊の仕業か。どちらかなんて分かるはずもない。


 それでも、「もし幽霊の仕業だとしたら」と考えた時、胸にモヤモヤとした感情がいてくることだけははっきりと分かった。


「……幽霊かどうかは分からないです。でも、実際に物が無くなっている部員さんがいるので……その人達は、幽霊の仕業だなんて言われても困るというか、納得出来ないというか……」

「だろうね」

「なので、ちゃんと犯人が分かって、無くなった物が持ち主に返ってくればいいなって思います」

「うん。そうだね」


 絃一郎が言葉にしたそのモヤモヤを聞いた永海は、かすかに口角を上げてうなずいた。


 それから、また前へ視線を戻すと、白い息を吐きながら口ずさむ。



 ♪Ma nun me lassà,

  Nun darme stu turmiento!

  Torna a Surriento,

  Famme campà!



 少しうつむきがちに、瞳を閉じて歌う永海。


 さっきまで練習室で聞いていたものとは違う、語りかけるような優しい声。それでもみ渡った響きは健在で、口から出たそばから寒空へ溶けていってしまいそうだった。


 ゆったりとした温かみのあるメロディかと思えば、それはどこか切なげな音色で終わる。そのギャップがやけに耳に残って、絃一郎はたずねた。


「今のは?」

「『Torna aトルナ Surrientoソッリエント』。日本語だと……『帰れソレントへ』だったかな。昔から歌われてるカンツォーネで、ソレントって街から離れる恋人に帰ってきてほしいって曲だよ。盗った物を返してって思ったら、つい歌っちゃった」


 少し早口で、永海が言う。


 それを聞いた絃一郎は、ふと想像する。

 もしかして、温かなメロディは恋人の愛おしさを、切なげなメロディは別れの悲しさを歌っていたのだろうか。発音からして恐らくイタリア語なので、どんな意味の歌詞かは知る由もないのだが。


 それにしても、絃一郎が言った「無くなった物が持ち主に返ってきてほしい」という言葉から歌が出てくるなんて。


 すると、永海は夜空を見上げて言う。


「誰かの意思によって盗難が行われてるのは確かだ。犯人が人間だろうと、幽霊だろうとね」


 その言葉は、どこか確信めいていた。


 つられて絃一郎も視線を上げるが、そこには重たい雲があるだけだった。月明かりも星の輝きも、どんよりとした分厚い灰色に隠されている。


 それでも、何か見えやしないと探していたから。


「その誰かが、早く返してくれるといいんだけど」


 ボソリと声がした時、隣で永海がどんな顔をしていたのか、絃一郎は気が付かなかった。




 おほり荘に帰ってきた後。


 食堂で晩ご飯を食べ終え、自分の部屋へと戻ってきた絃一郎は、授業で出された課題もそこそこに楽譜を手に取った。


 こたつの上に並べたのは、『Caroカロ mioミオ benベン』の楽譜が入ったファイル。それから、松葉色の巾着袋――その中から取り出した、箏曲そうきょく部の定期演奏会で演奏する楽譜が二冊。


 まだ感覚が残っているうちに、今日の練習の復習をしておきたかったのだ。


 練習のさなかに走り書きしたメモを見返し、時にはスマートフォンで録音した演奏を確認して。そうやって、もらったアドバイスや見つかった改善点を頭に入れ直しつつ、改めて楽譜に書き込んでいく。


 永海との伴奏練習では、次回に持ち越しとなった課題も多い。忘れないよう書き留めておかなければ。


 伴奏譜の復習を一通り終え、続けてそうの楽譜を開く。


 箏の楽譜は、ピアノ五線譜とはまるで違う書き方になっていて、こうして見比べてみると面白い。


 縦線で区切られた列の中に並ぶ、沢山の数字。漢数字もあれば算用数字もあるし、カタカナのような記号も音楽記号も出てくる。

 絃一郎には見慣れた楽譜だが、初めて見た永海は不思議そうな顔をしていたっけ。


 同じように復習を進めていた絃一郎は、ふと思い立つ。


 ――そうだ、箏爪ことづめいておかなくちゃ。


 最近は演奏中に箏爪が外れないよう、テーピングを巻いて固定している。だがこうすると、その粘着が残ってしまうことがあるため、こまめに拭く必要があったのだ。


 そうして、箏爪のメンテナンスをしようと巾着袋をのぞいた時。


「……あれ?」


 それに気付いた途端とたん、絃一郎はサッと青ざめた。

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