第21話

 翌週の木曜日。


 今週も、永海との伴奏合わせの日がやってきた。

 週に一度の約束は、二月に入ってからも変わらず続いている。が、一つだけ変わったことがある。


 以前は一緒に練習室へ向かっていたところを、先に永海に練習室を借りておいてもらい、そこへ絃一郎が後から合流するようにしてもらったのだ。


 箏曲そうきょく部の定期演奏会は、月末にせまっている。そこで絃一郎は、永海に「前半を箏の練習にあてて、後半を永海との伴奏合わせの時間に出来ないか」と頼んだのである。


 永海は「いっそ演奏会までお休みにする?」と言ってくれたが、それを断ったのは絃一郎の方だった。鍛えてもらったピアノの腕を、ここでなまらせる訳にはいかない。




 伝統芸能棟を出た絃一郎は、音楽棟へ向かって小走りする。


 かばんに入れる時間もしんで、手には巾着袋を持ったままだ。

 楽譜も一冊丸々入る、大きな松葉色の巾着袋。箏曲部で使っている楽譜や調弦のためのチューナー、箏爪ことづめを入れるがま口などが詰まった、絃一郎の仕事道具だ。


 伝統芸能棟から音楽棟までは、歩けば十分以上かかる。早めに出なければとは思っていたのだが、つい練習に熱が入ってしまい、少し遅くなってしまった。


 山の向こうに日が沈み、雲だけが浮かぶ空は、わずかなあかね色を残して夜の色に染まりつつある。

 あぁ、それでもまだ茜色が残っているなんて。

 そう思いながら空を見上げ、改めて日が長くなったことを実感していると、スラックスのポケットの中で何かが震えた気配がした。


 ポケットに手を突っ込み、そこに入れていたスマートフォンを取り出す。

 薄暗い空の下、やけに明るく見える液晶に目を落とすと、ロック画面にはメッセージアプリの通知が表示されていた。


 永海からだ。伝統芸能棟を出る直前にそのことを伝えていたので、返事が来たのだろう。


『分かった』

『練習室は二一〇を借りたよ』


 飾り気のない、端的なメッセージ。


 今日も、練習室は二一〇か。

 先日の幽霊の一件で部屋を変えて以来定位置となった、二階の一番端、やはり廊下の突き当たりにある練習室だ。どうやら永海は、一番端がお気に入りらしい。


 道端に立ち止まり、『今向かってます』とだけ返事をして、スマートフォンをポケットに戻す。


 それから絃一郎は、先程よりも足を早め、音楽棟への道を急いだ。




 音楽棟の入り口のガラス扉を開けると、そこから続く廊下には二人の生徒の姿があった。


 一人は、見覚えのあるスラリとした長身の女子生徒。声楽部部長の水谷みずたにだ。


 隣には、絃一郎よりも一回り背が高いであろう、体格の良い男子生徒。

 彼とは面識が無かったが、音楽棟の職員室で先生と話し込んでいる姿を何度か見たことがある。確か、吹奏楽部部長の近藤こんどうだったか。


 二人は、壁に設けられたホワイトボードをにらみながら、難しい顔で何かを話し合っていた。

 邪魔をしてはいけない雰囲気だったのだが、とはいえ挨拶あいさつも無しに横を通るのは気が引けて、絃一郎は控えめに声をかける。


「お疲れ様です」

「おっ、お疲れ様、寺方くん!」


 こちらを振り返った水谷は、すぐに口角を上げ、にこやかに手を振った。


「今日も永海の伴奏かな?」

「はい、お邪魔しますね」

「あはっ、そんな余所よそん家みたいに入んないでよ! いいのいいの、好きに入って」


 頭を下げる絃一郎に、水谷がその肩を軽く叩く。


 横から「誰だ?」と言いたげな視線が飛んできていたが、水谷との会話で察したのか、それはすぐにホワイトボードへと戻っていく。


 そこには、音楽棟に関わる情報や連絡事項が掲示されているようだった。


 左半分は予定表となっていて、講師や先生のレッスン時間が書き込まれていたり、マーカーの引かれた日程表が貼られていたりしている。

 右半分は掲示板として使われていて、部活動のポスターやプリント、手書きの小さな貼り紙などが所狭しと並んでいた。


 二人は、その掲示板に貼られた何かを見ていたらしいのだが。


「何を見てたんですか?」

「あー……」


 気になった絃一郎がたずねると、水谷は頭の後ろに手を当てて、言葉を探すように上を向く。


 すると、隣で腕を組んでいた近藤が先に口を開いた。


「ここ数日、音楽棟で盗難が続いているんだ」

「えっ」


 機嫌の悪さがありありと伝わってくる、刺々しい強い口調だった。


 驚いてホワイトボードを見ると、数々の貼り紙の中、『注意!』の字がデカデカと踊っていることに気が付く。盗難への注意を呼びかける貼り紙だ。


「と、盗難って……?」

「吹奏楽部と声楽部員の持ち物や備品が無くなったりしている。特に声楽部員が多いな。無くなっているのは、私物の持ち物や備品といった小物類ばかりだ。幸い、貴重品が無くなったということはないが、見過ごせる問題ではない」

「いやぁ、不甲斐ないよ。私達も監視の目があればと思って見回りしてるんだけど、中々難しくてさ」

「あぁ。地方大会前の大事な時期だというのに、全く」

「本当にねぇ……」


 近藤は顔をしかめ、水谷は溜め息をついて眉間みけんに手を当てる。


 それを聞いた絃一郎は、毎朝校門を通る度に見ている風景を思い出した。


 風に吹かれる『金賞! アンサンブルコンテスト地方大会出場決定!』の白い横断幕。確か、吹奏楽部は金管五重奏とフルート三重奏のチーム、声楽部は合唱のBチームが、地方大会へ出場するという話だった。


 つい先週県大会が終わったばかりだが、もう次の地方大会に向けて動き出しているのだ。きっと今は、さらに完成度を高めなければならない大切な時期なのだろう。


 そう思うと、気の毒だった。盗難なんて事件が起きていては、練習に集中出来ないだろうに。


 近藤は鋭い視線をこちらへ向けると、子供に言い聞かせるような口振りで言う。


「君も音楽棟に出入りするなら気をつけるように」

「はい。分かりました」


 つられて強張こわばった声でうなずいた絃一郎は、永海の待つ練習室へと向かうべく、少し重くなった足取りで音楽棟の奥へと進んだ。




 練習室の扉がズラリと並んだ廊下を、小さくれ聞こえてくる音色に耳をかたむけながら歩く。


 目指す練習室は二一〇。二階の廊下の突き当たりの部屋だ。


 廊下の中程にある階段を上がり、踊り場を左に曲がる。そこでふと上を見ると、二階から一階へ今まさに降りようとしているジャージ姿の生徒がいることに気が付いた。


 だが、その人は両腕で抱えるほど大きな段ボール箱を持っていて、下から見上げる絃一郎には顔が見えない。


 声楽部の人だろうか。いや、吹奏楽部かも。どちらにせよ、道をゆずった方が良さそうだ。


 一歩下がり、壁に寄る絃一郎。と同時に、段ボール箱の後ろからひょっこり現われる、小さなお団子頭。


「あれっ、テラちゃんだ。やっほー!」

「あぁ、高宮たかみや先輩。お疲れ様です」


 明るい声で独特のあだ名を呼ばれ、絃一郎は慌てて頭を下げた。まさか高宮だったとは。


 すると、段ボール箱の右側から出ていた顔が引っ込んで、今度は左側から出てくる。視線を下に向けながら、右へ左へ見え隠れする高宮の顔。一目見て、足元が見えないのだとすぐに分かった。


 そのまま階段を降りるのは、ちょっと危なくないか。


 そう思った絃一郎は、階段を駆け上がって高宮に声をかける。


「それ、お持ちしましょうか?」

「え、ホント? ありがと~! じゃあお言葉に甘えちゃお」


 絃一郎の提案に嬉しそうな声を上げた高宮は、よいしょ、と持っていた段ボール箱を床の上に置いた。

 その手付きは慎重で、それでいて重みを感じさせるのものだった。重さに負けて勢い良く床にぶつけてしまわないようにしているのだろう。


 代わりに高宮が荷物を持ってくれるというので、絃一郎は手に持っていた巾着袋を預け、段ボール箱を持ち上げる。


 両手に抱えた段ボール箱は、想像よりも重かった。だが、持てない重さではない。絃一郎の背であれば顔が隠れることも無いので、問題なく運べそうだ。


 第二音楽室までお願いね、と先導してくれる高宮に続き、足元を見ながら慎重に階段を降りていく。


「これ、結構重いですけど、何が入ってるんですか?」

「あ~、これね、ちょっと良い機材。録画とか録音とかで使う、そりゃ重いわ! ってラインナップね」

「マイクとかスピーカーとか、ってことですか?」

「そうそう。アンコンの練習に使うの」


 高宮は、どこか自慢げに声楽部の練習について教えてくれた。


 アンサンブルコンテストの練習では、音楽室の教壇きょうだんを本番のステージに見立てて歌い、それを録音したり録画したりすることで歌の出来映えを入念に確かめるのだそうだ。


 客観的な視点から確かめることで、歌っている本人が課題を自覚するだけでなく、メンバー全員で課題と目標を共有出来るため、大会に挑むためには欠かせない練習なのだという。


 そこまで話すと、高宮は急に肩を落として「は~ぁ」と大きな溜め息をつく。


「実はねぇ……この前のアンコン、アタシのチームは地方大会に進めなかったの」

「えっ、そ、それは……」


 先を歩く高宮の表情は見えない。絃一郎は、思わず言葉を詰まらせた。


 どう声をかけたら良いのか分からなかった。


「残念でしたね」?

「お疲れ様でした」?


 頭に浮かんだのは、どれも絃一郎が言うべき言葉ではないように思えた。何の歌を歌ったのかも、どんな思いで歌っていたのかも知らないのに、そんなこと言える訳がない。


 そうして何も言えないでいると、高宮が軽やかな足取りでこちらを振り返る。


 そこに浮かんでいた表情は、はじけんばかりの笑顔だった。


「だから、こうしてサポートちゃんをまっとうしてるってワケ!」

「……ふふ、そうなんですね」


 腰に左手を当て、反らした胸を右の拳でドンと叩いてみせる高宮。それを見た絃一郎は、つられるように目を細めた。


 すごいな、高宮先輩は。


 そもそも絃一郎が声をかける必要など無かったのだろう。悔しくて落ち込んで当然なのに、胸を張ってサポート役を名乗ってみせた高宮が、絃一郎にはとてもまぶしく見えた。


 階段を降り、再び一階に戻ってくる。


 さて、第二音楽室はどこだろう。そう思って辺りを見回しつつ、前を歩く高宮に続いて一歩踏み出そうとすると。


「それで?」


 前触れもなく、引き返してくる高宮。あっと思う間もなく、絃一郎の抱える段ボール箱を押し退けるかのように顔を近付けてきて、耳打ちする。


「どうなの? ながみんとは」

「えっ?!」


 絃一郎の声が裏返った。


 思い掛けない質問に戸惑う。心臓がドキリと跳ねたのは、いつか高宮から刺された釘を――「覚悟しておきなさいよ!」という言葉を思い出してしまったからだ。


 そんな慌てっぷりを照れ隠しと思ったのか、高宮はニンマリと笑う。


「ふーん? さては上手くいってるね?」

「い、いやぁ、どうでしょう……」


 再び歩き始めた高宮の後を追いながら、絃一郎は首をかしげた。


 そうたずねられると、素直にうなずけない。


 先日の幽霊の一件以来、「永海のために伴奏をしよう」と決意を新たにした絃一郎は、より一層伴奏の練習に熱を入れるようになっていた。箏曲部の練習が増えても永海との伴奏練習を欠かさないのは、それが理由でもある。


 勿論、千尋に会いたいという思いが消えた訳では無い。六歳の夏からずっと抱え続けている願いは、絃一郎の心に深く根を下ろしている。念願叶う日まで消えることはないだろう。


 それでも、永海のための伴奏がしたいとも思うようになったのだ。あの綺麗な歌声のため、あの優しさに応えるため、そして何よりあの笑顔のために。のびのびと歌う永海は見ていて気持ちが良いし、伴奏として力になれていると思うと絃一郎も嬉しくなる。


 だが、その思いに実力がついてきているかは、また別の問題で。


「俺なりに頑張ってるつもりですけど、まだまだ教えてもらうことばっかりで。永海先輩が納得してくれる伴奏が出来てるかどうかは……正直ちょっと自信なくて……」


 苦笑いする絃一郎に、高宮は目をパチクリとさせた。


「テラちゃん的にはそうなの? そんなことないと思うけどなー」

「え……」

「だって、ながみん見てたら分かるもん」


 思わぬ言葉に、今度は絃一郎が目をパチクリとさせる。


 そんな絃一郎に「んふ」と小さな笑いをらし、高宮は感慨深そうに言う。


「ながみん、テラちゃんが伴奏するようになってから楽しそうなんだよね。前は、何で伴奏なんかつけきゃいけないんだ~っていっつもイライラしてたのにさぁ。今じゃ、早くテラちゃんが来る日にならないかなってソワソワしてんの! 丸くなったよね~」

「そ、そうなんですか?」

「そうだよぉ、だから……――あっ、着いちゃったね」


 何かを言いかけた高宮は、そこで話を切り上げた。


 視線の先を見れば、大きく重厚な観音開きの扉。提げられた『第二音楽室』の看板。話している間に、気付けば目的地まで到着していたようだ。


 高宮が「ここまででいいよ」と言うので、絃一郎は抱えていた段ボール箱を慎重に扉の前に降ろした。そうして手が空いたところで、高宮に預けていた巾着袋を受け取る。


「ありがとね、テラちゃん! 助かったよ~」

「いえ」


 両手を合わせる高宮に、絃一郎はペコリと一礼を返す。


 すると突然、高宮が「あっ」と声を上げた。

 何かを思い出したのだろうか、と思っていると、高宮はキョロキョロと廊下を見渡し始めた。そうして辺りに誰もいないことを確かめると、声を潜めて言う。


「ねぇ、テラちゃん聞いた? 物取り幽霊のうわさ!」

「……えっ?」

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