第20話

 それから、うっとりと見惚みとれるような間があった後。


 ようやく永海がおずおずと入ってきて、後ろ手にふすまを閉める。部屋の隅であぐらをかいた絃一郎の隣までやってくると、そこから一歩そうに近付いた位置でちょこんと正座する。


 絃一郎は、そんな永海に一言断ってから、軽く昼食をとることにした。

 食べかけのおにぎりは、一口かじっただけだ。流石に保たない。永海を待たせてしまうのは申し訳ないが、せめてもう少しお腹に入れておきたかった。


 その間永海は、箏を穴の開くほど見つめたり、側に置いてあるテーピングやがま口をながめたり。座奏用の低い譜面台に置かれた、ピアノ譜とは全く異なる箏の楽譜をのぞき込んだり。

 音楽への愛を炸裂さくれつさせて迫ってくる普段の勢いこそ無いものの、畳の上を膝で歩き回りながら色んなものをじっくりと観察していた。


 やがて、永海が箏を見つめながら不思議そうに言う。


「……なんか、僕が見た箏と違う」

「え?」

「長いし、太いし。げんが黄色いし。あと、弦の数も多いよね」


 ここ、ここ、と指差して挙げていく永海に、絃一郎は思わず食事の手を止めた。


「…………よく分かりますね?」

「調べてきた」


 驚きが顔に出ていたのか、こちらを見た永海は嬉しそうにピースサインを作って見せる。


 永海の言う通りだった。ここに置いてある箏は、他より一回り大きい、長くて太くて、弦の数が多いもの。


「多分、永海先輩が見たのは十三絃じゅうさんげんですね。これは十七絃じゅうしちげんっていうんです」

「十七……」

「どちらも箏なんですけど。弦楽でいうとチェロ、軽音楽でいうとベースギター、みたいな。そんな感じの違いです」

「ふうん。本当に弦が十七本なんだ」

「ふふ、そうですよ」


 説明を聞きながら、指をひょこひょこと動かしていた永海は、関心したように言った。何してるかと思えば、弦の本数を数えていたのか。




 単に「箏」と言えば、一般的には十三絃のことを指すだろう。


 畳一枚分ほどの長さがある、細長い長方形の木製の箱。その上面はゆるやかなアーチを描いていて、十三本の弦が張られている。弦と木箱との間に琴柱ことじと呼ばれる支えを挟むことで音程を変え、右手につけた箏爪ことづめで弦をはじく。

 そうして、水がしたたり落ちるような不思議な音色を奏でる、和楽器の一つだ。


 対して十七絃は、基本的な造りは変わらないものの、より長くて大きな箱と太い弦が使われている。弦の数も十七本に増えており、十三絃をそのまま大きくしたような見た目だ。その構造から、十三絃よりも大きくて低い音が出せる。


 そんな十七絃だが、箏曲部では上級者向けの楽器として扱われている。

 決まり文句は「まずは十三絃に慣れてから」。


 というのも、十七絃は大きい分、ある程度の手の大きさが必要な上、太い弦を弾けるだけの力も求められるのだ。弾きやすいよう、使う箏爪も少し大きく厚めのものになる。

 そのため、高校から箏を始める生徒がほとんどの箏曲部では、十三絃で経験を積んだ二、三年生が担当することになっていた。


 だが、絃一郎は一年生ながら十七絃を任されている。

 箏の経験者であることと、絃一郎本人の希望や二年の先輩達が背中を押してくれたことあって、去年の夏頃から担当することになったのだった。


 あの時、一ノ瀬は「アタシと萩原が十三絃のツートップになるから。十七絃は絃ちゃんに任せた!」と宣言していたっけ。今回の定期演奏会では、本当にその通りのパート分けになっているから驚きだ。




 そんな話をしながら、絃一郎は昼食を食べ終える。手早く片付けを済ませ、さてと十七絃の前に正座する。


 すると、待ってましたと言わんばかりに、永海が膝で近寄ってきた。


「弾く?」

「はい。お待たせしました」


 体を揺らし、ソワソワした様子の永海。そんな姿に頬を緩めながら、絃一郎は箏爪ことづめの準備に取りかかる。


 まずは、テーピングを人差し指ほどの長さに切る。それを三本用意して、がま口から箏爪を取り出して指にはめる。親指、人差し指、中指。奥までぐっと押し込んだら、用意したテーピングを巻いて固定する。


 本来、テーピングは無くてもいいものだ。だが、今練習している曲は指の動きが激しく、弾いている途中で抜けてしまうことが何度かあったため、対策として使っていた。


 よし、準備完了。練習開始だ。


 絃一郎は、さあ弾こう、と箏の前に置かれた譜面台を見る。


 ふと視界の端に映る、キラキラと目を輝かせる永海の顔。


 そこで、はたと思い至る。


 練習しようと思っていたのは、合奏の中の十七絃のパート。他の奏者が弾く十三絃のパートと合わせて初めて曲として完成するもので、いわば歌唱を支える伴奏のようなものだ。


 このパートだけ聞くとなると、曲としての美しさや面白さは半減してしまうのでは?


 折角永海に聞いてもらうのだから――。


 そう思った絃一郎は、譜面台に手を伸ばし、開いていた楽譜の表紙を閉じた。


「折角なので、俺のお気に入りの曲を弾きましょうか」

「わーい」


 絃一郎の提案に、永海がパチパチと小さな拍手を送る。


 お気に入りの曲。それは、六歳の夏に千尋が教えてくれた――もう一度千尋に会えると信じ、今も弾き続けている曲だ。楽譜も何も無いが、音も調弦ちょうげんも、奏でる手の運びも全部、絃一郎の頭の中に入っている。


 練習しようとしていた曲に合わせていた弦の音を、琴柱をさっと動かして調弦し直す。左手を弦の上に乗せ、右手を十の弦の上に構える。


 そして、小さく息を吸って。



 ♪~……



 箏爪で弦を弾けば、せせらぎにも似た箏の音色が部屋に響く。


 水底に沈んだかと錯覚してしまいそうな、鼓膜を揺らす低い音。その余韻よいんが消えるのを待たず、はじける泡のようにきらびやかで、時にすすり泣くような、もの悲しい旋律せんりつがさらさらと流れていく。


 重なる二つの音色は、互いに呼びかけ合いながらも、しかし決して同じ音を奏でることは無い。それがこの曲の持つ切なさを一層深めていて、美しい旋律でさえも届かぬ叫びのように聞こえてくる。


 絃一郎は、夢中で箏を弾いた。


 この曲を弾くと、目には見えなくとも千尋がそばにいるような、温かな気持ちになる。

 だが同時に、あの時聞いた千尋の音と遜色そんしょくないほど綺麗に弾きこなせるようになっている自分に、あれから何年もの月日が経っていることを思い知らされて、寂しさで胸が一杯になる。


 最後の一音。


 一番奥の弦を優しく弾けば、小さな和室には余韻だけが残される。


 そのかすかな弦の震えを、絃一郎は手のひらで止めた。そうして全ての音が消えた後、永海がポツリと言う。


「……綺麗な曲だね」


 見れば、永海は柔らかな表情で、どこか愛おしそうに十七絃を見ていた。


「それに……ずっと誰かを待ちわびてる、みたいな感じ。ちょっぴり寂しい曲だなって思った。良い曲だね」

「はい。俺も、そう思って弾いてます」


 それを聞いて、絃一郎はうなずく。


 この曲のもの悲しい旋律を言葉にするのなら、永海の言った「ずっと誰かを待ちわびてる」という表現がぴったりだと思った。きっと、低い音と高い音との交わらない掛け合いが、そう感じさせるのだろう。


 絃一郎が弾きながら感じていたものを、永海も同じように感じたのだと思うと、少し嬉しくなる。


 それから絃一郎は、元々の目的であった定期演奏会に向けた個人練習を始めた。


 永海はというと、その練習をしばらく見学していたのだが。


「寺方くん」

「ど、どうしました?」

「寺方くんの箏が聞けて満足したら、お腹すいちゃった。僕はそろそろ帰るね」


 唐突にそう言って、立ち上がった。


 驚いた絃一郎が「お昼ご飯食べて無かったんですか?」とたずねれば、あっけらかんと「忘れてた」と言う永海。


 そうだった。永海はこういう人だった。声楽部の練習が終わってすぐ、思い立つがまま、気のおもむくまま、ここまでやってきたのだろう。


 時刻は二時半を過ぎた頃。お腹が空いて当然の時間である。


 最初に確認しておくべきだったな、と考えてしまって、すっかり永海の声楽オバケっぷりに順応している自分に気が付く。永海が帰り、一人残された別室で、絃一郎は思わず苦笑してしまった。

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