第三章 Torna a Surriento

第19話

 二月に入ると、日の長さを実感することが増えた。


 時折、日が暮れた空を見て「もうこんな時間か」と時計を見ると、思っていたより時間が経っていないことがある。練習時間が伸びたようで、少し得をした気分だ。


 とはいえ、放課後の部活動帰りの道は相変わらず真っ暗なまま。


 絃一郎げんいちろうは、楽譜や箏爪ことづめが入った巾着袋を手に、一人おほり荘への道を歩いていた。


 絃一郎の所属する箏曲そうきょく部では、月末の定期演奏会に向けて練習が盛んになっている。いつもはマイペースな部員達も、部室である邦楽ほうがく室に集まることが増えた。


 今日は金曜日。明日は、週に一度の講師のレッスンの日だ。

 各々がそうをかき鳴らし、はちゃめちゃな音があふれていた邦楽室を思い出して、絃一郎はクスリと笑みを浮かべる。レッスンに向けて、みんな気合いが入っていた。


 ふと、あの曲はもっとこうだよな、と空中で箏を弾くように動く右手。だが、冷たい風に吹かれた指先は、たちまち凍えてしまう。


 両手をこすり合わせてもちっとも温かくならない指先に、はぁ、と白い息をかけ、絃一郎は家路を急いだ。




 翌日の土曜日。


 午前の講師によるレッスンを終えた絃一郎は、午後も残って練習を続けることにした。


 というのも、最近は個人練習の時間があまり取れず、定期演奏会で弾く曲を仕上げられていなかったのだ。


 仕上げなければならないのは、二曲。

 一つは、絃一郎を含めた一年生三人で弾く、ポップスを箏の三重奏にアレンジした曲。もう一つは、部員だけでなく講師の先生もまじえて弾く、定期演奏会の最後を飾る大規模な合奏曲である。


 どちらも弾けはするのだが、タッチやニュアンス――げんはじき方や音色の表現などの完成度はもっと上げられると感じていた。そういった細かな部分について、一人で弾き込みたいと思っていたのだ。


 平日は、朝練習ではわずかな時間しか取れず、放課後は学年での合奏練習が始まっている。じっくり個人練習の時間が取るのであれば、土曜の午後がうってつけという訳だ。


 レッスンを終えて帰る講師を見送り、邦楽室に戻ってきたところで、絃一郎は部長の萩原はぎわらを呼び止める。


「萩原先輩、俺、今日居残って練習していきますね」

「あー……うん、それは全然構わないんだけど、別室でやってもらってもいい? 部室、二年の合奏練習で使いたくて」

「勿論です。じゃあ、別室使わせてもらいます」

「ん。ありがと」


 萩原が小さく手を合わせると、その背後から「げんちゃんも居残り? 頑張ってねー!」と明るい声が飛んでくる。もう一人の先輩である一ノ瀬いちのせだ。


 彼女の前には、開きかけの赤い弁当袋と二人分の楽譜が並べられている。これから一緒に昼食を食べながら、合奏について話すのだろう。


 そんな二人にガッツポーズを返して、絃一郎は別室へと向かった。




 箏曲部員が「別室」と呼んでいるのは、邦楽室の隣にある和室だ。広さは、邦楽室と同じ八畳。床の間や囲炉裏などが備え付けられ、茶道が出来る部屋の造りになっている。


 だが、それらは宝の持ち腐れとなっていた。茶道部は伝統芸能棟の一階で活動しており、二階にあるこの部屋は使われていないのだ。


 茶道室から別室まで行くには、玄関の広い吹き抜けまで出てきて階段を上らなければならない。そんな移動の大変さもあって、いつしか使われなくなってしまったのだろう。


 そのため、誰も使わないのであれば、ということで箏曲部員が練習に利用しているのだった。今日のように、別れて練習をしたい時にはかなり重宝している。




 別室へ箏を運び入れるのを手伝ってくれた同級生達が帰っていくのを見送り、絃一郎は一人、畳の上に腰を降ろす。


 そうして用意していたおにぎりを取り出して一口かじった時、閉じたふすまの向かうから「きゃあ!」と悲鳴が聞こえてきた。今出ていったばかりの同級生の声だ。


 何事かと顔を出すと、ほとんど同時に隣の部屋からも先輩達の顔が出てくる。

 真っ先に玄関へ向かって階段を降りていく萩原。その背中を目で追いながら、絃一郎は二階の吹き抜けから一階を覗き込む。


 すると、玄関には見覚えのある姿が。


「あれ? 永海ながみくんだ。どうしたの?」

「お邪魔します」


 おののくように壁際でちぢこまっている同級生達と、そこに駆けつける萩原。声をかけた彼女に向かって頭を下げつつも、辺りをしきりに見回して落ち着かなさそうにしている永海。


 絃一郎は首をかしげた。


 どうして伝統芸能棟に永海が?


 確か、土曜日の午前中は、声楽部も練習があったはずだ。もう終わったのだろうか。


 そう思って見ていると、永海と話していた萩原が、吹き抜けから見える二階の廊下を――絃一郎の方を指差した。その指先を目で追ってきた永海と絃一郎の視線が、バチリとぶつかる。


 途端とたん、永海はニコッと口角を上げてこちらへ手を振った。


 なるほど。


 永海がここへ来た理由を察した絃一郎は、手を振り返すのもそこそこに、足早に玄関へと向かった。




「良かった。入れてもらえて」


 階段を上りながら、ホッと息を吐いて永海が言う。


 萩原は最初、何の連絡もなく突然やってきた永海に驚き、渋い顔をしていた。だが、期待に満ち満ちた表情でつま先を上下に弾ませる永海を見て、根負けするように通してくれたのだった。


 絃一郎は、あの萩原が通してくれるなんて、と目を丸くした。とはいえ、永海のキラキラと輝く目の圧は身を持って知っているので、気持ちは良く分かる。


 それでも、こころよくという訳にはいかず。

 永海は楽器や備品には触らないこと、練習を邪魔しないことを硬く約束させられ、絃一郎はそれを見張るよう言いつけられていた。


 そんなことがあったせいか、借りてきた猫のように大人しくなった永海を、ひとまず別室へと案内する。


「珍しいですね? 先輩がこっちに来るなんて」

「うん。今日の声楽部の練習が終わった時、『そうだ、寺方くんの練習を見学しに行こう』って思って」

「えっ。どうして見学なんか?」

「んー……、色々理由はあるんだけど」


 聞けば、絃一郎が弾くピアノを見て箏奏者の癖があると気付いて以来、箏を弾く姿を見ておきたかったのだという。

 加えて、声楽部部長の水谷からも「寺方くんに伴奏を頼むなら、箏曲部のことをもっと把握するように」と言われたため、こうして足を運んだのだった。


「でも、一番は寺方くんが弾く箏の音が聞きたかったからかな。聞かせてくれたのって、ピアノと歌だけでしょ」

「あぁ、確かに……でも、それなら演奏会に来てくれれば良いのに」

「それはやだ。寺方くんだけでいい」

「ど、堂々と来ない宣言しないでくださいよ……」


 相変わらずの永海に、絃一郎は苦笑する。


 結局、永海は先月末にあった声楽部のアンサンブルコンテストを欠席したそうだ。自分の部活動でさえそんな調子なのだから、箏曲部の定期演奏会だって、頼んでも来てくれないだろうとは思っていた。


 やはり、永海の「誰かと一緒に歌うことを嫌っている」は相当らしい。


 二階に上がり、別室へと続く廊下を進む。絃一郎が背後をチラリと見れば、後ろを歩く永海の瞳が右へ左へとせわしなく動いていた。


 辺りにあるのは、畳や障子といった普通の教室には無いものばかり。絃一郎の目には見慣れたものでも、滅多めったに伝統芸能棟へ立ち入らないであろう永海にとっては物珍しく、つい目が行ってしまうのだろう。


 そんな好奇心に満ちた瞳を微笑ましく思いながら、絃一郎は別室のふすまを開ける。


 直後、あんなに動いていた永海の目が、ピタリと釘付けになって止まった。


 視線の先にあるのは、部屋の真ん中に置かれている、一張いっちょうの箏。


「あれが、寺方くんが弾いてる箏?」

「そうですよ」


 先に別室へ入った絃一郎がうなずいても、永海は敷居をまたがず、その場に立ち尽くしていた。

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