第16話

 やっぱりおかしい。


 水谷の身長は、扉の四分の三を少し越えるくらいの高さだ。しかし、さっき見た人影は、ガラス窓の一番上に頭が届く高さ。いくら水谷の背が高いとはいえ、その影がそこまで大きく見える訳がない。


 だとしたら、さっき見えたのは誰の影だったのか。


「じゃあ寺方くん、続き歌おうか」


 仕切り直すように永海が言う。


 その声で、はたと気が付いた。


 永海の歌を聴くと、絃一郎の目には幽霊が見えるようになる。


 思えば、絃一郎の視界に影が映ったのは、永海が歌っている時だった。先週見た、「開放厳禁」の扉の向こうに行った不思議な影も。今日見た、ガラス窓に張り付くように立つ影も。


 つまり、あの影は――。


「――……寺方くん?」


 永海の声にハッとして、思考が止まる。


「……どうかした?」

「い、いえ、何でもないです」


 見れば、不思議そうな顔をした永海が、こちらをじっと見つめていた。


 慌てて鍵盤に手を乗せた絃一郎は、背中を流れる冷たい汗を悟られないよう、努めて笑ってみせる。


「続き、お願いします」

「……うん」


 永海は何か言いたげにしていたが、やがて楽譜に目を落とした。


 それを見て、絃一郎の緊張が少しだけ和らぐ。


 気付かれたくない。


 永海の歌を聞くと幽霊が見えるから伴奏を引き受けた、なんて口が裂けても言えない。


 永海のことを知れば知るほど、歌声を聞けば聞くほど、絃一郎の胸を締め付ける「自分は伴奏に相応ふさわしくない」という重荷は増すばかりだった。

 この二週間練習を重ねてきたが、技量も経験もまだまだ足りない。いつか「一緒に歌いたくない」と言われてしまうのではないかと、いつだって不安に思っている。


 それでも永海は、嫌な顔一つせず伴奏を教えてくれる。まだつたい伴奏でも、ちゃんと耳をかたむけて気持ちよそうに歌ってくれる。


 なのに、絃一郎が伴奏しているのは幽霊である千尋に会うため――永海のためではない、だなんて。そんなの、裏切っているのと同じだ。


 そもそも、幽霊が見えるなどと言ったところで、信じてもらえる訳もない。


 千尋と出会った時だってそうだったじゃないか。誰も肯定してくれる人はいない。気持ち悪がられるか、不気味がられるか、嘘つき呼ばわりされるのが関の山だろう。


 ……いや、永海はどうだろうか。


 冬休み、商店街で幽霊と出会った時のことを思い出す。「僕の目では誰もいなかった。でも、君の目もそうだとは限らない」と言って、少し乱暴に頭をでてくれた手のひら。


 きっと永海は、肯定も否定もしないだろう。ただうなずいて、何事もなかったかのように鼻歌を歌い出すかもしれない。


 なんて優しい人だろう。


 だからこそ、やはり幽霊が見えるから伴奏を引き受けたことは黙っておかなければ、と思った。


 それが動機だったとしても、今はこの人のために伴奏がしたいと思ったのだ。


 誰かと一緒に演奏することを嫌う彼が、あの高く澄んだ声を思いのまま響かせられるように。歌い終えた後、満足げな笑みを浮かべてくれるように。一人の伴奏者として、力になれるように。


 そのために、永海に相応ふさわしい伴奏者になりたい。


 なのに。



 ♪Il tuo fedel sospira ognor.

  Cessa, crudel, tanto rigor!



「……っ」


 弾きながら、奥歯を噛む。


 視界の端に佇む影。練習室の扉のガラス窓に張り付き、こちらを覗き込む大きな黒い人影は、永海が歌っている間ずっとそこに立っていた。


 絃一郎は徹底的に無視したが、これでは伴奏に集中出来るはずもない。


 影は人らしい形こそしているものの、黒一色で目も口も分からない。だがどういう訳か、じっと永海の歌っている姿を凝視しているように見えた。時折動く口元は、何かをつぶやいているかのようだ。


 とにかく不気味だった。


 今まで出会った幽霊は、千尋や穗乃花のように、一見しただけでは人間と区別がつかない姿だった。てっきり幽霊はみんなそういう見え方をするものだと思っていたが、まさか、こんな得体の知れない黒いモヤのようにも見えるなんて。


 ずっと動悸が止まらない。


 身体中が冷え切っていて、指も足も、気を抜けばきっとすぐに震え出してしまう。


 正直に言えば、逃げ出してしまいたい。


 だが、ピアノの前から離れる訳にはいかなかった。


 伴奏を引き受けた理由を隠すために。そして何より、永海のために。


 ただその一心で、恐ろしさに身を凍えさせたまま、ひたすらピアノを弾く。


 結局、この日はろくに集中出来ないまま練習を終えた。


 伴奏は散々だったが、最後まで笑顔を顔に貼りつけておくことは出来た。流石に、ピアノの音色ににじみ出たぎこちなさは隠し通せなかったようで、永海からは「もう少しリラックスして弾けるといいね」と言われてしまったが。


 とはいえ、永海の歌を聞くのは週に一度だ。そう頻繁ひんぱんに見るものでもないし、次回までに集中して弾けるよう練習を積んでおけばどうにかなるだろう、とこの時は思っていた。




 その見立ては甘かったと思い知ったのは、翌週の木曜日。


 音楽棟で永海と合流し、もはやお馴染みとなりつつある、廊下の突き当たりにある角部屋の練習室へ。


 上機嫌に鼻歌を歌いながら、永海が一二〇と書かれた扉を開ける。その後に続いて中に入ったところで、絃一郎はほとんど無意識にガラス窓を覗き込む。


 そこに映っていたのは、蛍光灯の明かりと誰もいない廊下だけ。今のところ、あの影はいないらしい。


 そうして小さく息を吐いて、脱力するようにピアノの前へ座った時だった。


 絃一郎の目の前にある、まだ楽譜の置かれていない、立てたばかりのピアノの譜面台。つややかな黒い表面に映り込んでいるのは、練習室の壁と少し強張こわばった自分の顔。


 その壁と背中の間、絃一郎の真後ろに、一際黒い影のような人の形をしたモヤが立っていた。


 詰まった息がヒュッと喉で音を立てる。直後、耳元に息がかかる。


「――を歌って」

「うっ……?!」


 ボソリとつぶやかれた、弱々しくかすれた男の声。


 絃一郎は、たまらず両手で耳をふさいで飛び上がった。


 ふくらはぎに押された椅子が、にぶい摩擦音を立てて床の上を滑る。


 痛みと錯覚してしまうほど、胸を押し上げてくる拍動。塞いだ耳の奥から聞こえてくる、ドッドッと暴れ出した心臓の音。


 全身にこごえるような悪寒が走って、思わず耳に当てていた両手で、震え出した首の後ろを押さえる。


 ――い、今、後ろにいた。絶対に真後ろにいた。


 混乱する頭の片隅で、ガラス窓に映らなかったのは練習室の中にいたからだったのか、と他人事のように思う。


 ガラス窓をへだてていれば、内心で恐ろしいと震え上がっていても、まだ辛うじて平静を装えるのに。それが出来るよう練習だってしてきたのに。


 なのに、まさか、あの影が練習室の中に――自分の真後ろにいるなんて!


 悲鳴を上げそうになると同時に、胸の中に「もう無理かもしれない」と弱音があふれ出してきて、絃一郎はその全てを抑え込むように奥歯を噛む。


 その直後。


「寺方くん?」


 耳に馴染んだ声で名前を呼ばれ、顔を上げる。


 いつの間にか鼻歌を止めていた永海は、わずかに口を開けたまま、呆気に取られたようにこちらを見ていた。


 だが、目が合った途端、その顔色が変わる。


 眉間に小さくしわが寄り、視線が悩ましげに揺れて。開いていた口が引き結ばれ、ヘの字を描いていって。


 変化は決して大きく無かったが、普段の表情のとぼしさからは想像も出来ないほど、胸の内の不安や焦りがありありと伝わってくる顔だった。


「……どうしたの?」


 恐々こわごわとした声色で尋ねる永海。


 その瞬間、噛み締めていた力がスッと抜け、「あ」とほとんど息のような声がれる。


 無理だ。


 このまま伴奏を弾くのも。


 永海の歌を聞くと幽霊が見えることを隠し通すのも。


 そんな顔で見られてしまえば、そんな声でたずねられてしまえば、この恐怖がバレてしまったのだと理解してしまう。


 絃一郎が感じたのは、どうしようもないほどの諦めだった。自覚すると同時に、ただでさえ背後の影に怖じ気づいていた心へ、それとはまた別の恐ろしさが膨らんでくる。


 幽霊が見えるから伴奏を引き受けたことを知られてしまう。


 いつか想像した通り、永海に「一緒に歌いたくない」と言われてしまう。


 そんな後悔にも似た恐ろしさと苦しさで胸がいっぱいになって、頭が真っ白になって。


 直後、震えた湿っぽい声が口をいて出る。


「『ひあしのぶ』……って曲、歌えますか?」

「ひあしのぶ?」


 それを聞くやいなや、永海は「ちょっと待ってて」と言い残し、慌てた様子で練習室を出て行った。


 ガラス窓のついた扉が乱雑に閉まり、ガチャンッと大きな音を立てるドアレバー。


 そこで、絃一郎はハッと我に返る。


 ――今、自分は何を言った? 何を永海に頼んだ?


 無意識だった。自分ではない誰かに、口と喉を勝手に動かされたような感覚。聞こえた声も、自分のものとは思えなかった。


 絃一郎の口が言葉にしたのは、どういう訳か、背後の影に耳元で呟かれたものだった。


 ――『ひあしのぶ』を歌って。


 低くかすれた声は、不気味でたまらなかった。それでも、どこか懇願こんがんするかのような口調だった気がする。


 思えば、以前見た影は、永海を見て何かをつぶいていた。影はその願いを永海に叶えてもらうために、こうして練習室の中まで近付いてきて、絃一郎の口を借りたのだろうか。


 いや、まさか。そんな、無念を晴らしたい幽霊みたいな――。


 浮かんできた怪談さながらの想像に、絃一郎は慌てて首を横に振る。


 と、とにかく落ち着かなければ。


 そう自分に言い聞かせて、ピアノの前から離れ、部屋の隅に置かれた椅子へ腰を降ろす。深呼吸して、練習室を見渡す。が、幽霊がいる部屋で一人きりなのだと思い知らされるだけだった。かえって早くなった心臓の音に、思わずうつむいて頭を抱える。


 すると。


「お待たせ」

「う、うわぁっ!」


 出て行った時の勢いのまま、ノックもせずに永海が練習室へ飛び込んできた。

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