第15話

 そうして迎えた、約束の木曜日。

 前回と同じように、声楽部の全体練習を終えた永海と合流して一緒に練習室へと向かう。


 永海が借りてきた鍵の番号は、一二〇。先週と同じ、廊下の突き当たりにある角部屋の練習室だった。


 ピアノの前に座った絃一郎がかばんから楽譜を取り出したところで、弾んだ声が聞こえてくる。


「伴奏はどう? 順調?」

「い、一応練習はしましたけど……」


 ピアノの側板がわいたに手を付いて、身を乗り出すようにこちらを覗き込んでくる永海。目はキラキラと輝いていて、待ちきれないと言わんばかりだ。


 思わず身を引きながらその背後をチラリと見れば、練習室の中央で、楽譜を乗せた永海の譜面台が絃一郎の伴奏を待っていた。とっくに永海は準備が済んでいたらしい。


 そんな期待の眼差しを向けられながら、絃一郎は一度伴奏を弾いてみせる。



 ♪~……



 ふう、と息を吐いて体が力んでいたことを自覚する。


 やはり指は震えたし、肩にも力が入ってしまう。それでも、練習の甲斐あってか、止まらず最後まで弾くことが出来た。

 特に練習した右手の和音は一音だけ音を外してしまったが、音を外しては止まって弾き直していた前回と比べれば大きな進歩だった。


 鍵盤を見つめ、鼻歌も歌わず黙って聞いていた永海は、満足そうに「順調だね」とだけ言った。そうして、またいくつかのアドバイスをくれる。


 それらを楽譜に書き留めながら、絃一郎は密かにホッと胸を撫で下ろしていた。


 永海に「順調」と言ってもらえた。それだけで、全身の強張こわばりが消えていくようだった。まだまだ弾けないところも多くアドバイスも尽きないが、少しずつ一人前へ近付いているのだと実感出来る。


 だが、安心したのも束の間。


 いざ永海の歌と合わせると、絃一郎の伴奏は、途端に思うようにいかなくなってしまった。


 伴奏に集中してしまうと永海の歌が聞こえなくなってしまい、逆に永海の歌を聞こうとすると伴奏を弾く指が止まってしまう。


 それは歌っていても伝わったようで、一曲歌い終えた永海は不思議そうに首を傾げた。


「合わせると、まだピアノを弾くので精一杯って感じだね?」

「う……はい。自覚はしてます」


 図星を突かれ、内心焦りながら肩をすくめる。そんな絃一郎を見て、永海が口角をニッと上げる。


「いいね。僕の歌をちゃんと聞こうとしてくれてる証拠だ。この調子でもっと弾き込んで、そうだな……ピアノを弾きながら僕と喋れるくらいになれば大丈夫」

「そ、そんなの、ほとんど曲芸じゃないですか」

「ふふ、そのうち出来るようになるよ」


 永海の表情は柔らかく、嬉しそうだった。一目見れば、絃一郎の伴奏を楽しみにしてくれているんだな、と嫌でも分かる。


 そういう訳で、今回もまた永海が伴奏の練習に付き合ってくれることになった。


 しばらく練習をした後、ふと鍵盤の上にある絃一郎の左手を見て、永海が言う。


「寺方くんって右利き?」

「そ、そうですけど。何か関係が?」

「右手に比べると、やたら左手の動きが硬いなと思って。弾き遅れてること多いよね」

「あー……」


 左手を広げ、自分の目の前に持ってくる。厚い手のひら。硬くなった指先。どれもそうを弾いて出来たものだ。


「多分なんですけど、箏弾いてるからかも……? 箏って、右手は細かく動かしたり指先使ったりするんですけど、左手はもっぱら力仕事なので」

「へぇ? じゃあ癖なんだ。面白いね」


 横から指が伸びてきて、ツンツンと指先をつつかれる。永海の指は細くしなやかで、綺麗な竹爪だった。


「そういうことなら、もう少し左手の練習を増やそうか。右手に比べたら簡単な譜面だけど、気を抜かないように」

「はい」


 そうして伴奏の練習を一通り終え、永海の歌と合わせながらピアノを弾いていると。


「っ……?」


 突然、絃一郎は強烈な視線を感じた。


 呼吸が止まるような声にならない悲鳴が上がり、背筋が寒くなる。本能的に、鍵盤の上で動く自分の指と耳から聞こえる永海の声に向けていた意識を、ほんの少しだけ周囲へと向ける。


 そうして、気が付いた。


 視界の端に映る、練習室の扉。そのガラス窓の向こうに見える、薄暗い廊下。


 そこへ張り付くようにして、こちらを覗き込む大きな人影。


「ぅわっ?!」

「♪~……――ん?」


 途端、絃一郎はたまらず叫んだ。鍵盤から手を離し、逃げるように椅子から立ち上がる。


 するとすぐに永海も歌うのを止め、絃一郎の視線の先にある扉を見た。


 ピアノの音も歌声も消え、無音になる練習室。


 そこで、恐ろしさでいっぱいだった絃一郎の頭に冷静さが戻ってくる。


 ――し、しまった。演奏の途中だったのに!


 恐怖とは別の嫌な汗がドッと全身にき出した、直後。


 コンコンコン。


 軽やかなノックの音が静かな練習室に響いた。


「やぁ! お邪魔するよ」

「あ、たにやん部長」


 溌剌はつらつとした声と共に練習室へ入ってきたのは、声楽部部長の水谷だった。


 挨拶あいさつするように手を上げ、迎える永海。だが、絃一郎が立ち上がったまま動かないのを見ると、眉をひそめてにらむような視線を水谷に向けた。


「今、覗いてた? 驚かせないでよ」

「ごめんごめん、ビックリさせちゃった?」

「い、いえ……」


 手を合わせて小さく頭を下げた水谷に、絃一郎は辛うじて首を横に振る。


 確かに驚いた。


 だが、あの驚かされた影は、本当に部長だったのだろうか。


 今立っていた影は、部長よりももっと大きかったような。頭の天辺てっぺんが、ガラス窓の一番上まであったように思える。


 見間違い? 蛍光灯の光の加減で部長の影が大きく見えただけ?


 そんな疑問を抱えながらも、絃一郎はドッドッと脈打つ心臓をなだめながら椅子に座り直す。


「お邪魔して悪いんだけど、永海にレッスンの日程で相談があって来たの」

「あぁ、アンコンの?」

「そう。来週からのレッスン、合唱チームにてたくてさ。アンコン以降に振り替えるか、お休みにしてもらえると助かるんだけど、どうかな?」

「うん、いいよ」


 そんな二人の会話を隣で聞きながら、あぁそういえば、と絃一郎は納得する。


 先週、高宮や永海が言っていたアンサンブルコンテストまで、もうすぐだったはず。確か、再来週の土曜日だと言っていたっけ。今が最後の詰めの時期なのだろう。


 それからいくつか確認をして、永海との日程調整を終えた水谷は、続けて絃一郎へと声をかける。


「寺方くん、箏曲そうきょく部の方は大丈夫?」

「はい。普段は自主練習ですし、大丈夫ですよ」

「そう? 確か、箏曲部って二月末に演奏会があったでしょ? その練習があるんじゃないの?」

「よ、よくご存知で……」

「そうなの?」


 素っ頓狂な声を上げたのは、目をパチクリさせる永海だった。

 水谷が肩をすくめ、溜め息をつく。


「もう、それくらい把握しときなさいよ……」

「ま、まぁ、僕もまだ話してませんでしたし……。多分、来週くらいから合奏練習が増えてくるので、その頃になったら話そうと思ってたんです」


 水谷はそう言ったが、永海が知らないのも無理はない、と絃一郎は思う。


 箏曲部の知名度は、堀舟高校の中でも低い方だ。


 吹奏楽部や声楽部といった、高校の顔とも呼べる部活動に比べれば、部員数も少なく設備や環境も整っていない。大会に参加することはあっても、強豪と呼ばれるような成績を収めている訳でもない。


 部室のある伝統芸能棟が本校舎から離れていることも、知られていない理由の一つだろう。他の部活動の生徒からしてみれば、箏曲部が活動している姿を見かけるどころか、箏の音色すら聞こえてこないのだから。


 なので絃一郎は、「箏曲部の名前は知っているけど何をやっているかは知らない」という生徒がほとんどだと思っているのだった。


 それを踏まえて、簡単に説明をする。


「箏曲部は、定期演奏会が二月末にあるんです。演奏するのは一、二年生が中心で、この一年での成果を発表する……っていうのは他の部活と同じなんですけど。衣装がキチンとした着物だったり、卒業生と講師の先生の演奏もあったりして、結構力を入れてやってるんですよ」

「そうなんだ」


 初めて知ったと言わんばかりに目を丸くして、うなずく永海。その鼻先に向かって、腰に左手を当てた水谷がビシッと指を差す。


「永海! 歌に付き合わせるのも程々にしておくこと! いいね!」

「イエッサー」


 威勢の良い声で指令を飛ばされた永海は、力の入っていないフニョフニョの敬礼をしてみせた。


 それを見届けた水谷が「じゃあね、お邪魔しました!」と手を振り、颯爽さっそうと練習室を出て行く。


 練習室のドアレバーを下げ、開いて扉の外へと消えていく水谷。


 その背中を見て、絃一郎は息をんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る