第14話

 翌週の水曜日。約束している伴奏の日の前日。


 放課後の始まりを告げるチャイムが鳴った時、いつもならば邦楽ほうがく室にいるはずの絃一郎は、音楽棟へと向かっていた。


 前回の永海との練習を踏まえて、もう少し伴奏の個人練習をしておこうと思ったのだ。


 そのためにはまず、練習室の鍵を借りなければならない。


 だが、そもそもどうやって借るのか、絃一郎には分からなかった。前回は勝手知ったる永海がいてくれたが、今回は絃一郎一人だ。自分で借りてこなければ。


 音が立たないよう、そっと音楽棟のガラス扉を開ける。


 廊下には誰もおらず、何の音もしない。ただ、どこからか「はいっ」と何人もの返事が聞こえてきて、もう部活動が始まっているんだな、とぼんやり思う。


 絃一郎は、ひとまず職員室へ入ってみることにした。

 永海の行動を見ていて、職員室に行けば借りられる、というところまでは見当がついている。後は、そこにいる先生か誰かにたずねれば何とかなるはずだ。


「し、失礼します」


 少し震えてしまった声で言いながら、やけに冷たく感じるドアノブをそっと押す。


 暖房で暖められた空気が、扉の隙間かられ出てくる。と同時に、鼻をかすめるかすかなコーヒーの匂い。


 職員室は静かだった。


 部屋の中は、本校舎の職員室の半分もない広さだ。手前に簡単な応接スペースがあり、背丈ほどの仕切りを挟んだ向こう側に教員の机が並んでいる。


 壁の一部は天井まで届く大きな棚になっていて、楽譜らしき本や紙束が所狭しと詰め込まれていた。空いている場所に貼られているのは、演奏会のポスターや何かの予定表だろうか。


 部屋の一番奥にはコーヒーメーカーらしき機械があって、その隣の机に昔話に登場するおじいさんのような先生が一人、こちらに背を向けて座っていた。


 その少し丸まった背中に向かって、絃一郎はおずおずと声をかける。


「あ、あの、練習室の鍵を借りたいんですけど」

「はーい、どうぞ」


 おじいさん先生は、優しげな間延びした声で、だが振り返らずに言った。ご自由にどうぞ、ということらしい。


 そう言われても困るんだけどな、と焦った絃一郎は、指を組んだり解いたりしながら口ごももってしまう。


「えっと……ど、どうやって借りれば……?」

「ん?」


 そこで、おじいさん先生がようやく振り返った。


「おぉ! 君はF組の子じゃないね。すまんすまん」


 絃一郎の顔を見るなり、おじいさん先生は立ち上がった。そうして、扉から一歩入ったところで立ち尽くしている絃一郎のそばまでやってくると、柔らかく目を細めた。


「私は音楽理論担当の中曽根なかそねだ。君、お名前は?」

「一年C組の寺方絃一郎です」

「そうかそうか。よろしく、寺方くん」


 小さく頭を下げる絃一郎を見て、中曽根がコクコクとうなずく。


「さっきはすまなかったね。鍵を借りていくのはF組の子がほとんどなんだが、彼らには四月の校舎案内で借り方の説明を済ませてしまうんだ。そのせいで、説明する習慣がなくてな」

「い、いえ」


 そう前置きした中曽根は、絃一郎に鍵の借り方とルールを教えてくれた。


 入ってすぐ左側の壁にあるキーボックスから、鍵を一つ借りること。その後、バインダーに入れられた記録用紙へ日時、学年と組、名前、使用目的を記入すること。使用後はすぐ返却すること。練習以外での使用は禁止。などなど。


 一通りの説明を聞き終えた絃一郎がキーボックスを見ると、残っている鍵は三つだけだった。すでに部活動も始まっているようだったし、ほとんどの練習室は貸し出し済みなのだろう。


 その中から適当に一つを手に取り、キーボックスの真下、棚の上に置かれたバインダーをのぞき込む。


 記録用紙は、既に半分以上が埋まっていた。


 そこに見覚えのある名前があって、絃一郎の目が留める。


『永海律』。使用目的の欄には『独唱 個人練習』とだけ。止め跳ねがクッキリとした、毛筆のような筆使いの文字だった。


 自分も同じように『伴奏 個人練習』と書けばいいのだろうか。そう思い、他の人が書いた使用目的のらんにざっと目を通して、絃一郎はゾッとした。


『トランペット ソロコンに向けたレッスン』。

吹部すいぶフルートチーム アンコンに向けて』。

『声楽チームA 伴奏合わせとレッスンのため』。


 文字だけでも伝わってくる、その熱意の高さといったら。


「これ……お、俺みたいな人が借りていいんですかね……?」

「はは、勿論だとも! 君は永海くんの伴奏者だろう?」


 思わず尋ねてしまった絃一郎に、中曽根は笑い交じりに答える。


 絃一郎はエッと声を上げそうになった。


 まだ自分が永海の伴奏者であるとは明かしていないはずだ。首が飛びそうな勢いで顔を上げると、その驚きが顔に出ていたのか、中曽根が察したようにうなずく。


「君と会うのは初めてだが、話には聞いているよ。そして応援もしている」


 そう言う中曽根の表情は、我が子を見守るような優しいものだった。


「私はここに勤めてもう長いが、カウンターテナーの生徒は過去に何人かいても、彼ほどの生徒は初めてでね」

「カウンターテナー?」


 初めて聞く言葉に絃一郎が首をかしげると、中曽根が声域について簡単に教えてくれる。


「彼の声域ことさ。女声のような高い音域で歌う男性のことをそう呼ぶんだよ」


 高い声で歌う女性をソプラノ、 低い声で歌う女性をアルトと呼ぶように、高い声で歌う男性を差すカウンターテナーという呼び名があるのだそうだ。

 裏声などを駆使して女声のアルトと同じくらいの音域で歌うのが一般的だが、永海はソプラノの音域まで出せるのだという。


「永海くんは、飛び抜けて高く美しい声を持っている。是非伸びていってほしい逸材いつざいだ。しかし、私も指導や伴奏をしたことがあるが、彼は……何というか、苦労しているだろう? だから、のびのびと歌える伴奏者が見つかったのは、喜ばしいことだと思っているんだよ」

「……もしかして、永海先輩に伴奏を断られたことが?」

「はっはっは! その通り。伴奏したのは一度きりだ」


 眉尻を下げながらも、カラカラと笑い飛ばす中曽根。言葉を選んだ様子にまさかと思ったが、そのまさかだったらしい。


 先生相手でも断っていたのか、と絃一郎は呆気に取られた。


 だが同時に、柔らかく頬をゆるめて話す中曽根を見ていると、嫌でも実感してしまう。永海がいかに希有けうな存在で、期待され、大切に思われているのか。


 ――やっぱり自分には、永海の伴奏者は荷が重いのでは。


 不意に浮かんできた考えに胸を刺されて何も言えずにいると、少し下がった絃一郎の肩を中曽根がポンと軽く叩いた。


「励みなさい。ピアノで分からないことがあれば、いつでもおいで」

「あ……ありがとうございます」


 温かな言葉が、胸の中心にストンと落ちてくる。それがあまりにも真っ直ぐ落ちてきたものだから、絃一郎は一瞬言葉に詰まってしまった。


 じんわりと胸の痛みが和らいでいくのを感じながら、ペコリと頭を下げる。


 すると中曽根は、ニッと口角にしわを寄せて子供のような笑みを浮かべると、壁の本棚を指差して得意げに言った。


「もし他の曲も弾きたくなったら、その時は是非とも相談に乗らせてくれ」

「あ、あの中から選ぶんですか?」

「そうとも!」


 目を丸くした絃一郎を見て、中曽根が声を上げて笑う。


 ちょっと笑えない冗談だ。いや、やけに言葉に力が込もっていたあたり、冗談ではないのかもしれない。


 本棚はとにかく高い。絃一郎が手を伸ばして、背伸びもして、ようやく一番上の段に指先が届くかどうか。


 中ほどの高さの段にある楽譜は、背表紙がそろっていなかったり飛び出ていたりと乱雑に入れられて、頻繁ひんぱんに使われている形跡があった。一方で、手の届かない上の段にある楽譜は少しほこりを被っていた。そんな差を見れば、いかに長い間楽譜を保管してきたかが分かる。


 その年月の結果、これだけ沢山の楽譜が棚に収まることとなったのだろう。


 とはいえ、とても選びきれる気はしないのだが。


 本棚の上の方を見つめながら、中曽根が言う。


「ここにある楽譜は大抵弾いてきたからなぁ。まぁ、年寄りのお節介だと思ってくれ。中には、長い間日の目を見ていない楽譜もあってな、たまには弾いてやりたいのさ」


 その横顔は、愛おしさに満ちていて、どこか寂しそうにも見える。


 そこでふと、永海のこと思い出した。


 いつか、愛を込めて『Caro mio ben』を歌いながらも、少しだけ寂しそうにしていた永海。あの時の横顔とよく似ている。


 その心の底にあるものが何かは分からない。それでも、音楽への深い愛情で満たされているに違いない、と絃一郎は思った。




 そうして職員室を後にした絃一郎は、無事に借りられた鍵を手に練習室へと向かった。


 今日借りた練習室は、二〇八。二階の廊下の中ほどにある部屋だ。


 練習室へ入り、手早く準備を整え、譜面台に楽譜を並べてピアノの前に座る。


 楽譜に書かれたメモを見ながら、絃一郎は前回の練習で永海からもらった沢山のアドバイスを頭に思い浮かべた。


 今日重点的に練習したいのは、前回永海から指摘された箇所だ。


 特に、右手の八分音符の和音が続くフレーズ。つまるところ、右手の指二本三本で同時に鍵盤を押すことを、何度も押す鍵盤を変えながら繰り返さなければならないフレーズである。


 次々と移り変わっていく音に指がついていけず、間違いが多くなってしまっているのだ。


 永海からも「弾く鍵盤を指が覚えてないのかもね。音と手の形を意識して覚えれば、もう少しスムーズになると思う」と指摘されているので、ここは弾けるようになっておきたい。


 そう考えながら右手を鍵盤の上に乗せ、絃一郎は練習を始めた。


 それからしばらく右手で苦手なフレーズを繰り返し、左手も弾いて、それから両手で合わせて弾いてみて。


 一息ついた絃一郎は、そろそろ歌と合わせる練習もしなければ、とかばんからスマートフォンを取り出した。前回録音させてもらった永海の歌を再生するためだ。


 何度か画面を操作し、再生ボタンを押したところで、それを楽譜の隣に置く。


 小さなスピーカーから流れてくる、サーッというノイズの音。それから、テンポを取るための手拍子が聞こえた後、聞き覚えのある高くんだ声が歌い始める。


 絃一郎は、鍵盤の上に乗せた手を動かすのも忘れて、その歌に耳をかたむけていた。


 機械を通しても何も変わらない。美しく切なげなメロディを歌い上げる声も、はっきりと聞こえる深く長い息遣いも、そこに永海が立って歌っていると錯覚してしまうほどだった。


 思いがあふれるように段々と熱を帯びていく声が、時折ビリリとスピーカーを振るわせるが、絃一郎の身震いを代弁してくれているようでそれさえも心地良い。


 そうしていると、あっという間に歌は終わり、気付けばノイズの音も止まっていた。


 しまった。練習するつもりだったのに、すっかり聞き入ってしまった。


 椅子に座ったままグッと伸びをして気を取り直した絃一郎は、もう一度再生ボタンを押し――すぐにもう一度押して一時停止する。


 伸びをして、上に持ち上げた腕を降ろした、その一瞬。


 ――今、誰かの視線を感じたような。


 辺りを見回すと、練習室の扉についたガラス窓が目に入った。だが、そこには薄暗い廊下と気の抜けた顔の絃一郎が映り込んでいるだけ。他には誰もいない。


 気のせいだったのだろうか。にしては、少し悪寒がするほど強烈な気配だったのだが。


 とはいえ、誰の姿も無い以上、いつまでもキョロキョロしている訳にもいかない。練習時間だって限られているし、永海との二回目の伴奏合わせも明日にせまっているのだから。


 そう自分に言い聞かせた絃一郎は、何度目かになる再生ボタンを押して、今度こそ伴奏と歌とを合わせる練習を始めた。

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