第13話

 職員室へ鍵を返しに行った永海を廊下で待っていると、絃一郎の目の前を部活動終わりであろう生徒たちが次々と横切っていく。


 そんな人の流れをぼんやり眺めていると、ある女子生徒の一団の中に見覚えのある姿を見つけた。


 楽譜らしい本とクリアファイルを持った、ジャージ姿の小さなお団子頭。昨日の朝、絃一郎の教室まで来ていた声楽部の先輩だ。名前は確か、高宮。


 すると、不意に高宮もこちらを向いた。


 そうして視線がぶつかると、高宮は一緒に居た生徒達と一言二言言葉を交わして別れ、すぐに駆け寄ってくる。


「伴奏ちゃんじゃん! お疲れ様!」

「お疲れ様です、高宮先輩。あと俺は寺方です」

「じゃあテラちゃんね」

「えぇ……」


 さも当然のように言った高宮に、絃一郎は眉を寄せた。慣れないあだ名で呼ばれるとこそばゆいのだが。


 思えば、水谷のことを「たにやん部長」、永海のことを「ながみん」と呼んでいた。人を苗字のあだ名で呼ぶのがお決まりなのだろう。


 距離を詰め、下からまじまじと見つめてくる高宮に、絃一郎は思わず上体をらして逃げる。


「こんな時間までいるってことは~……さては、ながみんに付き合わされてたな?」

「そ、そんな感じです」


 確信めいた口調でそうたずねられ、咄嗟とっさ誤魔化ごまかしてしまった。


 永海に付き合わされていたというより、絃一郎のピアノの練習に永海を付き合わせていたような。と内心では思っていたが、「覚悟しておきなさいよ!」と釘を刺されている以上、とても口には出せなかった。


「道理で終礼に来なかった訳だ。で、そのながみんは?」

「永海先輩なら、職員室に鍵を返しに行ってますよ」

「ふーん? ――あっ、来た来た」


 高宮が受付用の小窓から中を覗き込むように体をかたむけると、ほとんど同時に職員室の扉が開く。


「やっほー、ながみん」

「……」


 人懐っこい笑みを浮かべて手を振る高宮。反対に、出てきた永海は顔をしかめた。


「……何か用?」

「そんな邪険にしないでよぉ。終礼に出そびれたながみんのために、学年リーダーちゃんがプリント届けに来ただけじゃん!」


 不貞腐ふてくされるように言った高宮が、クリアファイルからプリントを二枚取り出して手渡す。

 受け取った永海は「どうも」とは言ったものの、ちらりと興味なさげに見ただけで、無造作に自分のファイルへ押し込んでしまった。


「ちなみに、アンコンについて部長から説明もあったけど、聞く?」

「いい。どうせ行かないし」

「えーっ! ながみん、今年も来てくれないの?」

「うん」


 続けて小さなメモを取り出していた高宮だったが、永海は見向きもせずに歩き始める。


「行くよ、寺方くん」

「えっ?」


 話はまだ終わっていないのでは。それに、高宮も何か言いたげだし。


 そう思って絃一郎がおろおろしていると、噛みつくような顔でベッと舌を出した高宮が、シッシッと手を振った。行った行った、と言いたげなその手に背中を押され、永海の背中を慌てて追いかける。


「い、いいんですか?」


 追いついた絃一郎が心配になって尋ねると、永海は悩ましげに小さくうなる。


「んー……確かに、声楽部員である以上、合唱チームでなくてもアンコンには行かなきゃいけないんだけど。僕、どうしても出られないから」

「あの、そもそも、アンコンって何ですか?」

「アンサンブルコンテストのこと。分かりやすく言うと、少人数でやる合唱の大会だね」


 声楽部が挑む大きな大会は二つあり、一つは三〇人以上で合唱する夏の音楽コンクール、もう一つが一〇人程度でアカペラを歌う冬のアンサンブルコンテストなのだという。


 どちらの大会も、優秀な成績を残せば県代表として地方大会へ出場でき、その先には全国大会も待っている。


 声楽部員達は今、今月末にせまるその予選大会へ向けて練習を重ねている真っ最中。配られたプリントも、その日程表やタイムテーブルらしい。


「そ、それ、めちゃくちゃ大事なんじゃ……?」

「まぁね。でも、先生には話してあるし、大丈夫だよ」

「えぇ……?」


 呆気に取られる絃一郎を余所よそに、永海は淡々と言う。


 ステージに立たなくても大会に行かなければならない、という話は、箏曲部である絃一郎にも覚えがある。


 楽器の運搬や準備を手伝ったり、先輩達や他校の生徒の演奏を客席で聞いたりと、ステージに立つこと以外にも様々な経験を積むことが出来るため、大会があれば部員全員で参加するのが一般的なのだ。


 だが、高宮の話からすると、永海は去年のアンサンブルコンテストには行かなかったのだろう。そして恐らく今年も。

 声楽部に「永海は誰かと一緒に歌うことを嫌っている」という暗黙の了解が出来るくらいだし、他の人の演奏を聴くことが余程辛いのだろうか。


「いや、それもですけど。……高宮先輩はいいんですか?」

「いいって、何が?」

「なんというか、あんなに素っ気なくして。……もしかして、仲があんまり良くないとか?」

「……」


 高宮の話題を出した途端、永海が渋い顔をする。やはり仲は良くないらしい。


 それから永海は、しばらく言葉を探すように視線を泳がせてから言った。


「別に。悪い奴じゃないよ。色々あったけど、それなりに仲良くしてくれるし」


 その言葉を聞き、絃一郎の脳裏へ浮かぶ、不服そうに口を尖らせた高宮の顔。「色々あった」というのは伴奏を三回断ったことか、とすぐに思い至る。


 それだけ断られると嫌になりそうなものだが、コロコロと表情を変えて永海と話す高宮は、初めて絃一郎と話した時と何も変わらないように見えた。むしろ、進んで面倒を見ているような印象だ。


「ただ……あんまり関わりたくはないかな」

「えっ、ど、どうして?」


 相変わらずの淡々とした口調で包み隠さず言った永海に、絃一郎は思わず聞き返す。どこか人好きのする高宮に、まさかそんな言葉が出て来るなんて。


 すると、永海は


「そういうの、音に出るでしょ?」


 とだけ答えた。


 どういうことだろう。性格が歌声に出る、という意味だろうか。……だとしてもに落ちない。


 そんな疑問を頭に浮かべた絃一郎が何か言うよりも早く、永海は苦々しい表情のままわずかに口角を上げて続ける。


「まぁ、『関わらないで』って言っても話し掛けてくるお節介な奴だから、寺方くんが困った時には頼ったら良い。助けになってくれると思うよ」

「えっ、い、言ったんですか。今の、そのまま本人に」

「? 言うでしょ。そりゃあ」


 何を当たり前のことを、と言わんばかりの顔でうなずく永海。


 面食らってしまった絃一郎は、ポカンと口を開けたまま「そうですか……」と首を縦に振るしかなかった。


 素直というか、何というか。


 きっと永海は、自分の内心を偽りなく表に出せる人なのだろう。


 思えば、歌への愛を語っている時もそうだ。たじろぐ絃一郎などお構いなしに熱弁を振るってくるし、それだけでは足りないとばかりに身振り手振りでも伝えてくる。

 気分に合わせて変わる鼻歌や、思いを込めた歌声にだって、永海の心情はよく表れている。


 普段は口数も少なく表情もとぼしい永海だが、見えない胸の内は沢山の感情であふれているに違いない。それを時には歌声に乗せ、時には隠すことなく言葉で伝えて。


 そこで、はたと気が付く。


 ――つまり、一度でも永海に「一緒に歌いたくない」と思われてしまったら、そこで終わりなのでは?


「じゃあ寺方くん、ちょっと待ってて」

「あっ、はい!」


 唐突に話しかけられ、我に返る。


 いつの間にか足元に落ちていた視線を上げると、そこには「男子更衣室」の看板とくもりガラスの付いた扉。


「制服に着替えてくる。待たせてごめんね。すぐ来るから」


 少し早口で言った永海が、小走りで更衣室の中に入っていく。


 その扉が閉まるのを待ってから、絃一郎は今にも詰まりそうだった息を吐き出して肩を落とした。


 いけない。嫌な想像をしてしまった。


 頭に浮かんだのは、「一緒に歌いたくない」と言う永海の姿。そうなったら、絃一郎の伴奏者としての役目は終わりだ。


 きっと絃一郎は、永海の歌を隣で聞くことが――幽霊を見ることが出来なくなるだろう。


 恐ろしかった。これを逃してしまえば、もう千尋と会えるチャンスは訪れない気さえしてしまう。


 だがそれ以上に、言いようのない苦しさに胸を締め付けられてたまらなかった。


 永海はこんなにも親身になってピアノの練習に付き合ってくれたのに、その期待に自分は応えられなかったのか。


 自分の弾く伴奏に永海の歌が重なって一つの音楽になる、あの背筋がゾクゾクするような感動はもう二度味わえないのか。


 そう思っただけで、悔しさとも悲しさともつかない、自分を許せないドロドロとした気持ちがき出してくる。


 ――いや、まだ断られると決まった訳ではないじゃないか。


 頭の中にいる想像の永海を消したくて、絃一郎は思いきり頭を横に振った。


 伴奏は半人前とすら言えない出来だったが、まだ初めて合わせたばかりだ。今日だって、沢山のことを教えてもらった。これからもっと練習を積んで、永海を満足させられる伴奏者になれるよう頑張ればいいのだ。


 そう自分に言い聞かせながら、絃一郎は握った拳でドンと胸を叩いた。

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