第12話

 ♪~……



 ど、どうにか最後まで弾けた。


 弾き終えた鍵盤から指を浮かせたまま、真っ白になった頭で思ったのはそれだけだった。


 震える指は言うことを聞かない。肩の力を抜こうとしてもかえってりきむばかり。音を外しては止まって弾き直し、頑張って覚えたはずの強弱やスラーといった表現は全く頭に無かった。

 これでは曲というより、ただピアノの音を並べただけ、という感じだ。


「うん。弾けてる弾けてる」


 嬉しそうな声に隣を見ると、永海が鍵盤を――そこに浮いたままの絃一郎の手を見つめながら、何度もうなずいていた。


 そこで絃一郎は、ピアノの音が消えた練習室に響くドッドッという音が、自分の胸から聞こえることにようやく気が付いた。


 固まっていた手を膝の上に引っ込めて、絃一郎は肩を落とす。


「そ、そんなに弾けてましたかね。まだ弾き間違えも多いですし……あぁ、ここの音もまた間違えてた……」

「うん。でも、間違えやすい音も、その正しい音も、ちゃんと分かってるなら大丈夫。後は練習だね。もし合わせてる時に間違えちゃったら、弾き直さずに続けていいから」

「は、はい」

「それと、寺方くんはそもそもピアノに慣れてないから、今は強弱とかはそこまで考えなくていい。考えるのは、もう少しミスタッチが減ってから」

「分かりました」


 優しい口調で話す永海の言葉を、楽譜の隅に書き留める。


 役目を終えたシャーペンが譜面台に置かれるのを見届けると、永海はスッと立ち上がった。そして弾むような足取りで、ピアノの横、練習室の真ん中に置かれた譜面台の前へ。


「じゃあ、合わせてみよう」

「……はい」


 その言葉に、絃一郎は少しだけ温かくなった指を鍵盤へ乗せた。



 ♪~……



 たった四小節の短い前奏。そして、絃一郎が弾くピアノの音に、永海の声が重なる。



 ♪Caro mio ben, credimi almen――



 ペダルを踏む爪先つまさきから、鍵盤に触れる指先まで、全身にブワリと鳥肌が立った。


 とても男声とは思えない、高くんだ声。言葉に込められた思いまで歌い上げるような、美しくて切ないメロディ。


 そんな永海の歌が伴奏の上に重なった途端、散々練習してきたそれが全く別の曲のように聞こえた。こんなにも華やかで、胸にじんわりと余韻よいんが残るような曲だったなんて。


 そこでハッと我に返って、思わず聞き入ってしまそうになる意識を慌てて指先へと戻す。


 ――弾かなければ!


 深く息を吸い、胸に手を当て、体を一つの楽器にして夢中で歌い続ける永海。その歌声にしがみつくように、絃一郎も必死に鍵盤を鳴らす。



 ♪――Caro mio ben, credimi almen,

  senze di te languisce il cor.



 歌が終わり、伴奏の最後の音を左手の小指で低く響かせる。


 そうして口を閉じた永海は、余韻に耳を傾けるようにしばらく動きを止めて。


「――……うん。めっちゃ良い」


 小さな声で溜め息交じりに言った。


 どこかうっとりとした言葉を聞いて、絃一郎は重苦しかった胸が飛ぶように軽くなっていくのを感じた。

 と同時に、ドッと疲れが押し寄せてきて全身から力が抜けていく。


 よ、良かった。何とか最後まで止まらずに弾けた。永海の歌を中断させること無く、ちゃんと伴奏が出来たのだ。


「寺方くんはどうだった? 良かったでしょ?」

「そ、そんな聞いてる余裕無いですよ……!」

「ふふ、そう。勿体ないことしたね」

「頑張ります……」


 ぐったりと椅子の背もたれに沈んだ絃一郎を見て、永海が小さく口角を上げる。

 その表情はどこか満足げだ。まだまだ一人前にはほど遠いが、ひとまず初仕事は無事にこなせたらしい。


 それから永海は、自分の譜面に何かを書き込むと、絃一郎の隣の椅子へと戻ってきた。


「今日は、もう何回か歌おう。それから、寺方くんのスマホに僕の歌を録音しておこうか」

「録音ですか?」

「そう。一人で練習する時に流して。今はピアノで精一杯みたいだから、歌を聞きながら弾くのに慣れてほしい。そうすれば、合わせる感覚が掴めるようになると思うから。特に、最後のフェルマータの間の取り方とかね。……ふふ、さっきのはひどかった」

「す、すみません」

「まさに初合わせって感じで面白かったね」

「なら良かったです……」


 永海の言う「最後のフェルマータ」とは、決められたテンポから外れて演奏者の好きなタイミングで歌う最後のフレーズ。いわゆる「溜め」の部分だ。


 本来、歌手と伴奏者が呼吸を合わせて演奏するのだが、初めて合わせる永海と絃一郎の呼吸は、当然合うはずもなく。


 あのフレーズか、とすぐに絃一郎は頭を下げた。だが、永海は楽しげに肩を揺らすばかりで、大して気に留めていないようだった。


「あぁ、それと、録音はあくまで参考程度にしておいて。僕も寺方くんのピアノに合わせて歌うから、録音通りにはいかなくなる」

「分かりました」

「寺方くんは練習しておきたいところある?」

「はい、えぇと……ここの、二一小節からのテンポが遅くなるところ。さっき全然合わせられなくて……」

「確かに。そこは僕も自由に歌いすぎたかも」


 絃一郎が楽譜を指差して言うと、そこに書かれた音符をのぞき込んだ永海がうなずく。


 それから永海と絃一郎は、何度か同じフレーズを繰り返したり、その成果を確かめるように通して歌ったりしながら練習を続けた。


 絃一郎が合わせられるか不安に感じたフレーズを、二人の呼吸が揃うまで合わせて。永海が自身の歌と絃一郎の伴奏とのズレを感じたフレーズを、二人のイメージや表現が合うようになるまで確認して。

 それが一段落すると、まだまだ不慣れな絃一郎のピアノを永海に見てもらって。


 そうして、一通り練習を終えた頃。


 絃一郎は、ふと練習室の小窓に視線を向ける。


 そこにかかったブラインドの隙間から見える景色は、いつの間にか真っ黒だった。


 暮れるのが早い冬の日は、とうに落ちてしまったようだ。練習室に入ってからの体感時間は五分も無い。練習に集中していたせいか、はたまた緊張のせいか、あっという間に時間が過ぎていたらしい。


 満足げに口ずさみながら楽譜を見返す永海。その隣で、もらったアドバイスを書きまとめていた絃一郎は、不意に視界の端で何かが横切るのが見えた。


 ハッとして、自分の楽譜に落としていた視線を上げる。


 そこには、練習室の扉があった。


 扉に付いた、大きな縦長のガラス窓。どうやら、そこを人影が横切ったらしい。


 ガラス窓の向こうに見えるのは、蛍光灯の明かりに照らされた廊下だ。とはいえ日も落ち、ここが蛍光灯から一番遠い角部屋ということもあってか、かなり薄暗い。練習室の中にいる絃一郎と永海の姿も、反射して映り込んでいる。


 そのせいか、横切った人の姿はハッキリとは見えなかった。だが、右から左へ動いたのは確かだ。


 もしかして、練習を終えた誰かが帰ったのだろうか。そう思って時計を見ると、そろそろ放課後の終わりの時間だった。


「永海先輩、時間大丈夫ですか?」

「……あ。大丈夫じゃないね」


 絃一郎が声をかけると、永海が楽譜から顔を上げる。そこにあった小さな笑みが消えるやいなや、永海は立ち上がった。


「終礼出てくる。ちょっと待ってて」

「はい」


 早足で永海が出て行き、防音室特有のレバーのようなドアノブがガッチャンと閉まる。


 それならもう少し伴奏の練習をしていようかな。そう思った絃一郎はピアノを弾き始めたが、一曲も弾き終えないうちに永海が戻ってきた。


「早かったですね」

「全然間に合わなかった」

「そ、そうでしたか……」


 道理でこんなに早く戻ってきた訳だ。


「まぁいいや。今日はもう終わりにして帰ろう」


 本当に大丈夫だろうのか、と心配になったが、永海はどこ吹く風だった。何事も無かったかのように、譜面台の上にあった楽譜をクリアファイルの中に戻し始めている。


 それから「おほり荘まで一緒に帰ろう」という話になったので、絃一郎も帰り支度を済ませ、二人は一緒に練習室を出た。




 練習室の外へ出た絃一郎は、ピタリと動きを止めた。


 あれ、おかしいな。


 さっきの見た人影は、確かに右から左へ動いていた。


 だが、ここは一番端にある角部屋の練習室。出てすぐ左側は、廊下の突き当たりだ。これでは、左へ進めないのでは。


 突き当たりの壁はガラス張りになっている。中央には扉がついていたが、大きな赤い「開放厳禁」のシールが張られていて、アルミサッシにはほこりも溜まっていた。しばらく使われていなさそうだ。


 あの影は、どこへ行ったんだろう?


「? 帰ろう、寺方くん」

「……はい」


 練習室に鍵をかけた永海が、ガラスの向こうをながめる絃一郎を見て小首をかしげる。


 外は真っ暗だ。ガラスには、鼻歌交じりに廊下を歩いていく永海の背中と、立ち尽くす絃一郎の姿が映り込んでいる。


 目をらした絃一郎は、その闇の中にたたずむ影があることに気が付いた。


 やっぱりここから外に出たのか。このシールを見て、誰にも見られないようこっそり出て行ったのかも。そう納得した絃一郎は、影にペコリと頭を下げてから永海の後を追った。

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