第11話

 翌日の木曜日。

 約束していた、週に一回の伴奏の日だ。


 放課後、指定された一六時半より少し早めに音楽棟へ向かうと、入り口のガラス扉の前でジャージ姿の永海が待っていた。


「ちょっ、な、何で中で待ってないんですか!」

「? 寺方くん、まだかなぁと思って」


 ポケットに手を突っ込んだまま、あっけらかんと答える永海。


 その格好は、ウインドブレーカーを一枚着ているだけで、防寒着を一つも身に着けていなかった。冷たい風を避けるように首を縮めてはいるが、癖の無い真っ直ぐな黒髪はすっかり揉みくちゃにされてしまっている。


 まだ一月も半ばだ。空気は肌に刺さるほど冷たいし、風が吹けば体が勝手に震えてしまう。それがまさに今くらいの、日が山にかかり始める時間ともなれば、凍える夜に向かってますます冷え込んでいくばかり。


 だというのに、こんな吹きさらしの場所で待っているなんて。


 早めに来て良かった、と絃一郎は胸をで下ろす。実際は、緊張のあまり時間まで待てず、早く着いてしまっただけなのだが。


 永海の元へ慌てて駆け寄った絃一郎は、迷いなく音楽棟のガラス扉を開けた。


「ほら、早く入りましょう」

「ふふ、うん」

「ど、どうかしました?」


 急に笑い声をこぼした永海に、絃一郎は目をパチクリさせる。


「寺方くん、音楽棟入りづらいかなと思ってたんだけど、心配なかったね」

「……待ち合わせしてた人が凍えてたら流石に入りますよ、そりゃあ」

「そっか」


 それを心配して外で待っていてくれたのか。


 確かに、あんな大騒ぎがあった次の日に音楽棟へ入るなんて、という気後れも絃一郎の緊張させている原因の一つだった。永海には見透かされていたらしい。


 少しぶっきらぼうに答えた絃一郎の横を通り、一足先に永海が音楽棟へ入る。そうして軽やかな足取りでエントランスへ進んだ永海は、待ちきれないといった様子で絃一郎の腕を引いた。




 音楽棟は、堀舟高校の音楽活動の拠点きょてんとなる大きな建物だ。


 C組の絃一郎にとっては、音楽コースであるF組の領域というイメージで、あまり馴染みのない棟である。音楽の授業が行われる第一音楽室にしか入ったことはないが、レッスン室や練習用の個室から小さなコンサートホールまで、充実した設備がそろっているらしい。


 永海の所属する、そして絃一郎が伴奏班として顔を出すことになった声楽部もまた、ここで日々練習を積んでいる。


 声楽部の練習スケジュールは、最初に全体の基礎練習があり、その後はチーム各に別れての練習や講師のレッスンとなっているそうだ。独唱専門の永海はどのチームにも所属していないため、基礎練習が終わると講師がいない日は自主練習の時間になる。


 なので、全体の基礎練習が終わる一六時半に合流しよう、という話になっていたのだ。




 恐る恐る足を踏み入れた音楽棟は、想像よりも静かだった。


 音楽室や練習室かられ聞こえているらしい楽器の音や歌声が響いているものの、喫茶店のBGMのような謙虚な音量だ。所構わず楽器を吹き鳴らしたり歌声を響かせたりしているのかと思ったが、そんな姿は見当たらない。


 エントランスから続く広い廊下には、楽譜や譜面台を持ったジャージ姿の生徒が何人か歩いていた。


 彼らは、永海と共に入ってきた見慣れない伴奏者を興味津々な目で見ていたが、すぐに練習場所であろう部屋へと移動していく。

 きっと、水谷が事前に話しておいてくれたおかげなのだろう。音楽棟へ入った途端とたん声楽部員に詰め寄られる、なんてことにならなくて良かった。


 少しだけ胸が軽くなった気がして、絃一郎は小さく息を吐く。


 が、それだけで胸の重苦しさ和らぐことはなく。


 というのも、今日が初めてなのだ。


 おほり荘の玄関で半ば押し付けるように伴奏譜を渡された、冬休みのあの日。あれから絃一郎は、永海の部屋のピアノで箏を弾く間も惜しんで伴奏の練習をしてきた。


 幸い、譜面は練習を重ねれば何とか弾ける難易度で、最後まで通して弾けるようになってはきている。上手にスラスラと、とまではいかないのだが、永海から「次から一緒に歌ってみようか」と言われていたのだ。


 その「次」が、今日なのである。

 絃一郎が胸に重苦しさを感じている一番の理由は、この緊張感だった。


 上手く弾けるだろうか。

 永海の期待に応えられるだろうか。


 そう考える度に、高宮の言葉に刺された傷口が痛むような気がする。


 ――アンタみたいなピアノ初心者、長続きするとは思えない。


 その通りだと思う。


 たとえ永海に認められていたとしても、伴奏としての仕事を全う出来なければ失格だ。きっと絃一郎も、今までの伴奏者達と同じように「一緒に歌いたくない」と言われることになるだろう。


 あぁ、それだけは嫌だ。


 伴奏者であり続けられるように。


 永海に相応しい伴奏者となって――「聞くと幽霊が見える」という不思議な力を持つ永海の歌を、一番近くで聞いていられるように。


 そうして、幽霊が見えるようになったこの目で、いつかまた千尋と会えるように。


 あの日固めた決意をもう一度心の中で繰り返した絃一郎は、天井を見上げながら小さく踵を弾ませた。


 そのためにも、早く一人前の伴奏が出来るようにならなければ。


 するとそこへ、絃一郎を廊下に待たせていた永海が職員室の扉から出て来る。


「よし、じゃあ行こうか」

「……はい!」


 借りてきた練習室の鍵を片手に言った永海へ、気合いの入った声でうなずきを返す。


 練習室はこっち、と先導する永海の後に続きながら、絃一郎は伴奏譜を抱いた腕に力を込めた。




 進んでいくと、左右に沢山の扉がズラリと並んでいる廊下へとやってきた。


 扉には縦長のガラス窓がついていて、前を通りかかると中の様子がチラリと見える。


 ものすごい早さで指を動かしながらトランペットを吹く男子生徒。息ピッタリにフルートを吹く二人の女子生徒。小さな部屋にすっぽり収まったグランドピアノを弾く男子生徒と、その伴奏で歌う女子生徒。


 彼らが出す個性豊かな音も、少しだけれ聞こえてくる。


 つい絃一郎が首をキョロキョロとさせていると、この部屋一つ一つが練習室だよ、と永海が教えてくれた。


 音楽棟職員室で鍵を借りれば誰でも利用できる小さな防音室で、F組の生徒や吹奏楽部員、声楽部員達がよく個人練習に使っているのだという。

 ここは一階だが、廊下の中程にある階段を上った先の二階も同じような廊下になっているらしい。一体何部屋あるんだ。


 そんな廊下の突き当たりまでやってきて、ようやく永海が足を止める。


 永海が借りてきた鍵で開けた扉は、一二〇。

 他の部屋から漏れる音が届きにくい、一番端の角部屋だった。




「まずは、一度伴奏だけで弾いてみようか」


 そう永海に促され、絃一郎はピアノの前に座る。


 譜面台の黒に映り込んだ自分の顔は土気色だった。緊張しているのがありありと分かる、ひどい顔だ。それを隠すように楽譜を置き、冷たくなった指先をこすり合わせる。


 すると、永海が練習室の隅にあったもう一脚のピアノ椅子を引っ張ってきて、絃一郎の右隣に座った。


 チラリと横へ視線を向ければ、そこには、少し身を乗り出してこちらを見つめる黒い瞳。何も言わずとも、何の表情もなくとも、そのキラキラと輝く目だけで胸をおどらせているのが伝わってくる。


 ……よし、弾こう。


 深く息を吐き、意を決した絃一郎は、そっと鍵盤の上に指を置いた。

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